7 タビト ②
生まれたのは、どこかよく分からない薄暗いところだった。一緒に生まれた他の二匹とともに、みゅーみゅー鳴きながら、奪い合うようにして母猫のお乳を必死で探して飲んだ。母は全身真っ白で、その暖かな毛並みの中に包まれると安心して眠れた。
そこが安全な場所ではなくなったからなのだろうか、母に首の後ろをくわえられて、移動した。まぶしい外の光が目に痛い。初めて見る外の世界。何もかもが大きくて、うるさくて、怖かった。
母とは違う猫。わーわーとうるさい人間。恐ろしい速さで現れる車。
引っ越し先は、空き家の軒下だった。前のところよりは明るく、「世界」がよく見えた。興味津々で身を乗り出すと、母に連れ戻された。
その場所で、弟猫が、死んだ。母の血を受け継いで、真っ白な美しい猫だった。
生まれ落ちたときから、その子は小さく、先天的な病を抱えていたのか、出のいいおっぱいを探してお乳を飲むバトルからも、出遅れていた。
気づいたら、硬くなって、動きを止めていた。
母はしばらく弟をなめていたが、どんなにしても動かない。やがて、その小さな身体から異臭がするようになってきた。
母は、弟をその場に残し、私と兄を連れて、再び引っ越しを始めた。私たちも少し大きくなって、よたよたとではあるが、歩けるようになっていた。
黒白ブチの兄の方が、私より身体が大きく、動きもしっかりしている。私は、何とかついていくのに必死だった。先頭に立って道を進む母は、ときおり歩みを止めて私を振り返り、待ってくれる。
だが、私だけがどんどん離れ、あせって追いつこうとしているとき、安全なルートを踏み外して、狭い溝のような空間に落ちてしまった。やや高さもあるそこから這い出ようとするが、かなわない。コンクリートをガリガリひっかいて上がろうとするが、爪はたたない。みゅーみゅー鳴いて母を呼ぶが、母と兄はもう遠くに行ってしまったのか、姿が見えない。
鳴いて鳴いて鳴いて、もう誰も助けてくれない、自分も弟と同じように、ここで硬くなっていくんだなと、半ばあきらめかけたとき、「人間」の手が私を持ち上げた。
私を救ってくれた人、それが「母さん」だった。
人間の女の人。
それまでは、人間は怖いものだと思っていた。でも、「母さん」の手は、やわらかく温かかった。
「もう大丈夫。怖くないよ。」
その声もあったかかった。
お湯で洗ってくれ、タオルで拭いてくれ、あったかい風で乾かしてくれた。泥にまみれてカチンコチンになっていた毛が、ふわふわになった。
「おまえは柔らかいね。あったかいね。」
抱きしめられて、心もふわふわになった。
「母さん」と呼ばれるその人は、時に「ばあちゃん」とも呼ばれていた。私的には「母さん」という呼び方の方がしっくりくる。
母さんは、私に「タビト」という名前をつけてくれた。「旅をする人」という意味らしい。「旅」とは何かよくわからないが、いろんな場所に行くことらしい。
いろんな場所って? ここ以外にどんな場所があるのだろう。母と兄は、私の知らない場所を二匹で旅しているのだろうか。
でも、私には「旅」は必要ない。「ふわふわ」をくれる母さんがいるこの家で暮らせたら、それでいい。
この家には「父さん」(時に「じいちゃん」)もいた。父さんは、「病」の匂いを漂わせていた。やがて「死」にいたるそれ。きっともう長くはない。弟猫が冷たくなっていた日のことを思い出す。
父さんは、私を認めてくれた。
「良い猫だ。この家の守り猫だな。」
と。
母さんは私を抱き上げて、目を細めて言う。
「お前はみんなを守ってくれる。幸せにしてくれる。みんなの守り神だね。」
「神」って何? 困っている人を救ってくれる人?
だとしたら、私の「神」は母さんだ。母さんは死にかけていた私を救ってくれた。母さんに撫でられると、心も体もとろけそうな幸せに包まれる。私はここにいていいんだ、と、思わせてくれる。
この家には「敬子」が毎日のようにやってきて、「玲弥」が時々それについてきた。敬子は母さんの娘、玲弥は敬子の子供らしい。玲弥からすると「母さん」は「ばあちゃん」、「父さん」は「じいちゃん」ということになる。何ともややこしいことだ。
玲弥は、最初は、こちらに害を与える危険な相手だった。尻尾を引っ張ったり、無茶な抱き方をしたり。猫の扱いを全く分かっていない。それを知らしめるため、爪を立てて、泣かれたりもした。だが、そんな玲弥は母さんにさとされたらしく、態度を変えてきた。ちゃんとこっちのご機嫌を気にするようになり、嫌なことはしなくなった。私が撫でて欲しいところを優しく撫でてくれる。猫じゃらしの振り方もなかなかのものとなり、結構楽しい遊び相手となった。やはり、母さんは「神様」だ。
でも、そんな「神様」のような母さんにも、どうしようもないことがある。それは、父さんの病だ。母さんは私に頼んだ。何度も何度も。
「タビト、お願い。どうぞ父さんを安らかに逝かせてあげて。猫の魔力で、ちちんぷいぷいって。あの人は本当によく頑張った。だから、最期は穏やかに、苦しまずに逝かせてあげたいの。」
私には魔力なんかない。壊れそうな命を救うことはできない。でも、何か悪いものが来ないように、見張っておくことならできる。
父さんが亡くなるときは、静かで安らかだった。私はその様子を父さんの足下でじっと見ていた。
「タビト、ありがとうね。守ってくれたんだね。」
母さんが言うように、守れたかどうかはわからない。でも、母さんにそう言われると、何だか力がわいてくるような気がする。
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