第15話 紅翼

 聖炎守護は蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。エルデスも含め、動けなくなった者も引き連れて街へ逃げていった。


「ミロス堂の大虐殺、ガルナ要塞陥落、レガーナ事変、ディロン艦隊壊滅……数々の大事件の中心人物がなぜここに……!!」

 

 それら以外にも紅翼という悪魔が起こした事件、騒動は枚挙にいとまがない。今ここにいる十字軍の数以上の戦力をもってしても、紅翼に全滅させられた事例もある。


 数多くの凶悪な事件によって山のようにそびえ立つ紅翼の悪名。遭遇したら絶対に逃げろ、迎えうつための策と戦力が揃っていないなら絶対に闘うな。下っ端の聖騎士はそう言われている。それほどの危険性と凶悪性を持つ敵を前に、十字軍の何割かが恐怖にのまれ、後ずさりした。


「おいおいおい、普段お前ら十字軍はジャスティスジャスティス言って異教徒異民族殺しまくってんだろ? なのにちょっと強い相手が出てきたらビビって逃げんのか?」

 

 ゼテスが、紅翼の持ち主が口の端を吊り上げて、白い歯を見せて笑った。殺意と悪意に満ち満ちた凶悪な表情だ。誰一人として逃がすつもりはない。


 十字軍の聖騎士、全員の生存本能が命の危機を告げている。紅翼の一挙手一投足に自分の命がかかっている。ほとんどの聖騎士にとって、紅翼との闘いは闘いという次元にならない。積み上げてきた鍛錬、培われた技能、それらを総動員しても何の抵抗にもならない。ただ一方的に蹂躙されるだけだ。いかんともし難い力量の差を他でもない聖騎士自身が感じていた。


「私が相手だ紅翼」


 ただ一人、アンリだけがゼテスに臆することなく闘う姿勢を見せた。無謀や蛮勇、刺し違え覚悟ではなく、真正面から闘おうという意志が見られる。


「他の者は応援を呼べ、私が時間を稼ぐ」


 アンリにはゼテスの前に出てこれるだけの理由はあった。アンリの身体が変わっていく。身体からは黒い毛が生え、手にも鋭い爪が、口からは鋭い牙が生えていく。最終的に立っていたのは、狼人間とでも呼ぶべき風貌のアンリだった。


 狼と人間、両方の特徴があるが、背丈が変身前と比べて倍ほどになっており、筋肉も大きく膨れ上がっている。


「そ、そうだ、俺たちにはアンリ隊長がいた!」

 

 聖騎士の一人がアンリの姿に希望を見出した。


「私も魔人なんですよ。ただしそこの出来損ないと違い、悪魔の力は完全に自分の制御下にあります。この姿はその証拠です」


 ライザのように完全に狼の姿にはならず、狼人間のような姿になっているのには理由がある。ただ闇雲に悪魔の力を振るうだけではなく、人間としての戦い方に悪魔の力を上乗せするためである。対人の戦闘ではやはり人間の姿で闘った方が闘いやすい。今までの知識と経験により、魔人としての闘い方をアンリはよく知っていた。

 

「私がこの身に宿した悪魔は冥狼! 階級は氷狼と同等! いや、十字軍の一部隊を率いるこの私が力を使う限り確実に氷狼より強い! この私に勝てるか紅翼!?」


 悪魔の力を使ったことにより、口調が荒くなり、これから起こる闘いに興奮するアンリ。


 ゼテスは全く物怖じしなかった。こいつ程度で氷狼と同じくらいの悪魔の力を制御できるなら、ライザも氷狼の力を制御するのにそう苦労はしないなと思った。


「氷狼も紅翼も絶対に生かしておかん。十字教の、神の敵である貴様らはここで確実に息の根を止める! 神の正義の名の下に!」

 

