7 タビト ③

 そして、母さんが「病」になった。

 母さんから「病」の匂いがする。何で母さんが? 母さんも硬くなってしまうの?

 混乱する私を抱きしめて、母さんは泣いていた。そして、泣きながら、再び私に頼んだ。

「お願い、タビト。敬子と玲弥を守ってやって。人の力じゃどうにもならないことはやっぱりあるの。だから、お願い。猫の魔力で、ちちんぷいぷいのぷいって。」

 かき口説く母さん。でも、私には魔力なんてないのに。

「お願い。私がいなくなっても、みんなが幸せでいられますように。どうぞどうぞ守ってやってちょうだい。」

 いなくなるなんて、言わないで。

「玲弥はお前といるときは楽しそうだけど、本当は、とってもしんどいの。とっても優しい子だから、自分が頑張らないと、と思って、無理してる。無理しすぎてるのよ。あの子の心が壊れてしまわないか、心配なの。でも、私はいつまでも側にいてやれない。タビト、私がいなくなったら、あの子をお願い。みんなをお願い。私がいなくなることで、また心がバラバラになるかもしれない。どうぞその心をつないでやって。」

 嫌だ。嫌だ。守ってやるなんて、できないよ。一緒に遊ぶことはできる。ペロリとなめてやることはできる。ゴロゴロで癒してあげることはできる。でも、それ以上のことはできない。無理だよ、母さん。

 母さんは、自分の「病」を治してとは、一言も言わなかった。ただただ、周囲の人のこと、敬子と玲弥のことを気にかけていた。

 私が守りたいのは、救いたいのは、母さん、あなただよ、他の人なんて、どうだっていい。でも、母さんを守ることもできない。他の人を守ることもできない。私は無力な猫に過ぎない。

 どうしてあげることもできない。


 慌ただしく、母さんは空色の四角い大きなカバンに、服やら本やら、詰め込んでいる。母さんはどこに行くのだろう。私を残して「旅」にでようとしているのか?

「行かないで。ずっと私と一緒にこの家にいて。」

 そう伝えたくて、ニャーニャー鳴いてみる。母さんは私をギュッと抱きしめて言った。

「タビト、私はもうこの家には帰ってこない。あなたは敬子と玲弥の家の子になるのよ。そこで、みんなを守ってあげて。」

 キャリーケースに入れられた。やめて、母さん。私と離れないで。

「お前は賢いなあ。そうだね。これで最後なんだね。」

「最後」。最後って、もう会えないっていうこと?

 泣いている母さんを見ると、それが答えなんだと分かる。

 だめだよ。母さん。父さんの時は、ちゃんと最期を見届けさせてくれたじゃない。

 何で私を遠ざけるの? 

 なぜ私を連れて行かないの? 

 話を聞いてあげるよ。ほっぺたをなめてあげるよ。

 私のことはもういらないの?

 私が無力だから?

 何もできないから?

 母さんは答えず、ただ泣いている。哀しそうに。


 キャリーケースは車に積まれ、知らない家に連れて行かれた。ここが敬子と玲弥の家なのだろう。

 母さんは、私にこの家で敬子と玲弥を守ってと頼んだ。

 でも、私が守りたいのは母さんだ。最期まで一緒にいたいのは母さんだ。この家は私の居場所ではない。


 隙を見て玄関から逃げた。

 走って走って走って。連れ戻されないように、遠くに行かなくては。そして、母さんを探さなくては。空色のカバンと一緒に母さんはどこへ行ったのか。どこを旅しているのか。


 あちこちをさまよった。そう、私の名前の通り、母さんを探す「旅」をした。


 外の世界は過酷だった。

 まず、食料を自分で調達しなければならない。猫の食料の代名詞でもあるネズミにはなかなかお目にかかれず、草むらの虫を捕まえる。公園のゴミ箱をあさる。猫好きの料理人から残飯を分けてもらう。

 テリトリーの壁は厳しく、先住猫の目を盗んで、隙を狙って食べ物にありつくのは至難の業だった。

 ある時、ペコペコのお腹を抱えて、小さな公園にやってきた。ここにも、縄張りを主張しているらしい匂いは濃厚に漂っていたが、背に腹は代えられない。砂場の横にあるゴミ箱から、心なしかいい匂いがするような……。子供が残した食べ物が捨てられているのかもしれない。ゴミ箱の中をあさってみようと近づいたとき、背後に圧を感じた。

