第21話 耳に残る囁き
おはようございます。皆様いかがお過ごしでしょうか?只今の時刻、午前5時のまだ暗い空の下、私は秋色に色付く公爵家の東屋に立つ木の下で頭を冷やしております。何故こんな朝も明けやらぬ内から外にいるのか?それは……私が見た夢の所為でございます。どの様な夢か、とても口にするのが憚られる様な夢でございますが、聞いて頂けますでしょうか。
その夢の中で私は街娘でございました。そして彩豊かな菓子に囲まれたパティスリーで、給仕の様な仕事をしているのでございます。店の菓子を一口、口に入れてはその顔を綻ばせる貴婦人達。彼女達の笑顔に私は喜びを感じ、そしてその貴婦人を幸せそうな目で見つめる殿方を、私はカウンターの中から見つめているのです。手を取り合い、愛を囁き合うその姿はまるで一枚の絵画の様でございました。穏やかな午後、愛を語らう恋人達。美しい菓子に囲まれて、私は夢の様な世界だと多幸感に酔いしれているのです。
「エリー、新作のコンフィズリーなんだけど。食べてみるか?」
奥のキッチンから声を掛けられて、私は振り返りますが……その方の顔は見えぬまま、手渡されたキラキラと輝く菓子を見つめました。木苺をコーティングした飴は、光が当たると赤紫や青色の光を放ちまるで宝石の様なのでございます。美しい。その言葉以外に思いつかない程。
「まぁ、なんて美しいのでしょうか!食べるのが勿体無いです」
「食わなきゃ腐るんだ。食ってみて感想でも貰えると嬉しいんだけどな」
カウンターとキッチンを隔てる窓から見えるのは、袖を捲り肘を窓枠に乗せたパティシエの方。ですがやはりお顔は見えぬままでございます。私は、手渡されたコンフィズリーを口に入れました。飴自体にも果汁が使われているのか、柑橘系やベリーの香がふわりと広がり、薄い飴を噛み砕くと、中の木苺が弾けそれは素晴らしい物だったのです。
「甘くて、爽やかで……美味しい」
「そうか!美味いか!」
「はい。まるで×××の様に甘くて……とても幸せな気持ちになりました」
「そ、そうか‼︎ははっ!俺みたいだって?俺はこんなに甘くねぇけどな!」
喜んでいらっしゃるパティシエの方の顔は見えず、名を呼んだ筈のその名前も何と言ったのか分かりません。ですが、私は確かに誰かの名を呼んだのです。ですが、誰なのか分からず、夢の中の私を、私はモヤモヤとした気持ちで見ておりました。
「お前をイメージしたんだ」
「え?」
「耳を貸してみろ」
言われるがまま窓に顔を近付けますと、パティシエの方が耳元で囁いたのです。
「お前の様だろ?このコンフィズリー……キラキラして、コロンとしてて……甘くて、優しい。お前の為に作ったんだ、エリー。俺の所に来て欲しい」
これは所謂【愛の囁き】なのだと、色恋に疎い私にも分かりました。そして、その声が誰の物なのかも気付いてしまって、私は驚きと共に目が覚めたのでございます。
しかし、夢から覚めると不思議な事に、そのパティシエの方がどなたなのか、誰の声だったのか分からず思い出せないのです。未だ耳に残る『エリー』と呼ばれた音だけが、確かにその夢を見ていた事を実感させたのです。私は動悸が治らず、顔は熱を持ち、どうすべきなのかと戸惑ってしまい、また眠る事など出来ませんでした。窓の外に目をやりますと、まだ明けやらぬ闇だけがそこにあり、まるで【おいで】と誘われている様に思え、外に出たのでございます。
「何故あの様な夢を見たのでしょう?はぁ……きっとメリー様達の所為ですわね……恋、ですか。それこそ夢物語ですわね」
昨晩のウィリアムとメリーのやり取りの後の事ではあるが、その事がきっとあの様な夢を見せたのだとエリアリスは、赤らんだ頬を両手で包み目を閉じた。