 アンリが牙を剥き出しにしてゼテスに襲い掛かる。冥狼の力が上乗せされた脚力は瞬きにすら満たないほどの速さの踏み込みを可能とした。


 鋭い爪の貫手が、今まさに十字軍が追い続けた大敵の心臓を貫こうとする。

 アンリ自身も相当に鍛え上げられた聖騎士だ。素の状態で闘っても十分に強い。一部隊の隊長に選ばれるほどの力量はある。そこにさらに悪魔の力により膂力が強化される。  


 しかし、アンリの手は、ゼテスの身体に触れる前に急停止した。まるでそこで時間を止めたかのように、不自然な人体の停止だった。


 アンリの踏み込みよりも早く、自分の心臓を狙った貫手よりも早く鋭く、カウンターを入れた。

 アンリの攻撃はかすりもしなかった。ゼテスの初動はアンリよりも遥かに遅かったにも関わらず、先に攻撃されたのはアンリの方だった。


「ぐぁはッッ……!!」


 苦悶の声と共に血を吐き出し、体がくの字に曲がる。重い一撃だ。変身して大きくなったアンリの体が浮くほどだった。


 アンリの腹にゼテスの拳が既にめり込んでいる。それどころか貫通しそうな勢いだった。ゼテスの腕が肘のあたりまでアンリの腹に埋まり、背中側が出っ張るほどだ。


 一瞬でつけられた勝敗、格差、実力差。その一撃で、一瞬のやり取りで、アンリは絶対にゼテスには勝てないということを本能で悟った。


 アンリの戦意はその一撃によって粉々打ち砕かれた。だがゼテスの殺気はまだ少しも失せていない。今度はアンリ自身を打ち砕く番だ。


 ゼテスがアンリの顎に強烈なアッパーを繰り出す。アンリの体が空高く舞い上がっていく。一瞬にして点のような大きさになった。


「砕け散れ!」


 さらに、上空のアンリに向かって人差し指を向け、小さい火の玉を放つ。飛んでいく速度は早く、すぐにアンリまで届いた。

 

 火の玉はアンリに触れた瞬間に派手な爆発を起こした。離れていてもその威力の凄まじさは、鮮烈な光とともに見ていた者の瞼に焼き付けられた。


 アンリの身体は燃えるどころか、消失した。爆発の後の煙すら消えても、アンリの身体は灰すら残らなかった。


「犬死にだ……」


 ゼテスがポツリと呟いた。一瞬で殺したい相手に殺意を炸裂させた。そのことに満足し、邪悪な笑みを浮かべた。


 ゼテスが隊長を失った残りの聖騎士を見据える。どう闘うかではなくどう殺すか、すでに思考は戦闘ではなく殺戮へと変わっている。


「あ、ああ……」

 

 アンリは一瞬に倒された。しばらくして、十字軍がゼテスに向けた感情が変わる。驚きから、恐怖へと。


「うわあああああああ!!」

「逃げろ! 逃げろ! アンリ隊長があっさりやられた! 俺たちが敵う相手じゃねえ!」


 十字教は世界最大の宗教だから、十字軍という巨大な組織に属しているから、彼らの分不相応の自尊心と思い上がった態度はたったそれだけの理由で保たれていた。


 だから普段から聖炎守護相手にも見下したような言動ができた。だが今彼らの目の前で炸裂したのは本物の殺意とそれに伴う暴力だ。


 自軍側の最強の聖騎士が、いとも簡単に殺された。十字軍の聖騎士であるいう自尊心も、紅翼の恐ろしい力の前ではもはや意味をなさず、ただ無力だった。


 相手が誰であろうと、どんな組織が背後にいようと、気に食わない相手は必ず殺す。言葉にせずともそう確信させるような圧倒的な殺意がそこにあった。


 紅翼を前にして、彼らは狼に遭遇した羊の群れのように逃げ出した。一切の抵抗をすることなく、プライドも何もかもかなぐり捨てて。


 逃げていく十字軍の背中をゼテスはひどくイライラしながら見ていた。


 ゼテスはこの街でライザと出会い、共に冒険をした。故にこの街はすでにゼテスにとって思い入れのある土地だった。だというのに、十字教は、十字軍は、すぐさま支配の手を伸ばそうとしてくる。 


