第3話 触手な彼氏と出会い編 その弐

 案の定、矢野原は俺のバイト先のカフェに現れた。

 矢野原は俺の前に現れて、ほんの少しだけ接触しては去って行く。

 ストーカーと言うには害が無く、偶然と言うには気に障る。

 だが、この時は珍しく俺と会話が続くほどには長く接触していた。


「ねぇ、キミってさ。ゲイなの?」

 バイト先のカフェに居座った矢野原が他に客がいないのを見計らって話かけてきた。

(どういう話題の振り方なんだよ!)

 自分から公言することはないが、別にゲイだということを俺は隠していない。

 この店のオーナーである親も知ってるし、他に入ってるバイトの子たちも知っている。

 だからってあえて話したい話題でもない。こんな真昼間の明るいカフェのカウンターではなおさらだ。ましてもや、怪しい行きずりの矢野原と話したい話ではない。

「矢野原さんはゲイなんですか?」

 いやらしい方法だが質問に質問で返した。これで俺がその会話をしたくないことを悟れと思う。

 しかし、そんなことを悟れる奴がストーカーになるはずもなく、矢野原は作り笑顔みたいなぺったんこの笑顔で返してきた。そんな笑顔でもイケメンなのが更に気に障る。

「僕は性別が無いから、ゲイとかヘテロとか無いかな」

「はぁ?」

 人形みたいに綺麗な顔のコイツが言うと洒落にならない。

 確かに中性的ではあるが性別が無いなんて……まさかな?

