第12話 氷狼とゼテス

「ウオオオオオオオオオオオン!!!!!!!!!」


 それは聞く者全てに生命の危機を感じさせる絶対的な捕食者の咆哮。

 人は愚か、神々すら食らう太古の巨狼が、咆哮と共に圧倒的な恐怖をもたらす。


 恐怖が町中に伝播する。

 十二年前と同じ惨劇が今再びこの街を襲おうとしていた。


 圧倒的な恐怖をまき散らす狼が街を見る。街は空腹を満たすための肉で満ちている。

 狼が足に力を込めた。巨体でありながらその足は、普通の狼より遥かに速い。

 街まではほんの数秒以下で着き、人肉にありつくことができる。


 狼の捕食者としての意志が、町全体に伝わった。街に生きる全ての生物が、自分は巨大な狼に食われて死ぬ光景を予見した。錯覚ではなく、これから起こるであろう確実な未来。

 動く者は全て餌。神話の時代より生きた狼の放つ意志は、瞬く間に街を恐怖で覆った。


 しかし……

 氷狼は突如感じた。その殺気を感じざるをえなかった。


 気づけば顔面を重たい衝撃が走る。

 氷狼の巨大な身体が吹き飛ぶ。

 自らが放つ捕食者としての圧に、何の恐怖も感じない、それどころか逆にこちらを飲み込もうとしているほどの、凄まじい殺気。 


 その持ち主が目の前にいる。崩壊した家の跡地に立っている。

 氷狼が放つ食らうという意志に、人の精神を蝕む猛毒のような意志に、この男はなんの恐怖も感じていない。

 ただ者ではない。身の程を知らず、圧倒的な格上の敵に挑む愚か者か、太古の時代に闘った神々に比肩する力を持つ者か。


 少なくとも顔面への初撃は氷狼にダメージを与えた。喉の奥に血の味を覚えた。痛みがまだ残っている。

 間違いなく聖炎の街にとっての悪夢である氷狼、その出現に誰よりも早く駆けつけたのは……


「人の家ぶち壊しやがって~」


 ゼテスだった。両手にいっぱい抱えた酒やら肉やらを置く。宿泊先兼打ち上げ会場が粉々になっているので珍しく怒りを露わにしている。それともう一つ、気になることがあった。


「グオオオオオ!!!」


 氷狼が凍てつく冷気を吐く。空気はおろか、地面も含めて、経路上のあらゆるものを凍らせながら向かう。

 ゼテスまで向かった冷気は、手のひらを向けられてかき消えた。


「なるほどてめえが氷狼か……」


 なぜ氷狼が突然現れたのか、なぜライザ邸に立っていたのか、万が一の可能性、しかし納得しづらい。

 ゼテスが思いっきり息を吸う、


「ライザー!!」

 ライザの名を大声で叫ぶ。街全体にも響き渡るような大声だった。

 氷狼が、父親の仇がここにいる。聞こえているならこの場所に来い。自分が今ここで倒すことはできるが、ライザの意志も尊重したい。それ故に叫び、ここに呼ぼうとした。


「……」

 しばらく待った。氷狼と睨みあう。ライザは来ない。返事すらない。それが意味することは今あまり深く考えたくない。


 氷狼はライザの家にいきなり現れた。それまで気配すらなかった。こいつほどの大物が街の外から近づいてくるなら、否が応でもそれ気づく。氷狼はそれほどの存在感だ。


 それにライザは強い。一瞬でやられたとは考え難い。考えたくない。家が崩れた音はしたが、戦闘音は一つもなかった。ライザは恐らく、聖炎守護として住民の避難を優先させたのだろう。そう結論づけた。