 唯一神と聖典の言葉を理由にこの街を滅ぼそうとした。ライザを殺そうとした。十字軍の邪悪な思惑に、自分の胸の中で怒りが巨大な火災のように燃えていた。絶対に許せなかった。一人も生かしておくつもりはなかった。アンリを消し飛ばしたのは、ゼテスの悪意のほんの序の口に過ぎない。


 報復する。そう決めたゼテスの言動は、悪魔の所業と呼ぶに相応しい光景をこの場に作り出す。


「殺人は悪の特権だ」


 低く、恐ろしい声を出すゼテス。十字軍がゼテスに背中を見せて逃げていく。一瞬にして先回りし、目に見えない一撃の下に先頭にいた聖騎士を一人絶命させる。


「自らの意志も、理由も持たない……正義の歯車どもが」


 声は大きくないが、その場にいた全員の耳の中に、言葉の内容がはっきりと聞こえた。

 先頭を殺された十字軍の隊は絶対的な死の恐怖に、方向もバラバラに逃げ出した。逃げた先がどこになろうが、魔獣の巣だろうがどうでもいい。とにかく紅翼の脅威から離れなければ確実に命を落とす。今、この街で一番危険な存在は間違いなく紅翼だ。


「異教徒を殺すのは神の正義だと!? 寝ぼけたこと言ってんじゃねえええ!」


 ゼテスの殺意と悪意が荒れ狂う。

 殺意と悪意、その二つを込められた暴力が一人、また一人と凄い速さで聖騎士の屍を増やしていく。死に顔はどれもこの上ない恐怖で歪んでいた。まるで狩りにでも行くような緩んだ気分で行った異教の地はとんだ地獄となった。人体が致命傷を受けた音、悲鳴や断末魔が辺り一帯にしばらく響き渡り続ける。


「殺人の罪悪感を正義と信仰で誤魔化すような奴らが、他人の生命を害する資格はない! 半端な覚悟で悪人の聖域に土足で踏み込んじゃねえええ!!」


 紅い影が、周りの人間を蹂躙していく。

 紅い翼によってゼテスは無慈悲なほどに早いスピードで動き、聖騎士がどこに逃げようとしても必ず先回りして血祭りにあげていく。

 彼らに一欠けらの慈悲も哀れみもかけない。ライザと出会った思い入れのある土地を血に染めようとしたことを、惨死を持って償わせるつもりだ。


 必ず、一撃の下に一人を葬り去る。炎の権能は使わない。ゼテスは十字軍を人ではなく駆除すべきケダモノと見なしていたため、素手で息の根を止めると決めた。

 手刀、貫手、拳打、蹴り、それらの攻撃で人体を切り裂き、貫き、叩き潰す。命乞いにも耳を貸さない。ゼテスは彼らが異教徒に慈悲をかけるのを見たことがなかった。

 

「自称正義の殺人は生命への侮辱であり冒涜だ! イラつくぜええええぇぇぇ!! どいつもこいつも俺たち悪の特権を行使しながら正義だの神だの抜かしやがってえええええ!!!! 己の悪意と欲望を直視できないやつが殺しに手を出すなああ!!」


 悪の在り方に対する、信仰ともいえるような、ゼテスの信念。

 その信念を汚した相手にゼテスは激情と共に苛烈な暴力を繰り広げた。


「人殺しが正義なわけあるかあああああ!!!! 殺人は悪の特権だあああ!!」


 やがて、最後に残った聖騎士にとどめを刺し、狂乱に陥ったていた場は静まり返った。

 ゼテスは自分が決めた通りに、十字軍を全員、一人も逃がすことなく、生かすこともなく、血の海に沈めた。


 ゼテス自身は血に濡れ、地面にも夥しい数の死体が転がっている。その中で、誰にも生命の気配がないことを確認すると紅い翼を引っ込めた。怒りも殺意も悪意も、余すところなく発散された。


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