12月のホワイトデー

君にもらった飴の意味

 年末の大学構内は静かだ。やたらと存在を主張するでかい声の集団も、モニターの音量調節をミスって廊下まで音漏れしている、音割れした古臭い日本史映像の音もしない。あまり使ったことはないけど、たまたま前を通りがかった食堂にも鍵がかかっていて、薄暗さがちょっと不気味だった。


 ただでさえ人のいないこの時期に、構内のはずれにある11号館になんて人がいるはずもない。私とこの男、峰岸みねぎしの2人を除いては。


「なあ、ホワイトデーのお返しって意味があるの知ってる?」


「今12月だけど」


「まあまあ、雑談じゃん」


 外気温9℃だというのに暖房の1つもない薄汚れた研究室で、着てきたコートもそのままになんの書類かもわからない紙を片っ端から引っ張り出す。なんでか知らないけど、机の横に置かれた小さな冷蔵庫のドアを開けたらしなびた紙が出てきてもう頭が痛い。あの先生、服装からしてだらしないとは思っていたけどここまでとは……。こんな汚い部屋から紙っぺら1枚探せって?無理じゃない?


 思わずため息をつくと、目の前でにこにこ笑う峰岸と目が合った。ホント嫌になる。こんなことになるなら、最初から真面目に授業受けておくんだった。キイキイ鳴る冷蔵庫のドアが恨めしく見える。


「クッキーってお返しの定番なんだけどさ、あなたとは友達のままで、って意味らしいよ」


「なに、まだ続いてんのその話」


「こんなん矢田やださんと話でもしてなきゃやってらんないって」


 そう。やってらんないのこんなこと。


 もとはと言えば、多少講義を休んでもテストの成績さえ良ければ単位をくれるという井山教授の講義を選んだのが間違い。北欧史基礎なんて、名前とお気楽単位というだけで選ぶんじゃなかった。あの先生、本当に性格が悪い。出席確認はしないなんて言っておいて、そのくせ欠席日数が1番多い私にこんな雑用を押し付けるんだから!ああ、思い出したら腹が立ってきた……。


 あの日、あの年内最後の講義の日、珍しく出席していた私に「矢田さんだよね?」なんて人のよさそうな笑顔で近づいてきて、年始の授業で使う大事な資料無くしたから探せだなんて……。もちろん私が断れないってわかっていたからだ。「その資料さあ、最終テストで使う予定なんだよ。ないとテスト作れないの。そうなると、今までの出席回数で単位の可否を決めなきゃいけないよね?」だって。あ~~~!ムカつく~~~!はいって言うしかないじゃん!そんなの!こちとら卒業に必要な単位ギリギリ計算して講義選んでるんだから1つも落とせないのに……。


 しかもこんな狭くて汚い研究室で、碌に話したこともない男と2人だし……。今日何日だと思ってんの?12月29日だよ?年末も年末。今日からバイトも休みで、家でゆっくりゲームしてるはずだったのに……。こんな雑用押し付けておいて、自分は取材とか理由付けて都心のクリスマスマーケットに行ってるなんて……。職権乱用だこんなの!


「矢田さんって、あんまり講義来ないよね」


 峰岸が棚のほこりを払いながら窓を開ける。風は吹いていないはずなのにひんやりした冷気が床から這ってきて、無防備な足に刺さる。上半身はコートで防げても、下半身はショートパンツに薄いタイツのみだから実質防御力0だった。思わず、さむ!と声を上げる。峰岸はおかまいなしに棚の中を探していた。


「なんで来ないの?」


「テストだけで単位くれるって言うから」


「だけ、は言いすぎでしょさすがに」


「うるさいな」


 PCの前に積み重なるおびただしい紙の山から手に取ったしわくちゃの紙に、『お歳暮の季節!ご当地ビール詰め合わせのご案内』とでかでかと書いてあった。イラっとしたのでぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。コン、と音を立てて床に落ちる紙屑を、峰岸が拾ってゴミ箱に入れた。


「ごめんごめん責めてるわけじゃないんだけどさ、あんま見ないなって思って」


「……あんたもここにいるってことは同じなんじゃないの」


 峰岸とは1年の時の必修クラスで一緒になった。たまたま隣の席に座ったので、講義の度に一言二言会話をするだけ。本当にそれだけ。3年になって、北欧史基礎で久しぶりに同じ講義をとったのだって、さっきこの研究室のドアを開けるまで知らなかった。


