イエスの革命

 イエスの最大の功績は、神を父と呼んだことだったかも知れない。それは、その時代、だれも想像すらできないことだった。


 現代人のすべてが、その恩恵を受けていると言っても過言ではないほど、イエスの影響力は絶大なものだった。それは、たとえて言うなら、すべての偉大なピアニストとピアノ曲の作曲家が、鍵盤楽器を最初に製造した技師がいなければ、登場しえなかったように……


 イエスをを語る前に、まずこの人物について話さなければならない。旧約聖書の中で最も多く、神から話しかけられたり、命令を下されたりした人物、モーセだ。映画ベンハーで主演をした、あのチャールトン・ヘストンが、もう一本の大作 “十戒” で演じた旧約時代の最大のスーパー・スターが、まさしく “モーセ” だった。旧約聖書の最初の五書を、モーセ五書と呼ぶことからも分かるが、モーセが人類歴史に与えた影響は計り知れないものなのである。

 出エジプト記の第三章で、モーセは初めて神と出会っている。神の山ホレブを訪れた時のこと、柴が燃えているのになくならないという怪現象を目撃し、それを 見定めようとした時、その燃える柴の中から神の声がして、モーセを呼ぶ。その時の神は、自らを名乗って、こう言っている。「わたしは、有って有る 者」

 “ 有って有る者 ” これが神の正式な名前ということになるわけだ。


 旧約聖書を手にする、ユダヤ教徒のみならず、イスラム教徒、そしてキリスト教徒の多くが──モーセが神からこの十戒を賜ることができなければ、人類は悪を公正に裁くことが未だにできなかったに違いないと考えていることだろう。

 では、その十戒とはなんだろう? それはたぶん、神が人間対して「あなたの良心に従って、正しく生きなさい」と言っても、思い通りの効果が得られないと判断したから、必要となったものなのだろう。十戒とは言ってみれば──分かりやすく掻い摘んで十項目を石に刻み、モーセに山の上まで受け取りに来させた──人生のルールブックのようなものだ。

 しかし、今日の我々にとって、それは神に対するイメージを著しく悪くするような代物でしかない。目には目、歯には歯、傷には傷、やけどにはやけど、命には命で、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義。その時代の神は、偶像を極度に憎み、自分以外の他の神に仕えるならば激しく嫉妬する恐ろしい神。これでは、神は紛れもない独裁者になってしまう。イエスの説く、神と人間との父子関係を築くことなど到底望めないことだ。

 我々は、人の心の根底にあるものは、今も昔も変わらないと、つい思いがちになるが、けしてそうではない。人間の心にはやはりレベルがある。そして、教育は、そのレベルに合わせて行わなければならない。小学生に対して、大学生に施すような主体性を重んじた自由闊達な教育ができないように、モーセの時代の人間に対して、恐怖心を利用してでも教えなければならない善悪の絶対基準があったのだ。


 現代に生きる我々に、十戒が合わないのは無理もないことである。なぜならイエスの生誕以後、人類の思想的な常識が根底から変貌してしまったからだ。イエスが人類歴史上初めて、神と人との関係を親子と説いたからだ。イエスこそが、神を父と呼んだ最初の人だった。それは、その時代の人々にとって衝撃的なこ とだったに違いない。秀吉がキリシタンを迫害したように、当時のユダヤの権力者にとっても、社会の秩序を根底から覆す危険思想に見えたはずだ。そ れはたぶん、悪魔サタンが、神と人間とを引き離すために築き上げたかもしれない巨大な壁を打ち砕くような、まさに革命的な出来事だった。


 イエスの革命後に生まれた我々は、そのことを意識しようが、しまいが、その思想を根底に持つ社会の一員として、だれもが その恩恵にあずかっている。つまり、一人一人が神の子どもとして、侵すことの出来ない人権を持っていて、たとえ犯罪者であっても、それは奪えない。なぜなら、親である神は、子供がどんなに道を外れ、悪に染まったとしても、見捨てることが出来ないのが道理だからだ。

 そして、わたしたちは、モーセの時代がそうであったように、奴隷のように神に仕えなくてもいいし、たとえ、神を無視したり、無神論を唱えても、けして滅ぼされたりはしないと、無意識のうちに知っているのだ。

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