「ははっ、矢野原さんお綺麗だからそんな言葉も信じちゃいそうになりますね」

 俺は何とか営業スマイルを保って、矢野原のコーヒーカップの隣に新しいお冷を置いた。

「信じられない?」

 矢野原はお冷を置いた俺の手をそっとつかむ。本当にふわっとそっとなのに、そのまま俺の手はピクリとも動かなくなった。

「矢野原さん、やめてください」

 俺は声が上ずりそうになるのを必死に堪えながら言った。

 矢野原の顔からは笑顔が消え、ガラスのように綺麗な瞳がじっと俺を見つめている。

「今感じてるのって何だかわかる?」

 矢野原の声色に変化はない。淡々としたからかう様な話し方だ。

 いつもなら軽くあしらえる程度のどうと言うことのない些細なことだ。

 しかし、それができない。

 ピクリとも動かない手のように、視線まで矢野原に縛られているような感覚。

「今感じているのがね、未知なるものへの恐怖って奴。小っちゃいけどね」

 その瞳が怖い。何の表情もないからと言うだけじゃない。ガラス玉のようなその向こうに何か得体のしれないものが潜んでるような気がしてゾワゾワする。

「キミはどうしてそんなに鋼に会いたいの?」

 なんだか矢野原の声が耳じゃないところから聞こえてくるような気がする。

 矢野原から目が離せない。何か答えようにも唇も動かない。微かに開いた唇からは短い息しか吐きだせず、視界が暗くなりそうだった。

「矢野原っ!」

 誰かが矢野原を呼んだ。

 声と同時に不意に体が軽くなり、視界が明るくなる。

 強張っていた身体を無理やり捩じるように声の方へ顔を向けると、いつの間に店の中に入ってきたのか男が仁王立ちで立っていた。

「何やってるんだよ!」

 男はずかずかと大股でカウンターに来て、俺の手を掴んでいる矢野原の手を引き離す。

「鋼さん……」

 俺の口から思わず名前がこぼれた。

 男はその声で初めて俺に気が付いたようで、ハッと俺の方を見た。

「キミは……」

「あ、あの……俺……」

 情けないことに声がまだ震えている。

 やっと会えた喜びに叫んでもいいくらい嬉しいのに、矢野原のあの昏い何かがまだまとわりついているようで笑いが引きつる。

「……驚かしちゃったよね。ごめん」

 鋼は俺の様子を見て表情をこわばらせると、慌てて矢野原を席から立たせた。

「もうこんな事させないから……」

 矢野原は鋼に急かされるままに立ち上がり、ニコッといつもの笑顔を作ると千円札をカウンターの上に置いた。

「ご馳走さま」

 そして、そのまま二人で店から出て行く。

 折角の再会だったのに、会話もままならないまま、会いたいと思っていた人は店を出て行ってしまう。

 でも、俺の手は震え、足は強張り、声をかけることもできない

 ドアが閉まり、完全に二人の気配が無くなって、俺は脱力したように床にへたり込んだ。


 その日からきっかり矢野原は俺の前に姿を現さなくなった。

 やっと会えた鋼との関わりもこれで途絶えてしまった。

 しかも、あんな気まずい状態で。

 矢野原に怯えてた俺を見て、鋼は酷く辛そうな顔をしていた。

 俺は会いたかったと言う事も、その嬉しさを笑顔にすることもできなかった。

 鋼にしてみれば、もしかしたら木の上での出来事は誰かに見られたくない事だったのかもしれない。

 それなのに俺は余計なことをした。木から降りた後、すぐに姿を消したのは俺から離れたかったからかもしれない。

 嫌われている。

 そう思うのは辛いけど、好かれてるとは言えないと思う。

 折角の再会に俺はひきつった顔で彼を見るしかできなかった。

『ねぇ、キミってさ。ゲイなの?』

 不意に矢野原にかけられた言葉がよみがえる。

 矢野原はどうして俺に付きまとっていたんだろう?

 どうして俺を鋼に会わせてくれなかったのか?

 俺がゲイだと答えていたらどうするつもりだったのか?

 冷静に思い返せばよくわからない事ばかり。

 鋼がどうしてあんな木の上に居たのかもよくわからない。

 そこからして可笑しなことだらけだ。普通ならこんな得体の知れないことに近づくのはやめようと思うものじゃないのか。

 俺はどうしてこんな気持ちになるのかわからない。

 木の上で俺を落ち着かせようと撫でてくれていた鋼の手が好きだと思って、彼にもう一度会いたいのだと思っていた。

 でも、よく考えてみれば最初からおかしいんだ。

 俺はそんな誰かが困っているところに自分から助けに行くような正義感の強いタイプでもない。そのために靴まで脱ぎ捨てて気に上ったりするよりは、スマホですかさず警察を呼ぶタイプだ。

 じゃあ、何故?

 鋼に会った瞬間に、何かを感じたからだ。

 この人を助けなくちゃと思う何かを。

 それは決して正義感なんかではなくて……。

「あっ」

 ぼんやりとそんなことを考えていた俺は、手にしていたグラスを滑らせて落してしまった。

 立ったままグラスを持っていたので、フローリングの床に落とせば確実に割れると思い咄嗟に身構えた。

「……あれ?」

 しかし、床に落ちたグラスは割れなかった。

 手から滑り落したまま、ストンと床に真っ直ぐに立っている。

「ええっ?」

 しゃがみ込んでコップを手に取るがコップは割れるどころかひびも入っていない。

 それどころか床には水滴1つ散っていない。

 そっとそこに置かれたように、コップは何事もなく床に落ちていた。

「運が……いいのかな?」

 なんだか良くわからないが、割れずに済んだのは良い事だし、中身をぶちまけずに済んだのも良い事だ。

 こんなに気持ちが落ち込んでる時にコップまで割ったら相当凹むなと思うだけに良かったのは良かったのかもしれない。

(でも……)

 なんだか腑に落ちないというか、奇妙な違和感を俺の中に残した。


 そんなすぐにも忘れ去りそうな些細な出来事だったが、俺の中でそれはしつこく残り続けた。

 鋼とあんな別れ方をして、気持ちが落ち込んでいるせいで神経質になっているのかと思ったがそうではなさそうだった。

「また……?」

 財布から転がり出たはずの小銭がどこにも散らばらずに足元に落ちているのを見て、俺は呆然と呟いた。

 これも初めての事じゃない。コップに始まった違和感は落した小銭、手を滑らせた箸、肘で小突いてしまった小物……いい加減俺もおっちょこちょいすぎるなと思うが、何か落した! やらかした! と思うたびにその被害は最小限に収まり、すべて俺は事なきを得ている。

