絶対的アウトサイド
3
回想。
不幸話をするのでは無いかと思われるかもしれないけれど、先に訂正しておこう違う。ここからの回想に不幸はなく、幸運なのだと自分に対して皮肉に答えてやろう。
幸運な喜劇なのだと、言ってやろう。
軋む梁に紐がかかる。
布団の中で発光を顔中に浴びる。楽に、簡単に、この二つを最低条件に検索をかけながら、何ページも何ページもを渡る。
正しい、正しく無いを色々見て周り、自分の中で結論が出た方法で紐をかけた。力作である。
僕の自重を支えることには充分であることの確認は過去にとっている。誤差の生まれない様、手で数回ぶら下がった。
間違いはなく。これ以上はない。布団を蹴り上げると、暗闇の中僕は立ち上がる。
ぶら下がった紐に向かって歩き、手の甲でハイタッチする。起点を初めに揺れる紐に、口角を歪ます。壁に手をかけて、血の上がる感覚を待って、フッと息を吐く。
換気扇の音がやけに耳に入り、鬱陶しくて、消した。歩く足に、ポコんとペットボトルを蹴飛ばす。一度中を水でゆすぎ、キャップを外して、ペットボトル本体と、プラスチックゴミに分別する。
そっと箱の底まで手を入れ置くと、ガッタとゴミ箱の蓋を下ろす。
給湯の画面がテラテラ光る。消す。
次に冷蔵庫の音が耳に触った段階で、僕はブレーカーを元から落とした。
レースのカーテンが夜風になびき、月明かりだけが部屋を露わにする。何者にも縛られないこの時間がとてつもなく頭の中を充満する。
椅子に腰掛けたい。とりあえずは落ち着くことが出来るからだ。とりあえずは落ち着いてしまえるから出来ない。
僕は今から死ぬのだ。自分自身に言い聞かせた言葉が頭を反射する。
紐を頭に通す。これだけの行動がやけに拍動を強くする。緊張なんてものではなく、ただ気が高揚している。多幸感が紐から震えてくる。
足場の台を倒せば、それで終われる。
僕は息を呑む。カラカラと喉が縦に皺を刻む。
前に進もうと足が力を入れる。床と台の擦れ、不快音が筋を刺激する。震えが共振し、上まで這い上る。
気持ちが悪くなった。寒かった。逃げたい決意が裏切る。
僕は蹴った。
瞬間、首に圧倒的な熱が加わる。挟み込んだ指をしどろもどろに抜き取り、吸えない酸素を上下する喉が求める。
顎から盛り上る異様すぎる寒さが幸福を運ぶ。苦しく、気持ちがいい。抜けていく熱に、入り込む冷気が混ざりあっていく。
カハカハ言って馬鹿みたいで、笑える。毛穴から、水分の掻き分ける音を聞く。もがいてもがいて、苦しいから静かにはできない。
空を蹴る、跳ねる。
口角が自然に上がる。ようやく死に近づけた、もう死ぬのだとそれが実感としてあることがそれだけが脳に情報として残っていた。
死に至る。酸素も、血も、何も足りなくなる。
ジタバタも僕とはおさらばする。
その時だった。ブチっと何かが切れた。
瞬間、宙を舞い、地に落ちる僕の体。抜けた酸素を埋める。血の一気に巡る目が奥から押し出してくる。
片方の眼球を抑えながら、周りを観察する。紐があった。首にかかっていたはずの紐がこともなげにある。
ひんやりとした部屋に、汗まみれになっていく自分がいやに不相応だった。
切れるはずのなかった紐を手に僕は思った。また死ねなかった、と。
通算34度目、13種類目の自殺の失敗だった。
4
ここまでの経験を経たところで、僕は簡単に死ぬことが出来る人間では無いのだと薄々勘付いた。
死ねないことというのが、これ程までに悔しく、もどかしいものだとは思いもよらなかった。
フッと息を吐く。黒々しくも、煌びやかな檜の厚いドアを吐いた息が触れる。
キリキリと擬似的に音が鳴る。
目の前の重々しいドアのその奥にあるものに、震えている。発色の弱い唇の先までがじっとりと縦に皺を刻む。
ノック、ノック、ノック
現実にはコンコンと音がなったろうが、胸の内にはそう鳴らすほどに、この空間に遊び心と余裕が皆無であった。
「失礼します。
そう、乾いた喉で、ジトリと述べる。
くすんだ金のノブに恐々と手を伸ばす。ギシリギシリとなる関節に、無理に筋を働かせると、ようやく辿り着く。
冷たいノブの回転を手首で感じながら、カチャリと落とし切ったところで蝶番を回した。
開け放ち、淀みきった空気の流出を肌に転がるように感じながら、前に言い放つ。
「今日はご足労有難うございます、僕を殺してください」
重々しい革の手袋。褪せきったような、限界に達する使用感溢れる高そうなコート。
ハットを深々と被り、顔はよく見えない。
よく見えないが、分かった。挨拶代わりの殺し文句もその上でのジャブ。牽制とは及びもつかない、強がりの発露。
空気感とでもいうのか、一目で彼がかの伝説の人なのだと察した。
切断専門の伝説。金さえ払えば何もかもを切り捨てる伝説。何が何でも、条件は問わない。何が何でも。そう、何が何でもだった。
十年前、2012年、12月。
