番外編42 混沌のお茶1




「こ、これは……!」



 リベラは大量の請求書に埋もれた執務机の上で、あるものを目にして嫌な予感に襲われていた。


 あるものとは、メイドが血相を変えて運んできたお茶だ。



「キャサリン様が、同じものを若旦那様にもお出しせよと」


「……ということは、妻も同じものを?」


「はい。今日のお茶は薄いわねと仰られてご自分でザバザバと茶葉を大量に追加なさっておられました……」



 茶を運んできたがメイドが、当時の光景を思い出したのか身震いしている。


 メイドの言葉に、リベラは手元のティーカップに視線を落とす。


 カップの中には底の見通せない、混沌が存在していた。



「……そうか、わかった。体調は……今朝食事を共にした時には何ともなさそうだったな。ということはまさか機嫌が……?」


「さようにございます」



 とても言いにくそうに、しかしはっきりとメイドはリベラの言葉を肯定する。


 そうとなれば、リベラは請求書などにかまけている場合ではない。



「出掛けてくる」



 リベラはさっと立ち上がり、外套を羽織ると外出を宣言した。




 そもそも、お茶一つで大の大人が何を騒いでいるのか?


 これには深い訳があった。



 ラッセルとロレーヌ、並びに近隣諸国には近年ある風習が誕生していた。


 それは市民の間で拡がった風習で、『料理の味付けが急に濃くなったら、妻の体調不良か不機嫌を疑え』というものだ。


 その発祥は定かではないが、ある教会のシスターが『あまりに鈍感で察しの悪い夫に手を焼いている』と信徒の女性から相談を受けた際に、『体調か機嫌が悪い時は料理の味付けを濃くすればいい』と答え、実行された結果たちどころに問題が解決して周囲に広まったのではないかと言われている。


 世の男性陣にしてみれば、喧嘩するたびに激マズ料理を出され、とんだ災難なのだが口で言う前に気付いてほしいというのが女心というやつなのだろう。


 そしてこの市民の間で広まった風習は、貴族にも影響を及ぼした。



 貴族の女性が手ずから料理することは珍しい。そこで目をつけられたのがお茶だ。


 庶民の家庭では料理の味付けを濃くしたのに対して、貴族の女性は茶をこの上なく濃く淹れることでその怒りと不調を表現した。


 客に対しては茶の温度で歓待か冷遇かの姿勢を示し、夫には茶の濃さで体調と機嫌の良し悪しを示す。


 また茶が濃ければ濃いほど、事態は深刻であるとされるのが一般的だ。


 先程リベラに出されたお茶は、底が見えないほどに濃く濁っていた。



 リベラが直接キャサリンの世話を焼いている時は、キャサリンがお茶に細工をするまでもなくリベラが細かな点まで変化に気付いて対応するので、これまでキャサリンが特濃紅茶を淹れたことはなかった。


 しかし今日は溜まりに溜まった請求書の処理デーのため、リベラはキャサリンのもとを離れていたのだ。



 妻の初めての可愛い抗議なのだが、妻が妻だけにリベラはそれを平静に受け止めることが出来なかった。


 ここでキャサリンに機嫌を直してもらわなければ、またストレス発散と称してとんでもない買い物をされてしまうかもしれない。


 いくら公爵家の財力が底なしと言っても、買い物の規模が大き過ぎるだけに周囲への影響は多大だ。



 何としても、ここで食い止めねば。


 そんな使命感に駆られ、リベラは急いでいた。



 そんな彼が外出して一番にやって来たのは、リリアーヌ公爵家の屋敷だった。


 移住して以降、互いの家が行き来しやすくなったことだけが利点だとリベラは常々考えていた。


 中でも、リベラが誰よりも頼りにしているのがラザロスだ。



「急に訪ねてきていったいどうしたんだ?」


「すまない。実はさきほどキャサリンが紅茶を淹れてくれたんだ。特濃の!」


「それは……!」



 いったい何事かと訊ねてきたラザロスにリベラが事情を説明すると、彼は目を見張って棒でも呑み込んだかのような顔をした。



「お茶って普通はスッキリと澄んでいるものだろう? 底が見通せないほど濃いお茶を君は見た事があるか?」


「いや、ない」


「オレは……、オレはどうしたらいい? オレは正直に言うと怖い! キャサリンが、妻がとんでもない買い物をして、恐ろしい金額の書かれた請求書の山を処理することになるのが! あんなもの、オレは見たくないんだ! だが、買い物を控えるようにお願いしてみろ? もっと機嫌が悪くなるに決まっている!」


「リベラ、とりあえず落ち着こう」



 昂った感情のままに叫べば、ラザロスが気遣わしげな表情を浮かべて宥めてくる。



「ラザロス、君ならどうする?」


「キャサリン様、体調は何とも無いんだよな?」


「ああ。悪いのはご機嫌の方だ! しかも最悪だぞ!」



 泣き縋りたい気持ちを必死で堪えながらリベラは、頼りになる友人に意見を求めた。


 ラザロスならきっと妙案を考えてくれるに違いない。そう信じて。



「だったらとりあえず……」


「ラザロス様! 大変です!」


「……!?」



 ラザロスの助言にリベラが耳を傾けようとした時、蹴破る勢いで部屋に突撃してきた者があった。


 ラザロスと二人して口から心臓が飛び出そうになりながら声のした方を振り向くと、お仕着せを身にまとった女性が立っている。


 彼女の手には、茶器の載ったトレイがある。リベラにとって何かとても既視感を覚える光景だ。



「来客中とは気付かず申し訳ございません! ですがラザロス様、これを!」



 お仕着せの女性――メイドがその場でカップに注いだお茶を見て、リベラとラザロスは二人揃って表情を固くした。


 茶が、濃い。



 どうするのかとリベラがラザロスを見守っていると、彼は出されたティーカップをさっと手に取ると口元に運び、そのまま中身を呷るように一気に飲み干した。



「リベラ、すまない。俺はイザベラのもとにいかなくてはならない」



 茶の味に一瞬顔を顰めたラザロスだったが、もはや一刻の猶予もないとばかりに彼は席を立つ。


 彼はこれから、妻のもとへ行くのだろう。



 頼りになる友人の助言を聞きそびれたリベラは途方に暮れつつも、ラザロスを引き止めることはしなかった。



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