 振り返ると、私の二回りはあろうかと思われる巨大な猫がこっちを睨んでいる。眼光鋭い白黒のハチワレ猫は、背中の毛を逆立て、「シャー!」と威嚇してきた。どうやら、ここは彼のえさ場らしい。どう見ても太刀打ちできそうな相手ではないので、大慌てで退散する。

 このハチワレは、この辺り一帯のボス的存在らしく、うろうろと餌を求めてさまよっていると、いろんなところで遭遇した。そのたびに、威嚇されたり、軽く猫パンチされたりして、慌てて逃げる……。その繰り返しだった。

 そんなある日、えさにありつこうと小さな漁港にやってきた。漁師たちが港に戻ってきたとき、運が良ければ、売り物にならない小さな魚を投げてくれることがあるのだ。ただ、このえさ場は激戦区である。常に2~3匹の野良猫がスタンバイしており、その中で見事、魚をゲットするのは容易ではない。私より素速い猫、古参の猫の方に分がある。

「お、お前、この前も来ていた新人だな。ほらよ!」

捻り鉢巻きの漁師のおじさんが、ひょいと、きらきら光る小さな魚を私に向かって投げてくれた。二日ぶりのごちそうにありつける! そう思った瞬間、目の前で、片耳の切れたでっかい茶トラが、見かけによらない俊敏さでジャンプした。見事に空中で魚をキャッチし、しなやかに着地する。私のお宝は奪われてしまった。今日もお恵みにあずかれなかった。

 茶トラがハグハグとおいしそうに獲物を食べているのを、チンと座ってヨダレをたらしながら見ていると、後ろから声をかけられた。

「まったく……見ちゃいられんなぁ……」

振り返ると、そこにいたのは、例のボス猫、ハチトラだった。

「お前、どんくさずぎるぞ。」

上から目線で言われたが、ぐうの音も出ない。

「はぁ……」

おっしゃるとおりです。私はつくづく、自分のふがいなさを感じた。

「お前、根っからの野良じゃねぇな。」

「はい。」

「家猫だったのか?」

「はい……」

ハチワレは、私に近づきながら、怪訝な顔をした。

「なんだって、野良になった? 捨てられたのか?」

「いえ……。生まれて間もない頃に人間に拾われました。今は、母さんを探してます。」

「お前の親猫を?」

「いえ、私を拾ってくれて育ててくれた、人間の母さんです。」

「人間の母さんねぇ……。で、その人間と、どうして離れちまったんだ?」

「わかりません……。母さんは、いなくなりました。空色の大きな四角いカバンに身の回りのものを詰めて、家から出て行ったんです。私は、母さんの娘の家に預けられたんですが、母さんに会いたくて、その家を抜け出しました。ずっと、母さんを探してるんです。」

「それで、野良になったってわけか……」

「そうなんです……」

ハチワレは、大きな顔を斜めに傾けて言った。

「空色の大きなカバンと言ったな。そのカバンってのは、下に四つコマが付いてて、コロコロ押して運べるやつかい?」

「あ、そうです。そんなカバンでした。」

「そいつはスーツケースってやつだ。」

「スーツケース?」

「キャリーケースとも言う。人間が、旅行に行くときに使うのさ。」

ハチワレは、この情報を披露して、自慢げに鼻をピクピクと動かした。

「旅行……。」

「旅に出るってことだ。お前の母さんは、長い旅に出たんだろうなあ。だから、お前を連れて行けなくて、娘に預けたんだろうよ。」

そうなのか……? 母さんは、旅に出たのか? 病気なのに? でも、一体どこへ? なぜ私を置いて旅に出たのか?

頭の中に、様々な「?」が渦巻く。

「お前が住んでた家か、それとも、預けられてた娘の家か、どっちかで待っときゃぁ、帰ってくるかもしんねぇぞ。」

帰ってくる? 母さんが? そんなことは考えたこともなかった。じゃあ、私があの家を飛び出たことは、間違っていたのか?