 別に落した小銭がどこかの下に入り込んだところで、そんなに困り果てたりはしないと思うが、それでも足元にちょんと落ちている方が数倍助かる。

 俺は小銭を拾い上げ、手のひらに乗せた硬貨を眺めるが何の変哲もない普通の1円硬貨と50円硬貨だ。

 その何の変哲もないのが余計気になる。タネも仕掛けもないのに、奇妙な偶然だけが続くのはそれはもうすでに偶然では片づけられない。

 そして、それと同時に偶然と言うには気になることに気が付いた。

 奇妙なことが起こる時、誰かが側に居るような気配がするのだ。

 今日でてくる時も机の上に会った部屋の鍵を何かに引っ掛けて落したときに感じた。

 鍵を拾おうとしゃがみ込んだときにふっと後ろに誰かがいるような気配。

 慌てて振り向いてもそこには誰もおらず、もちろん独り暮らしの家の中にも誰もいない。

 今、小銭を落としたのはコンビニで、後ろに人も並んでいた。だから人の気配はあって当然なんだけど……その人の気配はいつも同じ人のような気がしている。

 小銭を拾ってコンビニを出ようとしたとき、俺はふっとまた人の気配を感じた。

 すれ違った人はいない。でも、後ろから誰かが俺を追い越して出て行った様な感じ。そしてそれはいつも同じ人の気がする。

「やあ、久しぶりだね」

「っ!」

 気配に気を取られていたら、目の前に矢野原が立っていた。

「どうしたの? まるで幽霊でも観るみたいな顔して」

 矢野原はニコニコといつもの笑顔でそこに立っていた。

 でもどこか様子が違う。なんかうすら寒い物を彼から感じる。

「……キミは勘がいいんだね」

 言葉も出ずに立ち尽くしていると、不意に矢野原の顔から笑顔が消えた。

「何を……っ?」

 背筋をぞくっと悪寒が走る。慌てて矢野原から離れようと後ろへ後ずさろうとした瞬間、矢野原に腕を掴まれた。

「放して……」

「どうして諦めてくれないのかな?」

 矢野原はすごい力でつかんだ腕を引き寄せる。

「キミの周りで起きている奇怪な出来事は全部あいつの所為なのに」

「あいつって」

「鋼だよ。彼はキミに憑りついている」

「え……」

 俺の顔のすぐそばで綺麗な顔の矢野原が酷く嫌な感じのする笑い方をして言う。

「側に誰かいる気がするだろう? あれは目に見えないけど鋼がキミの側に居るからなんだよ」

 鋼が俺に憑りついている?

 矢野原が何を言っているのかわからない。

 俺は一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちに焦るが、矢野原には腕を掴まれているだけなのに身体が全く動かない。

