第10話 閑話休題 その弐

「こんな所に呼び出して何の用だ?」

 薄暗い公園の人気のない噴水の前。

 深夜の今は水も止まり、水面が月明かりに光るばかり。

 街灯もなく暗く影になっているが、お互いが認識しあうのに問題はない。

「今日はデートの邪魔はしてないだろ」

 矢野原は噴水前の石段に腰かけたまま鋼を見ている。

「いい加減に結に付きまとうのも止めろ」

 デートの邪魔はしていない。今日は結がいないのを知っている。

 最初から矢野原は結にひどく警戒していた。今はそれが警戒ではなく威嚇なのだとわかる。

「これ以上、結に何かするようなら俺も考えがある」

「別に、害意はないよ。ちょっとからかっただけ」

 鋼はその返事に不愉快そうに眉を顰める。

 からかう程度で嘘をつかれて呼び出された挙句に、恋人を誘拐されて笑って見逃せるわけがない。

 特に、鋼にとって結は特別な存在で、出会ってからの時間が短くても彼は唯一無二の存在だと思っている。それを同じ種族の矢野原がわからないわけがない。

 本来、矢野原にとっても相手とはそういうものだとわかっているだろうに。

「鋼からも随分匂うようになった……」

 鋼は噴水の縁、矢野原から3メートルほど離れた場所で向かい合うように座っている。

 以前は密着しなければ気が付かないほどだったモノが、この間ホテルへ鋼が駆け付けた時は同じフロアに来た瞬間に気が付いた。

 結から鋼の匂いがするのは当然の事。彼は鋼を受け入れ、その組織の一部を自分の体内に取り込み融合させている。

 そして、その結と交わることで鋼に結の香りが移る。それは単純に匂いが移るのではなく、互いに組織を取り込みあうことで鋼に変化が起きている証。

(洗っても削ってももうこの匂いは消えない)

 ぽつりとつぶやいて俯いたまま何も言わない矢野原を見て、鋼はため息をつく。

 半ば呆れ、半ば仕方なく。

「……誰かに受け入れてもらうってのはそういう事だろう?」

「そうだね……」

「俺は結に出会って、彼を好きになって随分変わったと思う。本当の自分を受け入れてもらえるというのはすごい事だ。それを受け入れてくれた結には感謝も尽きない」

「受け入れさせるのは簡単じゃないか。食事の時に混ぜ込んで酒と一緒にでも飲ませてしまえばいい。そうすれば相手は言いなりだ」

 矢野原は吐き捨てるように言った。

 矢野原の周りには沢山の女性がいて、矢野原は彼女たちに自分を分け与えている。そうすることで彼女たちは矢野原の意のままに動く存在となる。

 彼らのそれは決してお互いに納得したうえでなくてもいいのだ。そっと潜ませてその身の内に宿しさえすればやがて融合は始まり近しい物となる。

「でも、彼女たちからお前の匂いはしても、お前からは誰の匂いもしない。……お前だって、どういう事かわかっているんだろう?」

 鋼にとって自分を受け入れてくれた結は「分かち合う者」だ。

 それは夫婦や恋人のように特別な存在だと鋼は考えている。

 操られるだけの傀儡を「分かち合うもの」とは呼ばない。

「別に、運命の恋人でもないし、彼女たちとセックスしなくても十分に養素は取り込めるし問題はない。俺はそういうスタイルだ」

 自分のことを僕と言うのは繕ったスタイル。鋼には普段から俺という自分を見せている。

 鋼にはその意味が良くわかっていた。

 一番近くで、一番長く一緒に居た同族。

「それでいいのか?」

「それを俺に聞く?」

 矢野原は顔をあげて、睨みつけるようにして言った。

「俺が一番と決めてるのは誰か知ってるよね? それを拒んでるのは他でもない鋼じゃないか」

 同族同士は分かち合えない。

 それはそういう生き物だから仕方がない。

 人間の同性同士よりもっと高いハードル。消滅に直結した禁忌。

「俺が矢野原を受け入れなかったのは、禁忌だからでも何でもない。違うと思ったからだ。結に出会ってわかった。多分、結と分かち合うことが禁忌だったとしても俺は多分を選んだ」