 瓦礫を腕の一振りで吹き飛ばし、その下を確認する。

 ライザはいない。しかし、血痕があった。

「……」


 その血痕は実のところ、ライザがエルデスに頭を殴られ、気絶させられた時にできたものであったが、ゼテスの頭に浮かんだ考えは……


「!!」


 氷狼の鋭い爪が、ゼテスを襲う。

 三つの剣で同時に斬られたような痛みが体を走る。

 敵を前に長く思考に浸りすぎた。ライザが無事である理由を考えるのに頭を使いすぎた。珍しく、焦っている自分に気づく。


「腹ぁ掻っ捌いてやる……」


 ゼテスが静かな怒りを見せる。先ほど負った傷は全くもって意に介していない。


「ガアアアア!」


 氷狼から見て、ゼテスの周りの空気が歪んで見えた。

 この男は決して楽に食える餌ではない。自らの命を脅かす敵だ。確実に仕留めなければ、逆に殺される。そんな危機感を抱かせるほどに、ゼテスの放つ気は凄まじかった。


 氷狼は牙を剥き出しにして最大限の警戒を払う。

 先に仕掛けたのは氷狼だった。全てを凍てつかせる冷気を口から吐き出す。

 巨大な狼が放つ冷気もまた巨大だ。ゼテスどころか家一つ丸ごと飲み込むくらいの広範囲にわたる冷気か迫り来る。


 ゼテスも大きな炎を放ち、冷気とぶつける。それどころか、炎は冷気を突き抜け、氷狼へと向かう。

 氷狼は横に避けた。巨大に似合わない俊敏な動きだ。


 だがゼテスはそのスピードすらも想定内だった。まるでワープしたかのような速さで氷狼に迫る。

「オラァ!」


 氷狼の鼻頭の殴り飛ばす。

 その衝撃で氷狼はかなりの距離を吹っ飛んだ。


 街から距離をとる必要があった。

 氷狼とゼテスがやり合えば、その余波に街の一般人が巻き込まれて死んでしまう。

 ライザを忌み嫌うクソみたいな住人が大勢いるが、リリーのような何も知らない子供もいる。故に闘いの余波による避けたかった。


 氷狼を追いかけ、その目の前に来たゼテス。

 氷狼が口を大きく開け、ゼテスの体を全て噛み砕かんと襲いかかった。


 ゼテスは迫りくる鋭利な牙を置き去りにして、氷狼の腹の下に潜り込む。

 頭上には無防備な腹。そこに向かって跳躍し、その勢いを乗せた蹴り上げを放った。


「ギャオオオン!?」


 氷狼の巨体が浮く。ただの蹴り上げには違いない。しかしその威力は強く、氷狼の内臓がひしゃげるほどだった。

 攻撃はまだ止まない。連続した蹴り上げが、立て続けに氷の腹部を襲う。


 しかしその途中、ゼテスの身体が氷狼の腹下から弾き出される。尻尾を腹下に差し込んだのだ。

 ゼテスが氷狼の顔の前まで転がる。


 氷狼の前足の叩きつけがくる。巨大な岩が自然落下以上の速さで落ちてくるようだ。

 避けはしない。真正面から受け止めた。衝撃は凄まじく、ゼテスの周りの地面がへこんだ上でひび割れ、辺り一体を揺らした。


 重たい攻撃を受け止めても、ゼテスは終始無言のままだった。無言のまま静かに、攻勢へと移る。

 氷狼の前足を丸ごと背負うようにして後方へと投げる。氷狼の巨体が、ライザの館ほどもある体が宙に浮き、地面に叩きつけられた。


 氷狼の体重もあり、地響きが辺り一面に走る。

 仰向けになった氷狼の腹の上に、ゼテスが勢いよく落下する。着地する際に落下のスピードを乗せた拳を腹に叩きつけた。


「ギャオアアアアアアアア!!」


 氷狼が苦しみにまみれた声を腹から絞り出す。

 ゼテスはそれをかわいそうだとか一切思わなかった。ただ耳障りとしか感じていない。


「とっと吐き出せ。でなけりゃもっと痛めつけるぞ」


 ゼテスの拳が、氷狼の腹を殴り続ける。




 氷狼は間違いなく痛みを感じている。

 その痛みが意識だけのライザにも伝わってきた。それが心地よかった。

 ゼテスになら殺されてもいいと思ったからだ。


 初めにあった時は本当に気に食わないやつだった。

 罪人のくせに、街と住人全ての生活を危険に晒したのに、その罪の重さを何も感じていない。

 適当にのらりくらりとその日を暮らすだけの流浪者、それがゼテスに対する第一印象だった。


 しかし後でそれが冤罪だとわかった。子供のために動かなかったら、魂が腐るとまで言った。

 自分のすぐに暴力を振るう苛烈な人格を知っても、街中の人間ほとんどから嫌われていると知っても、ゼテスの態度は何一つとして変わらなかった。


 聖炎祭壇までの道のりは楽しかった。勿論帰りも。父親が死んでから、これほどまでに長く、一人の人間と寝食を共にしたことはない。


 ゼテスが振る舞ってくれた料理も美味しかった。ただ生きるために食うだけだった食事という行為に、彩りを与えてくれた。料理というものを知った。仕留めた肉を美味しく食べるための工程があると知った。その工程を経た肉は小躍りしそうなるはど美味しかった。