 イメージ的には明るくて人当たりの良い犬みたいな男、って感じ。あとはパーカー。1年の時はいつもアメフトのチームだかなんだかのロゴが入ったパーカーを着ていた。一度好きなチームの話をガーッとされて覚えていただけだけど。今日は、あの時と違う無地の白いパーカーを着ている。


「俺は休んだことないよ、講義」


「はあ?じゃあなんでいるの?」


「イヤセンと仲良いから雑用押し付けられちゃって」


「イヤセン?」


「井山先生」


「……高校生みたいなあだ名つけるのやめなよ」


「んー?」


 これはやめる気ないな。バサバサと重そうな本を手でどかして、下に敷かれたかわいそうなレジュメたちを救出している後ろ姿は、私の話を聞いているんだか聞いていないんだかわからなかった。自分から話振ってきたくせに……。


 とりあえずさっさとお目当ての資料を探して家に帰ろう。せっかく今年は実家に帰らないと決めたんだから、面倒な家族のいない自由な年末年始を楽しまなきゃ。


「あのさ、フィンランドにもバレンタインってあるの知ってる?」


「知らない。手動かして」


「じゃあ動かしながら話すから聞いて」


 おそらくコーヒーであろう茶色い染みがついたファイルを人差し指と親指でつまんだところで、また峰岸が話し出した。そういえば、こいつ1年の時もこういう強引なところあったな。アメフトの話しかり。はいはい、と顔はそのままで返事をする。


「フィンランドのバレンタインは日本と違って家族と過ごす日らしいんだけどさ」


 これも違う、これも違う、と黄ばんだ紙の束を床に放り投げる。後片付けなんて知ったことか。


「チョコ贈ったり、ホワイトデーって文化もないらしくて、好きな時に好きって言うみたいで」


 上の棚に手を伸ばしたところで、本当に手も動かしてるのか?と峰岸の方を見る。背伸びの途中で右手を伸ばしたままの私と、床の紙束を拾い集めていた白いパーカーの目が合う。


「だから、ホワイトデーのお返しにに意味があるのなんて日本だけなんだよ」


 よっ、と小さく声を出しながら峰岸が立ち上がった。抱えた紙の束をパイプ椅子の上に優しく置くと、隣に置いてあった大きな黒いリュックの前ポケットから何かを取り出して、握った。


「はい、飴あげる」


「え?」


 こちらに来た、と思ったら、見た目に反して大きな手に自分の手を包まれる。暖かい、なんて一瞬思った後、キラキラ輝く赤と銀色の小さな包み紙が手の上に3つ、のっているのが目に入った。小さい頃、お母さんにもらった四角い小さな飴を思い出す。


「なに急に」


「寒いし乾燥してるかなーって」


「……それだけ?」


「うーん、強いて言うなら、前に矢田さんにチョコもらったから、お返しかな」


「チョコ?」


「1年のときね。たぶん矢田さんは覚えてないと思う」


 チョコ……と呟くと、峰岸があははほんとに覚えてない!と笑った。確かに甘いものが好きでいつも持ち歩いているけど、2年前に気まぐれであげたチョコなんて覚えているわけがない。チョコ?の、お返し……?


「なんで今なの?」


「えー?チョコもらったの2月だったから?」


「いや、それにしたってホワイトデーは3月でしょ」


「返したい時に返す!これぞ峰岸北欧流なのである!」


「意味がわかんない」


 聞いたこともない流派に思わず笑ってしまう。峰岸はリュックの方に戻ると、自分の分の飴をポケットから取り出して口に入れた。口の中で転がしているのか、カラカラ、という音が狭い研究室に小さく響く。私も手の中の包みを1つ開いて、口に入れる。薄い緑色の飴は、安っぽいメロンの味がした。


「ねえ、日本で言うお返しの飴の意味って何?」


「そうだなあ」


 お互い口の中に飴が入っている状態で喋っているので、出てくる言葉が舌っ足らずで、子供みたいで笑える。ほっぺの横に飴を隠して峰岸の返事を待った。


「じゃあ、資料見つけたあと一緒にご飯行ってくれるなら教えてあげる」


 峰岸の赤い舌の上に、薄い黄色の小さな飴が見えた。すぐにそれは見えなくなって、意地悪そうに閉じられる。それは、いつか見た人懐っこい柴犬のような笑顔ではなく、こちらの様子を窺う艶めかしいヒョウのようだった。


「……いいよ」


 こんなつまんない年末の最悪イベントも、くしゃくしゃの資料を見つけて研究室を出るま頃には、まあしょうがない、と思えるくらいには私の気持ちは前向きになっていた。

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12月のホワイトデー @kura_18

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