「……わかってるよ」

 矢野原は選ばれなかった。

 1人彼を思うのは矢野原の自由だったが、それは完全に矢野原一人の思いであって、何も結ばずに自分の中だけで終る物。

「人間に生まれてきたら違ってたのかな」

「分からない。俺は人間ではないから」

「……鋼って正直だけどちょっと思いやりがない」

「意味のない期待を持たせることが思いやりとは思わない」

 鋼はじっと矢野原を見ている。

 作り物の人間の皮、この被り物の下の矢野原の本当の姿も鋼は良く知っている。

「きちんと拒絶しなかったから、お前がこんな生活をしてるんだと思えば、俺は……」

「うぬぼれないでくれよ。鋼にフラれたくらいで俺は変わらない」

 元よりそんなに夢中になれる相手がいないだけ、自分を好きだと言って崇拝してくれる女の子たちに賑やかに囲まれているのが一番楽しいだけ。

「それで、本当に良いのか?」

 賑やかに囲んでくれた女の子たちだって、ずっと矢野原の側に居るわけじゃない。矢野原が連れていた女の子たちのなかに同じ顔を見ることは殆どない。

 多くても2~3回、1回しか会ったことの無い子も多い。

 それにすべての相手に会ったことがあるわけじゃないだろう。どれだけの相手に与え続けてきたのか。

「俺は別に彼女たちの中に俺の組織を融合させてるわけじゃない。ほんの少しだけ脳の片隅を支配しているだけだ。俺に対して不都合さえ働かなければすっきりとお別れできる。俺の組織を回収すれば彼女たちは自由になり、回収するときに頭を少しいじれば俺との事も忘れて、関係もそれまでだ」

「結に上書きしようとしたそうだな」

「そんなのただの脅し。やってできないことはないけど、彼はもう鋼に近すぎて、俺が上書きしたら死んじゃうよ。俺が鋼と分かち合えないのと同じ理由で」

 鋼は更に表情を険しくする。

 結と出会ってからいろんなことが変わった。それは自分にとっては良い事ばかりで、幸せと言うものを実感しているが、この古い友人にはそうではなかった。

 自分を想い続けているのは知っている。

 しかし、鋼はそれに応えることはできない。

 それは禁忌であるからと言うだけではなく、彼と交わることを本能的に嫌悪するからだ。

 それはとても感情や理性で乗り切れるものではなかった。

 結を見つけた時に自死と言う禁忌を軽く打ち破った時のように、その禁忌を打ち破るほどのものが鋼の中に湧かなかったからだ。

 鋼はそれをはっきりとこの古い友人に告げた。中途半端な希望を持たせることは思いやりだとは思わなかった。そこできっぱりと諦めて矢野原には先に進んでほしかった。

 そう思うことがおこがましいとわかっていても、そう思わずにはいられないくらいには友人が大事だった。

 その友人がゆっくりと立ち上がって鋼に近づく。

 ゆっくりと手が差し伸べられて、冷たい指先が頬に触れた。

「この姿でなら触れ合える」

「矢野原……」

「俺の名前を呼んで」

「新(あらた)」

 矢野原の気持ちがはっきりとわかってそれを拒否した時に鋼は矢野原の名を呼ばなくなった。

 もう何年も矢野原と呼ばれていて、久しぶりに聞く名前はどこか新鮮だった。

(自分の名前なのに……)

 胸が痛い。

 望んでも手に入らないすごく大切なものが目の前にある。

 遠いところへ行こうと思ったこともあった。

 手に入らないなら壊してしまおうと思ったこともあった。

 今でも、結を壊したら鋼が戻ってくるんじゃないかと思うことがある。

 でも、そんなことは絶対にない。

 鋼は結に奪われたのではなくて、元々矢野原のものではないのだ。

「俺は……俺にはお前を心配する権利はないんだが、それでも古い友人としてお前のことは大切に思っている」

「鋼……」

 矢野原をじっと見つめてくる瞳は誠実そのもの。実直だが不器用なこの男は本当に矢野原を心配しているのだ。

 それが矢野原にとって寂しく冷たい物であっても。

 矢野原は頬に触れていた指先をぐっと後頭部へ回すとそのまま鋼の顔を引き寄せた。

 ぶつかるように唇を合わせて、思い切り唇に噛みついた。

「ッ!」

 鋼が慌てて顔をそむけたが、その唇は少し切れて赤い血がにじむ。

 同じように矢野原の唇にも赤い血。

 これはこの作り物の外装に仕込まれたギミックでしかない。傷もじきに消えてしまうし、痕も残らないだろう。

 でも、記憶には残る。

 こんな月夜に、公園で、二人きりで、唇に噛みつかれた記憶。

 人間のように適度な忘却のない種族だから、どんなに時間が経っても残る。

(鋼に唯一何かを刻み込めるとしたらこれだけ)