「正直、今のお前を見てると、到底、野良としてやってけそうにねぇ。悪いことはいわん、家に帰ったらどうだ?」

「でも……」

私はうつむいた。

「どうした?」

「帰ろうにも、その家がどこかも分かりません……。家を出てから、随分あちこちさまよったので……。」

「そいつは困ったな……。」

ハチワレは低く唸った。

 どうしていいかわからない。うなだれている私の横で、ハチワレも心なしか、しょんぼりしているように見える。荒っぽいだけの怖い猫かと思っていたが、「猫はみかけによらない」というやつかもしれない。

「まぁ、しばらくは野良として生きていかなきゃならんってことだな。」

ハチワレが大きな声を響かせた。

「よっしゃ。俺が野良の生き方をお前に教えてやろう。」

目を丸くしていると、こう聞かれた。

「何だ? 不服か?」

「いえ、とんでもない! あ、ありがとうございます!」

「餌の探し方も、コツってもんがある。今のお前のやり方じゃ、飢え死にしちまうぞ。」

「そ、そうですねぇ……」

確かに、家を飛び出してから、まともなものを食べていない。艶やかだった毛並みは色を失い、骨がゴツゴツしている。

「例えば、この場所。あの茶トラは、すばしっこいし、若いもんに餌を分けてやろうっていう情けがないから、あいつがいるときは、お前じゃあ、まず無理だな。」

「ここはあきらめた方がいいんですかねぇ……」

「時間を変えればいい。あいつが姿を見せるのは大体今頃だから、2~3時間、ずらしてみるといいかもな。」

「なるほど……」

「他のエサ場も、猫のパトロールの時間は大体決まっているから、よく観察して、時間をずらせば餌にありつける確率は増える。」

「お~……」

尊敬のまなざしをハチワレに向ける。

「それから、ここは競争率が高いから、少し離れた釣り場に行くっていう手もある。あそこの岸壁で、釣り竿を垂らしてる人間たちがいるだろ。その近くで待っとけ。少し距離を取って、お行儀良く待っとくんだぞ。催促しすぎはダメ。あくまで謙虚に。ちっちゃい魚を分けてくれるかもしれん。魚をもらったら、ちゃんとお礼を言うこと。相手をよく観察して、猫好きのようだったら、足にすり寄って撫でてもらえ。お前のことを気に入ってもらえるかもしれん。そうしたら、魚がもらえる確率はずっと高くなる。」

すごい……。野良猫たちは、そんなふうにして生きているのか……。

「ありがとうございます! 勉強になります!」

心からの思いを伝えると、ハチワレはちょっと照れたふうに、右を見たり左を見たり、最後に、耳の後ろを足でぽりぽり掻いた。

「よし、じゃあ、とっておきのところを教えてやろう。」

尻尾をピンと立ててのっしのっしと歩いて行くハチワレの後を、慌てて追いかける。

 海辺から離れて街中に向かい、ハチワレが案内してくれたのは、古ぼけた小さな中華料理店だった。年季の入ったのれんが店頭で揺れている。店の裏手に回って、しばらく待っていると、勝手口が開いて、白い帽子をかぶった人間が出てきた。その人は帽子を脱いで大きく伸びをし、戸口の小さな丸椅子に座った。白髪頭を左右に振りながら、たばこを取り出し、煙をくゆらせている。しわだらけのその手は、油がしみこんでいるように茶色い。

「なぁお」

ハチワレが身体に似合わぬ優しげな声で鳴いて、その人間にアピールした。

「おー、ハチか。待ってろ。今、残りもんをやるからな。」

彼はハチワレの傍らにかしこまっている私の存在に気づいた。

「ん? 何だ、お前の子分か? えらい痩せとるじゃないか……」

そっと背中を撫でられる。

「ガリガリだなぁ……。こいつにも、上手いもん、食わしてくれってことか? さすが、親分だな。」

その人は、いったん店の中にもどり、発泡スチロールのトレイに入れたおいしそうな匂いのする食べ物を持って、再び現れた。

「さ、食べな。」

こんな豪勢な食事は、いったい何日ぶりだろう? ハチワレと頭をくっつけながら、むしゃむしゃとひたすら食べた。美味い。美味すぎる。

「お~、いい食いっぷりだな。よっぽど腹減ってたんだな。」

そっと撫でてくれる感触が懐かしい。

「ま、腹が減ったら、またおいで。」

うれしい言葉を残して、その人は店の中に戻っていった。

「うまいだろ。」

ハチワレが毛繕いをしながら言った。

「はい!」

「大体この時間に、休憩に入るんだ。店の外で一服してるから、今時分が狙い目だな。」

「ありがたい……」

「あの人、猫好きだから、残飯をちゃんととっておいてくれる。」

 その後も、いくつかのエサ場を教えてもらった。

 また、道路の渡り方も習った。

「車ってやつに気をつけな。カラスや野良犬よりも、一番怖いのは車だ。何匹もの野良猫が、車にひかれて死んじまった……。」

そう言われて、記憶がよみがえる。生まれて間もない頃、母猫の後を必死でついていくとき、間一髪で車をやり過ごしたときのこと。同時に、敬子の額に手をやったとき、頭の中に入り込んできた映像もよみがえった。ベビーカーを押している敬子に迫ってくる車。鈍い衝突音。