食堂でのやりとりの後、3人はそろそろ寝ようと自室に戻る事にした。エリアリスの先を歩くウィリアムとメリー。筋肉が隊服の上からでも分かるしっかりついた腕に、細っそりとしたメリーの手は乗せられていて、階段を共に気遣いながら登る姿を背後からエリアリスは見ていた。ゆっくりと、メリーの歩幅に合わせて歩くウィリアム。メリーはそんなウィリアムを見上げ微笑みながら何かを話していた。まぁ、その会話は互いを罵り合う言葉なのだが、それを知らぬエリアリスは2人を眩しい物を見る様に見つめていた。
自室が並ぶ3階のフロアに辿り着き、一番手前のメリーの部屋の前で腕を下ろしたウィリアム。彼は部屋に入ろうとするメリーの腕を掴むと、強引に引き寄せ何かを囁いた。彼等の横を通り過ぎたエリアリスには、そんなウィリアムの『メリー』と低く艶のある声だけが聞こえたのだった。異性に免疫の無いエリアリスにとって、その『メリー』と呼ぶ声がまるで見てはいけない、聞いてはいけない物の様に感じた。そして、黙って通り過ぎたエリアリスは、2人に声を掛けず部屋の扉の前で頭を下げてそっと部屋に戻ったのだった。
熱情、蠱惑、淫靡、妖艶、誘惑。そんな言葉が先に立つ程、ウィリアムの声が、言葉がメリーの中に眠る何かを刺激していた。
「私が恋をする事などあるのでしょうか」
物心ついた時には、既に婚約者として第二皇子がおりました。お顔も、声も、そのお考えすらも知る事無く私は婚約破棄となり、一体何の為に5年もの間妃教育を受けていたのか……。本来ならば、同年代の方々と同じ様に学園に通い、学び、時には学友の方々と街に遊びに行く。そんな事もあった筈です。ですが、私は家と後宮の往復しか許されず……決まった席でしか殿方との会話は許されませんでした。モンフェルト伯爵令嬢からは『面白味の無い方』『無知』『愚鈍』と言われましたね。私もそう思います。恋愛すら知らず、己が何の為に皇子妃となるのかも分かっていなかった。こんなにも芯の無い人間を、誰が愛してくれると言うのでしょう?私ですら私が疎ましいと感じるのに。
「誰かそこにいるのか?」
花壇の茂みから声がして、エリアリスは慌ててストールを頭から被るとその場を後にした。こんな時間に1人外で何をしていたのか、追求されると面倒だと反射的にエリアリスは思った。
「待て!」
背後から腕を掴まれ、エリアリスは振り返る。見上げると、サラリと髪を揺らすウィリアムがいた。
「エ、エリアリス殿⁉︎」
「ウィリアム様!」
「ど、どうなさったのだ?こんな朝早くにこんな所で!」
「ウィリアム様こそ……何かあったのでございますか?」
「いや、私は稽古の為に毎朝この時間、あそこの東屋に居るのだが……人影が見えて来てみたら。貴方がいた」
「すみません、お稽古のお邪魔をしてしまいました!」
「いや、良いんだ。それよりも、この時分は冷える。中へ入ろう」
背を押され、エリアリスは暖炉のある部屋へとウィリアムと入る。ソファへと座る様に促され、ふかふかのソファに腰を下ろしたエリアリスは、暖炉に種火を落とすウィリアムの背中を見つめた。
広く大きな背中。捲られた袖から見えるその腕の逞しさに、エリアリスは夢に見たパティシエの腕を思い出した。夢の中の彼の方も、ウィリアム様と同じ様に鍛えていたのだろうか?そんな事を考えるエリアリス。ここで夢の男とウィリアムが繋がらない時点で、エリアリスの恋愛偏差値の低さが見て取れるのだが、さて、これがきっかけに恋愛へと彼女は意識を向けられるのだろうか?
「私も……ウィリアム様の様になれますでしょうか?」
「エリアリス殿?」
「その様な逞しい肉体を持てたなら、私も誰かを守れたりするのでしょうか?」
「如何なさったのだ?何か嫌な事でも?」
「いいえ、何故かウィリアム様を見て羨ましくなったのです」
向き合う2人。静かな部屋にはパチパチと火が爆ぜる音が響いた。
やはり、彼女の恋愛スイッチはまだOFFの様である。羨ましく思えたのはウィリアムを、では無くそんな彼に大切にされている様に見せているメリーであるとまだ彼女は気付いていない。
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