 きっと結との思い出はたくさん生まれて鋼の中に積もって行くだろうが、この夜の出来事も記憶に刻み込まれて、針のように時々ちくりと思い出せばいい。

 どうしてこんなことをするのか鋼にも理由がわかったのだろう。

 鋼は苦しそうに目を眇めると、立ち上がり矢野原から一歩離れた。

「行っちゃえよ、結が待ってるぞ」

 矢野原は鋼に背を向ける。

「ああ」

 鋼も立ち止まらない。

 ひらっと手を振って、そのまま公園の出口の方へと歩いて行く。

 足音が遠ざかり、気配が消えた時、矢野原はその場にへたり込むようにしゃがみ込んだ。

「この外装……出来すぎだろ……涙とか……いらねーよ……」

 ぽたぽたとこぼれる涙を手のひらでぐいぐいと拭う。

 しかし、涙は次から次へと溢れて来て、目尻が熱く熱を感じる。

「折角、綺麗な顔に……作ったのに……」

 鋼とのやり取りだってこれが初めてじゃない。

 何度も何度もこうしてやり取りして最後には必ず同じ結末。

 でも、今回は違った。

 きっともう二度と鋼はこうして矢野原と会うことはないだろう。

 鋼はこれからは結を大事にして生きて行くだろう。

 友人としては変わらないけど、こうして特別な時間は二度と訪れないだろう。

 あんな風に最後に唇を合わせることができたのは今まで一度もなかった。矢野原の動きが読めない鋼ではない。

 たった一度だけ、最後の最後だけ。

「そんな優しさ……いらねーよ……」

 矢野原は涙をぬぐうのをやめて、ただ溢れるままにじっと足元に染みが広がって行くのを見ていた。


「俺としてはキスは浮気の範疇だぞ」

 公演の出口に差し掛かる前、噴水広場から抜けたあたりで後ろから声がかかった。

「結、良くわかったな」

 結が近くに来ていたのはわかっていた。ただ、どうしてここに来れたのかがわからない。

「鋼と一緒に居て、俺も随分鼻が良くなったみたい。会いたいなって思ったら、ここに居るのがわかった」

「そうか……」

 さっきとは打って変わって優しい目で愛しい恋人を見つめる。

 結は飛びぬけて美人と言う訳じゃない。女性的なところも少ない。身長も鋼とそんなに変わらず、少し華奢ではあったがか弱くもない。

 どうして彼を選んだのかと言われたら、それはもう運命だたっとしか言いようがないほど彼に出会った瞬間に惹かれた。

 人間に頼らずには40を越えることもできないこの異形の身体で、まさか正体を明かして分かち合うことのできる相手ができるとは思ってもいなかた。

 もしかしたら、矢野原のようにこっそりと誰かに取り込ませて、その養素を摂取するために何とかしたかもしれないけど、こんな風に何もかも明らかにして、組織だけではなく心までも受け入れてもらえるとは思ってもみなかった。

「矢野原にもこうして恋人ができれば……あいつも変わることができるのかな……」

「鋼は、正直だけど、ちょっと優しさが足りない」

 結に言われて鋼は目を丸くした。

 結の口から出たのは奇しくも矢野原と同じ言葉。

「俺は……そんなに厳しいか?」

「優しいとは思う。俺には。あー……でも、やっぱり長い目で見たらこれも優しさかな」

 結が隣に並んで、そっと鋼の手を握る。

「矢野原が、その優しさに気がつけばいいね」

 それがわかればきっと彼は変わる気がする。

「でも、もうキスは許さないでほしいな。わかってても……妬けるよ」

「うん。もう結にしかしない」

 鋼は拗ねたように唇を尖らせた結に軽くキスした。

 啄むように軽いキスだったが、結はぽうっと頬を赤らめる。

「帰ろう」

「……うん」

 手をつないだまま二人は歩きはじめる。

 鋼の中にまた一つ記憶が積もる。

 それは愛する人との幸せな思い出と、大切な友人への希望の記録だった。



――閑話休題

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