6 水谷敬子 ④

 そんなある日、郵便受けのものをとろうと玄関のドアを開けたとき、ふと視線を感じた。

 白い庭石の上に、一匹の黒猫がちょこんと背筋を伸ばして座っている。身体の前で行儀良くそろえた足先が、左右とも白い。

「タビト?」

 目を疑った。猫は小首をかしげてこっちをまじまじと見ている。

 このポーズ。母が言うところの「ビクターの犬」だ。

 やっぱり、タビト? 

 あれから何年たっただろう。かれこれ八年になろうか……。本当にタビトなのか。この家を覚えていて、戻ってきたのだろうか。

「タビト。こっちへおいで。」

 逃げられないように用心しながらそっと近づき、少し離れたところにしゃがんで手を差し伸べてみた。

 猫は、少しこちらの様子をうかがっていたが、お尻を上げて、ゆっくり近づいてきた。差し出した私の指をクンクン嗅いでいる。何となく納得したのか、そこでもう一度、背筋を伸ばして座った。

 恐る恐るさらに手を伸ばし、そっと撫でてみた。猫は嫌がらなかった。むしろ、もっと撫でてといわんばかりに、喉元を伸ばした。

 間違いない。この子はタビトだ。戻ってきたのだ。

 思い切って抱き上げた。タビトはされるがままだ。そのまま家の中に連れて入る。温かいぬくもり。久しぶりの感覚だ。

「お帰り、タビト。よく戻ってきてくれたね。」

 ソファに座ってゆっくりと膝の上のタビトを撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす音がする。タビトも喜んでいると思うと、余計にうれしくなる。

 そうだ……。この感覚。この手の感触。やっぱりタビトに間違いない。

 しばらくおとなしく撫でられていたタビトが、不意にむっくり起き上がった。そして、私の顔を見上げてくる。金色の瞳が私を捉える。猫の魔力。そう母は言ってたっけ。何か不思議な感覚が私を絡め取る。見つめられると、私の中の何かがもわもわとしてくる。

 タビトは、しなやかな身体を持ち上げ、私の顔に近づいてきた。そして、右手を伸ばし、私の額にあてた。弾力のある肉球の感触。それと同時に心のどこかがカチリとつながった。

 タビトはそっと手を離した。奇妙なことにその手の先に、銀色のキラキラ光る糸のようなものが付いている。その銀の糸は私の額から引っ張り出されているように見える。やがて銀糸は私からもタビトからも離れ、ふわふわと空を舞った。不思議なその糸を目で追っていくと、やがて、部屋の角にある本棚の引き出しの取っ手に引っかかった。 

 ソファから立ち上がり、本棚のところに行く。何なのだろう、この糸は。猫の魔力? 実に美しい。これが、私の中から出てきた? こんなきれいな糸が?

 まるで生き物のように糸の端っこは、引き出しの隙間にすべりこんでいる。


 そっと引き出しを開けてみた。

 ここには……。

 心の中にしまい込んでいたものが蘇ってきた。

 震える手で、上の方の手紙やら領収書やらをどける。そう、きっとこの中に……。

 あった。

 空色の短冊が出てきた。そこにはたどたどしい字でこう書かれている。

「おとうとがほしいです。 れいや」

 小学二年生の玲弥が書いた七夕の短冊。これを見たとき、何とも微笑ましい思いになったことを思い出す。そして、他のものは片付けても、これだけは捨てられなくて、この引き出しにしまっておいたのだ。

 無心に、率直に、自分の願いを綴った短冊。小二の玲弥はこんなにも無邪気で子供らしかった。

 見ていると、涙があふれてきた。

 玲弥。玲弥。玲弥。ごめんね。あなたのことをまっすぐ見てあげられなくて、ごめんね。ひどいお母さんだね。

 お前はありのままでいいんだ。私のことを無理して気遣わなくていいんだ。ごめんね。十年間も、辛い思いをさせて。

 玲弥の思いをストレートに受けとめ、「玲弥」をちゃんと見ていた当時の私。

 そうなんだ。何も演じてなどいないのだ。私は玲弥の母で、私は玲弥が大切で……。

 七夕の願い。それは、「神」への願いよりも、もっともっと不確かなものだ。でも、そこには、人としての素直な願いが込められている。短冊に書いたからといって叶うとは限らない。でも、そうやって言葉にすることで「願い」は形となる。その願いを誰かが目にすることで、さらに確かな形となる。ひょっとしたら、そこから何かが動き出すかもしれない。

 母が言ったように、「人間の力ではどうにもならないこと」も、「願い」を持って、それを言葉にして、それを周りの人と共有していくことはできる。叶うかもしれない。叶わないかもしれない。でも、何も願わないよりは、きっとずっと良い。思いを伝えないよりはずっと良い。


 気づけば銀糸は消えていた。でも、振り返るとタビトはいた。ソファの上で、相変わらず首を軽く傾けてこちらを見つめている。

「ありがとう。タビト。大切なことを思い出させてくれて。やっぱり母さんが言ってたように、君は私たちを守ってくれるんだね。」

 ソファに座り直し、感謝の思いを込めて静かに背中を撫でる。

「ありがとう。ちょっと頑張れそうな気がしてきた。私は私として、ちゃんと玲弥に向き合ってみる。ちゃんと言葉にして伝えてみる。そう言えば、今まできちんと話したことなんてなかったなぁ……。」

 タビトが返事をするかのように「なぁーお」と鳴く。

「やっぱりお前は人の言葉が分かるんだね。賢いねえ。母さんが言ってたとおりだ。」

 ふふっと笑う。何だかすごく楽しい気分になる。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。

 自然に笑っている自分に、少し驚いた。これも猫の魔力か……。

「そうそう、母さんからタビトに伝言を預かってるの。お前がいなくなっちゃったから、ずっと伝えられてなかったけれど。」

 タビトの目が「何?」といっているように感じる。 

「母さんはね、こう言ってたよ。タビトに感謝してるって。心配事は何でもタビトに聞いてもらった。自分でどうにもならないことは、猫の魔力でどうにかしてってお願いした。どうにもならないことだって分かってても、それを言うことで、タビトに聞いてもらうことで、すごく楽になった。ありがとうって。

 タビトに申し訳なかった、とも言ってたよ。自分の愚痴やお願いを聞いてもらって、しんどくなかったかなって心配してた。

 『ありがとう。タビトのおかげで救われたよ。』って伝えてねって頼まれた。」

 神妙に聞くタビトの瞳がキラリと光ったように思えた。

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