「や、やめ……」

「逃げられないよ」

 矢野原はコンビニの前から俺を引きずるようにして駐車場の片隅へと移動する。

 必死に抵抗を試みるが、まるで操られるように手足が矢野原に従ってしまう。

 コンビニからも通りからも死角になる様な物陰に引きずり込まれて、やっとそこで足が止まった。

「僕が怖いって教えてあげたのにね」

 矢野原に掴まれた腕から冷たいものが広がるように俺に絡まりついてくる。

 怖気が広がるだけじゃない。具体的に冷たいものが這いずるように絡まりついてるような気がして、握られている腕を見てぎょっとした。

 俺の腕を掴む矢野原の手の袖口から何か黒い紐のようなものが無数に這い出し、それが俺の腕へと絡まり付いてきている。

「ひっ!」

 俺はその非現実的だが激しい生理的嫌悪を感じる光景に凍り付き、動けないままその黒い紐がうにょうにょと俺の体に巻きついてくるのを見ているしかできなかった。

「鋼が木の上に居た時にどうして通り過ぎなかったの?」

 矢野原は俺の目をじっと瞬きもせずに見つめている。

「あんな得体の知れない状態だったのになんで首を突っ込んだの?」

「それは……彼が怪我を……」

「じゃあ、どうして助けた後も彼の事を気にするの?」

 矢野原はぎゅうっと腕を握る手に力を入れる。それと同時に絡みつく紐のようなものもぎりっと俺を締め付けた。

「余計なことに首を突っ込むからこんなことになるんだよ」

「なに……を……」

 俺の首近くまで這い上がってきた紐のようなものが、ゆっくりと俺の首に巻きつく。

「僕が怖いよね?」

「……」

「でもね、僕と鋼は同じものだよ」

「えっ……?」

 首に絡んだ紐がじわじわと締め付けてくる。

「鋼も人間じゃないんだ」

「くっ……」

 首が締まり息がつまって、どんどん視野が暗く狭くなっていく。

 人間じゃないという言葉が何を意味するのかは分からないが、彼らが異質な存在で俺を否定しているのは何となく分かった。

 矢野原が俺の前に現れていたのは俺に対する監視だったのかもしれない。

 俺が鋼に興味を持っていることを彼は知っていたから。

「……」

 視界が完全に真っ暗になり、身体から力が抜けるのを感じながら、俺は為す術もなく意識を手放した。


 次に目が覚めると俺は気を失った場所から少し離れた植え込みの所に座り込んでいた。

「あ……」

 俺はひりひりと痛む喉に違和感を感じて、初めて、今殺されそうになっていたのだと実感した。

 矢野原は喉がつぶれる寸前まで俺の首を絞めていた。

 彼の目には感情は何もなく、ガラスのような眼で瞬きもせずに俺を殺そうとした。

 その事実を思い返すだけで身体が震えてきた。

 ひりつく喉に触れる指先がぶるぶる震えているが、その震えを抑えることができない。

 肩から力が抜けるように怠く、無理に動かそうとするとどこもかしこもぶるぶる震えている。

 声も出なくて、目からは涙がボロボロこぼれてるけど泣くこともできなくて、座り込んだままでいるしかできなかった。

 そして、少し落ち着いてくると今度は別の恐怖が襲ってくる。

 俺の腕を掴み、首に巻きついていたあの黒い紐のようなもの。矢野原はあれを操って俺を殺そうとした。

 矢野原は自分は人間ではないとも言った。怖い物。怖い何か。

『僕と鋼は同じものだよ』

 同じもの、同じ人間ではない何かなのだろうか?

『彼はキミに憑りついている』

 姿は見えなくても側に居る。

「っ!」

 その言葉を思い出した瞬間、声の出ない喉を絞る様な悲鳴が突き出た。

 気配。ずっと感じていた気配。姿が見えないけど、俺の側に居る。あの怖い何か。

 俺は震える足を無理やり立たせて、よたよたと歩きはじめる。

 矢野原のいたあの場所に留まるのは我慢できなかった。

 身体を締め付けていたあの感触がよみがえって怖気がする。

 姿が見えないならどこに居ても奴が側に居てもわからないし、たとえ自分の部屋の中で一人になっても本当に1人なのかはわからない。それでもあの場所に留まるよりはマシな気がした。

 家路に向かう途中から不安に背を押されるように駆け足となり、マンションのエントランスを駆け抜け、エレベーターを待つのももどかしく、震える手で鍵を開け、ドアを閉めて鍵をかけてチェーンをかけて……そのままへたり込んだ。

「うっ……うぐっ……」

 ドアが閉まっても何の保証もないのに何故か安堵がこみあげてきて、再びこぼれ始めた涙のままに泣きはじめた。

「ううっ……うう……」

 どうしてこんな目にあってるんだか、彼氏にフラれて、ほんのちょっと気になって人助けだと思っただけなのに。その人が気になっただけなのに。どうして……。


 ピンポーン


 俺はビクッと竦み上がった。

 ピンポーン、ピンポーンと続いて二度。ドアのところでへたり込んでた俺に廊下を歩く足音は聞こえてなかった。

 でも、今明らかにドアの向こうに誰かいる。

 インターホンに反応が無いとみると、トン、トン……と控えめなノックが続いた。

 ドアの向こうに居る誰かは家の中に俺がいることを知っている。

(誰だ……)

 そんな心当たりは二人しかいない。こんな時に偶然友達が来るとかあり得ない。

 それに何よりこの気配。ずっと俺の側に感じてた気配。

 そっと立ち上がり、ドアスコープをそっと覗いて、そこに居る男の顔を見て息をのんだ。

「っ!」

 悲鳴をあげそうになるのを、俺はぐっと飲み込んだ。

 ずっと会いたかったのに、今一番会いたくない人。


 鋼がそこに立っていた。



―― 続

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