第9話 劇の始まり

 没落へ王手、リーチ、ツモの状態の元第二皇子婚約者であった伯爵家令嬢エリアリス•テルメールは、モスグリーンで統一されたシックな装いでダイニングルームの扉の前で立っていた。



「では、皆様こちらにお揃いで御座いますので、中へどうぞ」


「はい。ありがとうございます」


「では」


ハウス•スチュワートとメイド長が扉に手を掛け、双方降りる事も、止める事も出来ぬ舞台の幕がついに開かれようとしている。



ガチャ



 目の眩むようなシャンデリア、光に照らされピカピカとその光を返す銀食器の数々。皇子妃教育の際に使った部屋以上に豪華絢爛なそのダイニングルームには、当主であろう公爵と、その子女が既に席に着いてこちらを見ていた。

エリアリスは、一歩中に入ると美しいその立ち姿のまま少し、本当に少し口角を上げて微笑み挨拶をした。


「この度、ガヴァネスとして御招き頂きました事、感謝申し上げます。私、テルメール伯爵家より参りました、エリアリス•テルメールと申します。未経験の事も多く、何かとご迷惑をお掛けする事もあるかと思いますが、何卒宜しくお願い致します」



「エエエエエリアリス殿、そ、そう硬く無くとも良い。さぁ、お、お座りなさい」



ウィリアムは緊張していた。その無駄に付いた胸筋と上腕二頭筋に力が入りジャケットの裏地が破れる程に。

そして、この喜劇の幕を何とか無事に開けさせなくてはならないと、弟妹、従姉妹も緊張している。特に、レナウスはウィリアムのフォローをメリーに頼まれていた為、どんなレシーブも、サーブも、トスも見逃さない勢いで周囲をキョロキョロと見渡し、まるで壊れたミルク飲み人形の様に瞬きをし続けていた。



「失礼致します」



流石、皇子妃教育を受けただけあって、エリアリスが歩き、席に着くまでの所作は、アナスタシアやメリーですら息を飲むほど無駄が無く美しかった。


 なる程。兄様がこの方を美しいと常々口にしている訳が分かりましたわ。ですが、それは……振る舞いの事であったのですね。少し、肩透かしを喰らった気分です。でも、まぁお顔立ちは素朴ですが、ロマンスの相手として兄様の隣で微笑む姿が想像出来なくはありませんね。美男美女フィルターオンですわ。


「ああああああ兄上‼︎」


急に大声を出したレナウスに、ウィリアム、アナスタシア、メリー、ハウススチュワートのヘイス、メイド長カリナがビクリと肩を震わせた。



「な、何だ突然その様に大声を上げて」


「か、か、家族のしょ、紹介をしなくては?」



何故疑問系‼︎


その場に居た誰もが同じ事を考えた。

しかし、早めに展開を進めなくてはと焦るレナウスは捲し立てた。



「ぼ、僕はレナウスです!あれが妹のアナスタシア、彼方が従姉妹のメリーです!で、こちらが当主となった兄上のウィリアムです!メリーは兄上の婚約者役、僕とアナスタシアは補佐をします!後、僕は学校で主席になりたいと思っていますし、アナスタシアにも良いご縁がある様エリアリス先生にマナーや女性としてのあるべき姿を教えて頂きたいと思っています!ゆくゆくは、兄上を1人の男性として見て頂きたいのですが、兄上はかなり奥手ですし、女性とのお付き合いの経験がありません!ここもエリアリス先生に何とかして頂きたいのです!宜しくお願いします!」



「「……」」



 その場に居た誰もが沈黙した。

ウィリアムは、上がった筈の幕がストーンと降ろされた事に胃液が逆流するのを感じ、メリーは己の書いた台本がビリビリに破かれドブに捨てられる光景が眼前に広がり絶句した。使用人達は呼吸を忘れ、己の磨き上げた靴を見つめながら『この馬鹿坊!』と内心罵っている。

