画一的リングサイド
9
コンコンッ
「失礼致します」
「はい、どうかしましたか?」
「ああ、いえいえ。それよりもそんなに汗をおかきになってどうかなさいまして?」
脂汗を拭いながら、ドアを少しばかり開けて、その隙間より体をのぞかせる。
そこには先ほど部屋まで送ってくれた白い女将が立っていた。
相手方の姿に何かを思ったのか、奥を覗こうと少し動く女将に合わせて、こちらも体でカバーする。
決して、見られてはならない。中で剣を振り回している少女がいることも、ただ少女がいることもバレるわけにはいかない。
「いえ、少し運動をしていまして、すみません。うるさかったですか?」
「いいえ、部屋の軋む音すら少しも起きないほども静かでしたけれど、まるで今急いで、全速で走っただけみたいに」
女将の紅が凹む。何か怪しむように、けれど奥ゆかしさが見え隠れする。
マズいと思ったが、誤魔化すしかない。
「あれかな、あの時かな、そう筋トレをしていたんですよ。筋トレ。いやーあったまったなー」
「筋トレですか、こんな宿に入って途端に筋トレなんて、それはまた男らしい人ですねぇ」
「それほどでも有りません。本当にありませんよ。えと、そう趣味の一端というか、一種というかですよ」
趣味なんてほんの少しも無いのだけれど、皆無だけれど、咄嗟に出てしまった言葉が趣味であった。明らかにこれは不味いパスだった。
「趣味で筋トレですか。確かにスタイルもよろしいですし、体も大きいですものね」
はい、そうなんです、と返る言葉に返す言葉をオーバーに重ねる。
普段なら、こんなお世辞に「そう」とは決して返さないのだけれど、言葉が変に切れてしまわないように、関係の不味くならないように不味い状況を脱したいという気持ちだった。
「趣味でなさっているということは場所とかも意識してなさるのでしょう?」
質問が深みに入り込む。趣味と答えることで、質問へのハードルが高くなってしまっているのだ。
意識しないと言っても構わないが、それでは旅館内でいきなり筋トレを始める真っ当な理由に当てはまらない。真っ当な理由というより、真っ当な人として当てはまらないなんてことも考えられる。
壁を掴む左手に汗の滲む感覚がありありと流れ込んでくる。対して、着物の慇懃、声の落ち着き、肌の色、観察できる全てが初めてあった時のように変わらない女将。その落差にさらに温度がそそり上がる。
「場所?もちろん意識してますよ」
へぇ〜どこら辺を鍛えますの?と女将は興味深そうに質問する。
縮小色の黒い着物がさらにぐっと距離を縮めるような錯覚に陥らせる。
どこを鍛えるのか、僕だって教えて欲しいくらいだけれど…。どうすれば良い。
後ろにいる、自称殺し屋にでも少し聞いておくべきだった。本物だろうが、偽物だろうが、本物らしくあるのなら最低限度の筋力は付けてるはずだろうし、知識も僕よりは遥かにあるはずだ。
少し後ろを見やると、まだボストンバックの中をいじる自称殺し屋のちびっ子がいる。誰のことを庇って僕が今、戦っているのか分かっているのか?