 食事とは美味と快感が伴うものだということを知った。


 そして、空賊団との闘いで麻痺毒をもらっても、ゼテスは文句一つ言わずに看病してくれた。父親以外にこんなにも優しくされたことはない。


 父親のこと、父親の死後、自分が何を目指し、どう生きてきたか、他人に話したのは初めてだった。今後話したいと思う人間に出会うことはないだろう。ゼテス以上に心が通じ合える人間には二度と出合えないだろう。


 ゼテスはライザのことを、世界で誰よりも知っている。だから、ゼテスになら殺されてもいい。自分の人生の目的は果たさなかったが、そんな最期もそれはそれで幸せなことだと心の底から思う。




「やはり直に確かめるか……」


 氷狼の腹を何回も殴っても、出てくるのはうめき声か唾液ばかり。ついには動かなくなってしまった。


「邪魔だなぁ~おい」


 ゼテスが氷狼の長い毛をぶちぶちとちぎっていく。毛をちぎり、皮もちぎり、肉もちぎって腹の中までいくつもりだった。

 が、長い毛の中に、何か毛とは違うものの感覚が手に当たる。手にとってみると、その正体は空き瓶であった。


 空き瓶には見覚えがある。ライザが聖炎の火種を入れるのに使っていた瓶だ。

 その瓶に何かが入っている。中身を取り出し、手に取ってみる。

 二つの石だった。形は平たいが、この石の手触りを体がなぜか覚えている。どこにでもあるような石のはずだがなぜ……


「そういうことか……」


 平たい石には絵が描いてあった。描かれているのはライザとゼテスの顔である。

 ゼテス自身が描いた絵だった。

 ライザが麻痺毒を喰らった時、暇で暇で仕方なかったから石に絵を描いた。


 それがなぜかここにある。

 これの発見によりライザがどこへ行ったか、今まで考えつかなかった新たな可能性がゼテスの脳に浮上してくる。その可能性は悪趣味も甚だしく、胸糞が悪くなるものだが、最悪とは言い難い。試してみる価値はあった。


 氷狼の腹から降りて、顔の、眼球の真ん前まで向かう。


「おい、犬ころ」


 閉じかけている氷狼の瞼を両手で強引に開け、自分の姿を認識させる。


「お前がこれから生き残る唯一の方法……わかるよな」


 氷狼の脳に焼き付く、圧倒的で、逃れようのない、絶望的で、神話の時代より生きてきた自分の命をいとも簡単に粉々に踏み砕く死のイメージ。


 ゼテスが放つ底なしの殺気。その気になれは自分の命はこの男にまるで虫けらのように踏み潰されるだろう。そんな圧倒的な格下としての自覚と、逃れようのない生命の危機を氷狼は本能で感じ取った。


 生き残るためにとる方法は一つしかない。それ以外の方法をとれば間違いなく殺される。

 氷狼がとった方法とは引っ込むことである。肉体の主導権をライザに戻すことである。


 氷狼の身体がだんだんと縮んでいく。巨体から、人間の大きさまで。

 毛も、牙も、爪も、姿形が狼から人間へと変化していく。


 やがて、氷狼の巨体が横たわっていた場所、その中心にライザがいた。

 ゼテスが急いで駆けつけ、ライザの様子を確かめた。

「息はある……氷狼に負わせた怪我も、ライザ自身は負っていない」


 ゼテスがライザのそばにへたり込んだ。


「よかった~」


 心の底から安堵し、息をついた。

 そこに、人影が現れる。


「到着が遅れて申し訳ありません。この街を守る聖炎守護としてあなた一人に闘いを任せてしまったことを心よりお詫びします」


 聖炎守護を引き連れたエルデスが現れた。

 ゼテスは彼らが遅れたことを責めるつもりは毛頭ない。むしろ氷狼まで行こうとするゼテスを引き止めた者や、住民の避難をしていた者がいることを知っているからだ。


 氷狼には極めて個人的な理由で闘いに挑んだ。これはゼテスが社会的に何の立場もないからできることだ。無謀とか蛮勇とか責められて然るべきだ。


「ゼテスさん。氷狼を倒してくださり、ありがとうございました。一人で軽々と氷狼を倒すその実力とこの街を守るために動いてくれたその義侠心。あなたはこの街にとって間違いなく英雄です」


 エルデスの賞賛はゼテスの心に全く響かない。茶番だ。


「その女の正体はあなたが見た通り氷狼という悪魔です。今まで正体を隠して我々の寝首をかこうとしていたんです」


 エルデスと他の聖炎守護が、ライザを見下ろす。害獣を見るような、人として見ないような、冷たい目だった。


「我々にその女を渡してください。身内にこんな悪魔がいたとなれば、我々がきっちり処分するのが役目です」


 エルデスが一歩前に出てくる。


「さあ、その女を今すぐこちらに渡してください」

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