画一的リングサイド2

10

「朝餉を食べなさる方は浮向さんだけですね」

はい、とだけ短く応える。


「準備は今すぐにでもできますから、迷いはしないとは思いますけれど、目的地へ行くのは初めてですし、一緒に行きますか?」

それとも浮向さんの準備出来次第、後でこちらに呼びに来ましょうか?と女将は二者択一を僕に迫る。


「いえ、準備は特に無いので、行きましょう」

ドア越しの隠している光景を見せないように、自分だけ振り向き少し見やる。

 たまに思い立ったら、何かをして、何かをし終えると、死んだようにパッタリと椅子の上で動かなくなるを繰り返している自称殺し屋の少女。


 何をしているのか意味不明、内実はともかくとして背の低いことを除いて、その容姿の優れたるや。僕は今すぐにでも離れたくなる。

倫理的に。


 そんな気持ちが後押しして、即決即断に繋がっているから優柔不断で売る僕には塞翁が馬だが、この程度ではまだ馬が死んだだけだ。いや、社会的に瀕死なのは僕か。


 女将の目を見るのが怖い。


「では行きましょうか」


 手汗の滲む、木の壁からゆっくり手を離すと、後ろ手にドアノブを持って、扉を閉める。


 僕を先行するためか、はたまた隣にいたく無いのか、ほんの先に女将は動き始める。その黒い着物の背を見て、僕は置いていかれないためか、はたまた隣に居させてもらうためか、須臾しゅゆの間をもって動き始める。


「趣味嗜好は自由だと私自身は思っておりますゆえ、別に気にしてなどおりませんよ」

決して、と語尾に強く接続する。


「いえ、違いますよ。違います。決して、そう言った何かのそれでは有りませんから」

 しどろもどろになって、挽回の弁解を試みようとするが、ダメだ、何を言おうとも、何か言おうとすると、ホンモノのそれっぽく聞こえてしまう。


「大丈夫ですよ。理解していますから。ほらあれですよね、聞いたことがあります。ロリコンと呼ばれるのでしょう?」

 前を向きながら、歩みを続ける女将の表情が窺えない。凍てつくように感じるこの隙間に赤い絨毯が嫌に目につく。


「本当に違います。違いますよ。ロリコン、つまるところのロリータコンプレックス。少女、幼女への恋愛感情や、それを持ち得る人間というわけでも無いのです。そもそも、ロリコンというのは、精神医学上、小児性愛、ペドフィリアとは認められているものの、同じく、精神医学上は性嗜好障害とは認められないわけです。であれば、社会倫理上決して許されない性嗜好でありますが、学問上は存在として、おかしく無いものであるのです。ロリコン、ロリコンと非難するのはつまるところ正常者を異常者だと、貶める行為に他ならないのです。つまり、えと、人を非難するのではなく、ちゃんと、具体的に行動と嗜好の思考を区別して、理解することが……」


 プッと、女将の方から、音がした。

「アハハハ、そないに必死に、弁護に回ってしまいますと、本当にそのような嗜好の人みたいですよ、浮向さん」


 また、上品に笑う女将に、毒気を一気に削ぎ落とされ。こちらも釣られて、頬が吊り上がる。


「分かっていますとも、あなた方、弱座よわりざさんと、浮向うわむきさん。決して、二人がそのような関係にないことも理解しておりますし、安心してください」


 どっと、肩から溶け落ちる。心臓が肋骨を通り抜けて落ちてしまいかけるのを、手で押さえて、ほっと一息つく。いや、しかしこれもまた揶揄からかわれているだけなのではと疑心暗鬼に陥る。


 「でも、何も証明していないですよね」などと流れるままに、信用して欲しいという気持ちが、それでも信用していないのでは無いかと言う、疑いへと進化する。

 弱々しく、続く言葉を待つ。


「招待状、それがこの旅館に泊まるための一つの方法です。ある方が、あるルートでのみ、流用する招待状。それを受け取った者はそのある方が証明した、信用のある人として、優待されている訳です」

「それを今回お持ちになったのが、小さな少女、弱座よわりざさんだったことに驚きはしましたが、これも経験の差ですか、人を見れば、その人の大きさが分かるのです」

「器というか、存在感というか、何かが、いえ、何もかが大きいと表現できましょうか。巨大で、巨体で、恐怖です」

「そして、だからこそ、あなたという存在は私にとっては意外すぎるほどに意外で、普通に映ってしまった。あなたは彼女に対して、まだ小さい。小さすぎるほどに小さい、比べるのも、笑ってしまうほどに。そして、比例して弱い人間であるとも見受けられます」

「あなたはやはり初めて話をした時よりの印象と違わず、普通です」

「でも、決して気落ちすることは無いですよ、人の大きさというばかりが、人の全てではありません」


 女将がこちらを振り向く。振り向いた女将の顔が塗りつぶされているように黒黒と染み込み抜けていく。白い首元、白い手。対して、黒にパッタリと抜きん出る赤の紅の垢垢しさが、その姿を歪ませる。


 巨大で、巨体で、恐怖で、その三項目が彼女の周りを覆っている。何を見ている、この人は何をしており、何を知っている。


「すみません、慰めのようになってしまいましたね。いえ、これは慰めでは有りません。直感ですけれどね」


 直感。今この瞬間において、どんな公明な宮司よりも信憑性のある直感に感じた。大きさに猜疑心さいぎしんが食いつぶされている。


「招待状、あなたの分の招待状も、弱座よわりざさんからもちろん貰っていますが、私の経験上、あなたのような人が招待状を手に入れることに成功したということは有り得ません」

「決して、どんなにお金を積もうと、実績を積もうと、来ることが出来ない人は来れない」

「来たくて、来れるようなところでもなく、また、何も持たずして、帰れるような場所でも有りません」

「ですから、あなたにはこの旅館で最高の時を過ごされることをお勧めいたします。私たち、従業員ともどもはそのためにここで働き、そのためだけに生涯を終えるつもりですから」


 気がつけば、女将の姿は元の美人に戻っていた。

 目を擦り擦りしている間に、女将はひと微笑みすると、また先に歩き始めてしまう。


 僕はここへ、ここから帰るつもりなど一つも考えていなかった。何かを得る前に、全てを失うために来たはずである。


 何かを想像だにしない何かを持ち帰るとして、だからと言って、あの世界に、空間にまたもう一度でも踏み込まなければいけないというのなら…


 よし、大丈夫だ。淡い期待に魅せられることは無い。暗い猜疑心のカスがまた猛る。


 僕はまだ死ねる。心に文字を浮かばせる。

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