ちくしょう、気にしているだろうから、心の中で恨みがましく、ちびっ子って連呼してやろう。
ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子、ちびっ子…
「お客さん、浮向さん、どうかなさりましたか?まるで、心ここに在らずというかでしたけれど」
「そのちびっ子が、いえ、何もありません。こちらの話です。えと、何の話でしたかね?」
「浮向さんがどちらをお鍛えになるのかなと言うところでした」
そうだった、真剣に頭から軽く抜けていた。どうするか、無難に大胸筋とかか、いや、足の筋肉ならともかく、胸板は服で隠せまい。
着痩せするんですよ、とでも言えば間に合うか?いや、それも危うい…
「肩です。よく肩を鍛えるんですよ」
「肩…ですか」
とまた、興味深そうに女将はこちらに目を向ける。
真剣にその話を聞く姿勢に、真っ直ぐ一心があって、人間的に惚れてしまいそうになるほどであったけれど、それと反比例して嘘が心臓に痛々しく突き刺さる。
「肩ですね、主に
さっき仕入れたばかりの新鮮な情報を虚偽のプロフィールとして、放流する。
老後への積み立てとか、痛烈すぎる嘘だったけれど、何とか言い終えた。
「男手として、いざという時に役に立とうと思ってらっしゃるのですね。素晴らしいと思います」
ニッコリという顔を決してしないようなタイプの女性だと思っていたが、こうも近距離で接していると、その表情のバリュエーションが見て取れた。
それでも、ニッコリとは言えないが、微笑む程度は捉えきれる。冷たさというか、大人っぽさの合間に見える表情はどこかやけに子供らしい。
「ところで、何か用があって、ここへ訪れたようでしたけれど?」
「あぁ、そうでした。少しばかり伝えることがあることを忘れていました。申し訳ございません」
頭を下げるその姿はまた大人らしさで出来上がり、流れる水のように自然的に、あるがままである。
釣られてこちらも頭を少し下げる。
「朝餉の準備が整いましたけれど、
朝ご飯は抜いている。自殺の前に味の濃いものを食べたく無いという意見もよく聞くが実際なってみると、食欲は
二の句も考えず、了承した。
旅館の朝ごはんと言うものに少々期待が膨らむ。
「了解しました。浮向さんは朝餉ありという事で承りました。ではお連れ様はどうなさいます?」
「お連れ様はー」
えっと、あれお連れ様だと、そう言ったか。
そう言えば、チェックインを先に済ましていたんだったか。
いや、まさか違うよな。これは確かめなくてはならない。
「あの改めて聞きたいのですけれど、僕らの、そう、僕とお連れ様の予約はどのように、正確にはどのような年齢で聞かれていますか?」
天下の、伝説の殺し屋だろうから、そんなヘマはしないはずで、例の人形、
まさかまさか、そんな実年齢で書くやつが居るわけ無い。
「ええと、浮向様はあなたの年齢で、もうお一人、
まさかまさかは無かったが、一桁を書いてたりすることは無かったが、名前の欄を本名はニアピンでアウトである。
「弱座って聞いたことありますか?」
余裕が無さすぎる状況だったために、質問はど根性ストレートになってしまう。
「いえ、一向に聞き存じませんが、どちらかで有名な方なのですか?」
「いえいえ、いえいえいえ、滅相も、説法もありませんよ。何もありませんとも、ありませんとも、裏も憂いもありませんとも、ええ有りません」
あまりの必死の猛勢に、一瞬引かれた感がみられたが、背に腹は変えられない。
「その僕のお連れ様はあれですよね。20歳とは言っても、強面の、黒黒しい、やさぐれた感じの男ですよね。まるでそう、人殺しでもやってそうな」
人殺しという言葉に不気味を感じ取ったか、さらに心的距離を取られた気がする。それでも、さらに割って甚五郎の、あの人形すぎる人形の特徴をありありと話す、話す。
止まろうにも、止まれない。
「あの…」
堰を切る僕の口数の流れにつっけるように一言、告げられた。
「見た方は小さな、小学生にも見えるほど小さな少女の姿でしたけれど」
「ああ、そうですか」
小さく、喉を引き込めるようにして、黙り込んだ。
「朝餉はどう…」
「すみません、少しだけ外で待っていていただけますか?」
そういうと、返答も聞かずにドアを閉めて、部屋の中に一時閉じこもる。
つまり、少女と二人きりで泊まることになっていると、言うことか?僕が殺人未遂、もとい自殺人未遂の時に建てた推理はどうなっている。こいつ、目の前のこいつは普通に僕と自分で予約を取ってやがった。
一人は成人男性で、一人は少女だと言うのに。年齢は20歳と書いているけれど、そんな誤魔化しでどうにかなるプロポーションでは無いんだよ。
聞きたいことが山ほどある。聞かないといけないことが、さらにある。
急ぎで聞いておくぞ、切落
「朝餉はいるか?」
「いらん」
こんちくしょう。
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