横領、中抜き、裏金、表裏の一体、因習残り腐り切った政治だと、誰かが批判した。誰もが誰かが悪いと思っていたし、それが決まりきった誰かとは言えなかった。政界も疑心暗鬼だったし、国民も何を信じればいいのか分からなかった。
それを切り開いた。切り拓いた。問題の一つ、『癒着』を切り落とした。
それの解決のためにどれほどの命が無くなったのか、今では、いやかつてでも僕には計り知れないのだろうが、多く消え去ったのは分かる。
その多くが知らされず、闇に葬られる。情報の荒波に唯一、残された答え、つまりの犯人というのが、その人物だった。
子供時代。殺し屋と言えば、それまでのダークヒーロー。世間を沸かせた、大罪人。憧れこそせずとも、皆が恐れた。
それこそが
5
これ以上はないアウトサイダー。近づくも惜しい、伝説中の伝説。
重厚なコートの下に、溢れる薄い息がその生命を感じさせる。安楽椅子にどっかりと力無く沈む、巨体。
「浮向、お前の要求は飲もう」
低く、男は言う。
「瞬前でも俺は気が変わる可能性のある男だ。ある男はコンタクトではなく、眼鏡だったから殺したし、ある女はスニーカーではなく、ヒールだったから殺した」
「拘りがあるわけじゃ無い。正確に、これ以上なく、正鵠の表現として、気が変わるのだ」
全てが重い男であると思った。
選択の変更の軽やかさと言う話の内容が、まるで鉛を溶かし入れたような、鈍重な雰囲気を取り囲んでいる。
「だが、ここで改めて、お前の要求を飲むと言った。これは嘘でもなく、決して違わない」
「理由はと聞かれれば、気に入ったと答える。爛々とさせるその目が気に入ったわけでは無い。ただ気に入った」
それだけだと言った。
微動だにしない。同じ空気にいるのか、見失いそうなほどの存在感の異質さである。不可視光線のように異質であるからこそ、目立つまでもなく見つけられない。
「切落さんはどう言う人生でした?」
率直にそう疑問した。
およそ、僕の人生はこれ以上どれほど回ろうと、どう回ろうと、決して、彼のようにはならない。何故、そうなったのか、疑問だった。
「それに答える必要はあるのか?」
「あなたに答える必要は有りませんが、僕には聞く必要がある答えです」
返答に大男は笑った気がした。肩の少々も動かすこともなく、顔もやはり見えないその姿から笑みを悟ったのは違和感であっても嘘では無いだろう。
「応えて、もらえますか?」
沈黙。
思考の音が静寂を流れていく。鳥の音も聞こえるはずのその空間に、細い首の唾を飲み込むその音が、僕の聞く音の中で最大音量を記録していた。
「いや、応えない」
落胆が音を奪う。
「理由を言えば、つまらないからだ」
「やはり、お前という人間は至極単純で、普通普遍の人間だ。死がどうのとかを語り、悟り、聞き、また人の意見を取り入れて語り、騙る」
「好奇心のエゴのようなお前には俺の人生を語る価値を感じない。死に甘えるな」
「だが、だからこそ、気に入ったと言っている。死ぬ前にして、不相応に死に向かう簡単な若者に、お前に」
「殺せるんですね、僕を」
「無論、殺してやる」
殺気。動きない巨体から、流れ出るぬるま湯の澱んだ空気が殺気なのかは、殺されたことの無い僕には知り得ないものだが。
猜疑心を抱きつつ、それが殺気なのだと、肝が教えてくれる。立ち上がらない男。
力無い腕。
力無い足。
一揃えのベットに白いシーツがシワの一つもなく伸ばされている。この旅館は和風ではなく、洋風であるのかと感じる。
軋まない安楽椅子。
軋まない床板。
シャワールームはないのだろうか。一室はただの一室として、僕と彼、二人分の用意が整えられており、中央にいる安楽椅子だけがアシンメトリーに片側のベットに寄っている。
殺そうとしている男。
殺されようとしている男。
ここで、疑問である。目の前の男はいつ、僕を殺そうと計画しているのであろうか?いつ、というと今なのだろうが、今すぐと言うことが口振よりそうなのだろうが、そうなのだろうか?
二人部屋に設られた、二つのベット、二つの衣住家財の数々に、その二つという数字に違和感は無いだろうか。
死体と一緒に寝るのがその趣味だとか、笑える話だが、笑えない現実だ。腐りゆく死体と眠るなんて、この男には似つかわしくない。
さすれば、それを加味すれば、何か正しい答えがあるとすれば。
咄嗟、後ろを振り返るために動き始める。例えば、弱座切落、その人物が二人組だとすれば…
もう一人、視界の外に。
ギラつく長い刃が目端に光線を弾く。逆袈裟、振り向きざまの背負いカバンから、斜めに肩口までバックリと一撃。
僕は切り落とされた。
刃を捉える視界が途端暗く、効かなくなる自由自在。後方に痛みもなく倒れ込む。
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