「道を渡るときは、必ず車が来ていないか、確認すること。奴ら、すごいスピードだからな。充分待ってから渡ること。」

「信号」についても教えてもらった。青信号まで待つこと。

 空き地で開かれている猫集会にも連れていってもらった。5~6匹の猫が、微妙に距離を取りつつ、思い思いの体勢でくつろいでいた。その中には、波止場で私から魚をかすめ取った茶トラの姿もあった。

「こいつ、しばらく俺が面倒見るから。よろしくな。」

ハチワレの一言で、他の猫たちから受け入れられた。集会の中で、貴重な情報交換もさせてもらえるようになった。

 少しずつ、野良として生きる要領が分かってきた。


 天気も時に「敵」となった。雨が降る中、風が吹きすさぶ中、食料を確保しなければならない。家というものがどんなにありがたいものだったかよく分かる。空の色、雲の動きに敏感になった。

 あの山の中腹部に横長の黒い雲がかかったら、程なく雨が降る。早々に雨がしのげるところに移動すべきだ。グレーのぼったりとした空からはいずれ雪が落ちてくる。少しでも暖かいところを探そう。

 でも、青空も恐ろしい。母さんが私を撫でながらつぶやいた。

「空は巨大な穴なのよ。大きくて深くてどこまでも続く穴。だから、一度その穴に飲み込まれたら、もう戻ってこれないの。」

 青空はどこまでもどこまでも広がっている。そこには何か得体の知れない大きな力のようなものがあって、吸い込まれてしまいそうになる。とらわれてしまうと元には戻れない。小さな自分という存在が消えて無くなってしまう。ぶるんと身震いして目をそらす。そして、食べ物を探す。居心地の良い場所を探す。母さんを探す。

 

 生きることに必死だった。

 必死で生きながら、母さんを探した。

 いろんな場所に行った。いろんな猫に聞いた。

 でも、母さんはどこにもいない。

 さすらって、さすらって、さすらって……。

 会いたい。会えない。話したい。話せない。

 辛い。寂しい。哀しい。

 自分の無力さが身にしみる。

 なんて私はちっぽけなんだろう。何で私はちっぽけなんだろう。

 母さんはきっと、今、一人で苦しんでいるはず。

 それなのに、なぜ私は何もしてあげられないのだろう。

 思えば思うほど辛くなる。しんどくなる。

 

 そのうち、私は、頭から、辛いこと、哀しいこと、寂しいことを追い出してしまった。

 何も考えなければ、少し楽になる。

 そうやって、日々をやり過ごしているうちに、「忘れる」という手段を心と体が選択した。

 何もかも、胸の奥深くのところにしまい込んで、見ないようにした。目をそらした。封印した。

 でも、誰かに頼まれたことだけは、ずっと頭の中にあった。

「猫の魔力で、人の心をつないで。」

 それができない無力な自分。

 ああ、そんなことができるようになりたい。

 誰か(?)の望み、願いを叶えたい。

「力」が欲しい。

 願って、願って、願って……。


 気付いたら、人外、猫外の力、妖力とも呼べるような力を持っていた。

 でも、何のためにその力が必要だったのかは、はっきりしない。

 漠然と「何か」をしなくてはならないことは感じた。

 人の心をつなぐこと。

 

 そうして、私はたくさんの人の額から銀糸を紡ぎだした。


 すれ違っていた人の心が私の紡ぎだした銀糸によってつながったとき、何とも言えぬ「幸せ」を感じる。

 この「幸せ」は何?

 この先に何かあるような……。。

 こうやって、つないでいけば、そのうち、もっと大きな「すごいこと」「うれしいこと」が待っているような……。

 

 さまよいながら、様々な場所で、様々な空の下、様々な人間と出会い、銀糸を紡ぎ続けた。

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