そんな中で、唯一アナスタシアが冷静で、ニコリと微笑みエリアリスに声を掛けた。



「先生、私。アナスタシア•メルロートです。最近、刺繍が上手く行きませんの、お食事の後教えて頂けますか?」


「え?あ、はい!刺繍でございますか?」


「サテンステッチを習いたいのですが、クロスステッチもまだ覚束なくて」


「畏まりました。では、今日ですと遅い時間となりそうですから、クロスステッチを明日より復習致しましょう」


「はい!先生!」



 アナスタシアのナイスフォローにも関わらず、一度崩れた前線を立て直す事は困難であった。沈黙に誰もが次の一手を指せずにいる。ダイニングルームには、5代前の当主が皇帝より下賜された掛け時計の針のカツ、カツという少し硬い音だけが響き、たったの1分が1時間の様に感じられた。



「ゴホン……失礼した。エリアリス殿……私はウィリアム•メルロート。先月より先代当主より爵位と家督を譲り受け、当主となった。私も未熟故、迷惑を掛ける事もあろうが……その時は貴方にも力を貸して貰えると嬉しい」



レナウスの失態で、緊張と焦りがふっと軽くなったウィリアムは、練習では一度も上手く行かなかった柔和な笑みを作り、エリアリスに微笑み頭を下げた。



「勿体無いお言葉でございます。私も、ガヴァネスの経験も無く、何がお教え出来るのか……不安もございました。皆様も同じく……始まったばかりのご様子でございますので、共に学び、教わり……成長出来ればと思います」



エリアリスは、何故か可笑しくなってクスクスと笑いながら涙を溢した。緊張、不安、恐怖、絶望。知らず知らずに心の中にあった負の感情が、同じく緊張しながらもエリアリスを受け入れようとする公爵家の面々の奇行に、溶けて消えて行くのを感じていた。



「エリアリス殿?如何された!ど、どこか具合でも悪いのか?」


「先生⁉︎あ、アナスタシア!医者!医者!」


「落ち着いて下さいまし!ヘイス!ペルノーをお持ちして!」


「酒じゃないか!医者だ!」


「あわわ!甘い物は如何?先生!心が落ち着きますわ!」



ロマンスの舞台はコントへと変わり、コントは喜劇へと変わった。そして歌劇と変わり始め、フルートの華やかな旋律が聞こえ始めている。



「いえ、違うのです。私、不安でした。妃教育の様に……辛い日々がまた始まるのでは、私の醜聞が公爵家の皆様をお辛くさせるのでは……と。ですが、皆様はこの様に私の様な者を受け入れて下さり……とても、とても嬉しかったのです」



「エリアリス殿……」


「まぁ……エリアリス様、その様な事をお思いでしたの?」


「「先生」」



涙を拭いながら、穏やかな笑みを皆に向けるエリアリスは、この瞬間まで何処か捨鉢の様な境地に居た。

皇妃の強引な領地の分割譲渡、廃業寸前の事業の押し付け、理由も無く言い渡された婚約破棄。領民を見捨てるしか無い伯爵家の現状。全てが己ではどうしようもなく、パン屋で働きたいという夢を描きつつも、現状では身を売るしか家族を守れない事も分かっていた。だから全てを諦めた。しかし、そんな人生を捨てた彼女に救いの手が差し伸べられた。

そう、彼女に一目惚れした公爵によって。



「改めて、御礼申し上げます。私を、当家をお救い頂いた事……どれ程礼を尽くしましてもお返しする事が出来ぬ程ではございますが、私の全てを賭けて、皆様に尽くしたいと思います」



美しさとは何なのか。

容姿?その立ち振舞?

いや、それらはただの装飾品でしか無い。


美しさとは、強さ。

踏み潰され、流され、汚されても尚、己を捨てず笑える強さ。

それが、美しいという事なのだろう。


それが例え、パンで言えばライ麦パン。ケーキで言えばパウンドケーキ。肉で言えばミンチボール。酒で言えばミードでも、おおよそメインにも、贈答品としても選ばれぬ物。だが、それらの味が、強く誰かを惹きつけるのであれば、それはとても美しい味なのだ。


 ふわりと微笑む花の蕾の可憐さに、公爵家の面々は簡単に落ちた。

道端に転がされた高価だった筈のガラスの破片。さて、どう磨かれ光輝くのか。彼女、彼等の舞台の幕はこうしてまた、緩やかに上がった。

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