6 水谷敬子 ③
うちに来て十日後、宅配業者が荷物を運び入れるために玄関のドアを開けたその瞬間、タビトは外に出て行ってしまった。
家族総出で探し回ったが、みつからない。ご近所の方にも聞いてみたが、分からない。「迷い猫、探してます」というチラシも配った。母の家の近くで目撃情報があった。急いで行ってみたが、結局みつからなかった。
「タビトは、ばあちゃんを探して旅に出たんだ。」
玲弥の言葉にみんな納得した。
母にはそのことは告げなかった。タビトと私たちが「幸せ」に暮らしていると思ったまま、逝ってほしかったからだ。
亡くなる少し前、殺風景な病室で、母は言葉を絞り出すようにして私にささやいた。
「玲弥をお願い。あの子は、自分の優しさの中で、無理しすぎてる。」
わかってる。言われなくても知っている。
「知ってた。」
答えると、母は目をつぶった。そのしわだらけの目尻からすーっと涙がこぼれた。
「そう、知ってたの。じゃあ、あんたもずっと辛かったんだね。」
母の静脈が青く浮いた手をそっと握り、私も泣いた。
そうよ。わかってた。あの子の辛さ。悲しさ。寂しさ。
でも、私はそれを見ない振りをしていたの。
「ごめんなさい。母さんは、ずっと玲弥のこと、心配してくれて、心を痛めてたんだよね。私のことも……。お母さんが病気になったの、私のせいだ。」
「何でそんなこと言うの。」
「だって、私がこんなだから。いつまでもいつまでも、こんなだから。」
情けない、本当に自分が情けない。
「大丈夫。大丈夫よ。心が癒えるのには、時間がかかる。あんたのせいじゃない。敬子は何も悪くない。そんなふうに自分を責めちゃいけないよ。」
低く細く母の声が続く。点滴のしずくが弱く光る。
「そう、ひとつあんたに良くないところがあるとしたら……、それは、自分だけで抱えて自分を責めすぎること。それは良くないわ。しんどいときはしんどいって言えばいいの。辛いときは辛いって言えばいいの。」
「でも、そんなのできない。それに、私、自分だけを責めてたんじゃない。もっと汚い。みんなのことも責めてた。私の中のドロドロ、汚すぎて、人に言えるもんじゃない。」
「いいのよ、それで。あんたがその本音を吐き出してくれたってことがうれしいと思う人だっているわ。現に、今の私がそうだもの。ちゃんと言えたじゃない。」
母はうっすらと微笑んだ。
「私だって、しんどいときは言ってたのよ。」
「誰に?」
「タビトに。あの子に聞いてもらえて救われた。父さんのこと、光のこと、お前のこと、玲弥のこと……、心配事は何でもタビトに相談したわ。『ちょっと、聞いてくれる?』って。タビトは賢いから、ちゃんと聞いてくれるの。ほら、あのビクターの犬がいるでしょ。あんな感じ。敬子は若いから知らないか……。ちょっと首をかしげてこっちを見ながら聞いてくれる。」
母の目が遠くを見ている。その視線の向こうには、きっとタビトがいるのだろう。
「そして、お願いしたの。猫の魔力でどうにかしてって。」
「タビトにお願い?」
母はまるで少女のようにクスリと笑った。
「そう。お願い。願掛けみたいなものね。どうにもならないことだとは分かってる。でもね、人はそれを言うだけで、言葉に出すだけで、少し楽になれるの。神頼みって、そういうもんでしょ。」
神。私が完全否定した神。そうか、そんな風な考え方もあるのか。
「大丈夫。あんたも玲弥も、きっと大丈夫よ。人の力ではどうにもならないことは、この世にいくらでもある。でも、その中で、人はどうにかこうにか、あらがいながら、生きていくものなのよ。大事なことは、一人で抱え込みすぎないこと。私にタビトやお前たちがいてくれたように、あんたの周りにも、支えてくれる人、一緒に痛みの中でもがきながら生きている人がいる。だから、大丈夫。」
大丈夫じゃない! 私はまだそこまで強くない! お母さんがいないとダメ!
叫びたかった。でも、死を前にした母に対してそうするのは、さすがにできなかった。必死にこらえた。母の手を握って、小さくうなずいて見せた。
母の葬儀は、母が事前にしたためておいたノートに従って、粛々と執り行われた。そうはいっても細かい打ち合わせやいろいろな手配は、やはりある。夫とともに、大きな決断から些細な手続きまで、種々様々なことに忙殺された。
一人の人間が死ぬということは、こういうことなのだ。改めて、「死」を実感する。
光の葬儀の記憶は一切ない。その時の私の心は、真っ白だった。そんな私の手を煩わせまいと、夫と母がすべて取り仕切ってくれたのだろう。
今、その母はいない。
しっかりしなきゃ。私がちゃんとしっかりしなきゃ。
母を死にいたる病に追いやったのは、自分だ。その罪悪感が私を責め苛んだ。光の時よりも、もっと明確に。
また真っ黒なドロドロに取り込まれそうになる。
でも。
だからこそ。
私がしっかりしなきゃ。
思えば、私は甘えていたのだ。母に。夫に。玲弥にまでも。自分一人、哀しみの中に逃げ込んでいた。そこに囚われることで、むしろ、安定していたのかもしれない。
母がいない今、私が動かなければ。母が私たちを守り支えてくれたように、私が夫を、玲弥を、守り支えなければ。
そう思うと、身体が動く。
母だったら、こうしていた。こう言っていた。
「自分」としてだったらできないこと、言えないことでも、できる、言える。玲弥の頑張りに目を細め、褒めることもできる。玲弥の好きな料理をリクエストに応じて作ることもできる。
ただ、心のどこかに、相変わらず、押し込めた黒い塊はある。ときおりそこから、鋭い棘がにょっきり出てきて、心をわしづかみにする。
「なぜ光は死んだのか。」
「なぜ光は死なねばならなかったのか。」
「どうしたら死なずにすんだのか。」
無理矢理それを押し戻す。
母だったらこう言う。母だったらこうする。
いつの間にか、私も「母」を演じていた。玲弥が「良い子」を演じているように。玲弥がときおりこっそり吐いていることも知っている。知ってはいるが、知らない振りをする。
「今日は玲弥の好きなカツカレーよ。」
それを喜ぶ単純な息子を演じる玲弥。それに合わせて、彼の苦しみなど気づいてもいない「単純な母」を演じる私。
不思議なバランスの上で、水谷家は回っている。端から見たら、いたって自然に。だが、その均衡は極めて脆く、危なっかしく、今にも崩れそうで、しんどい。めまいがしてくる。
光がいなくても「自然」に過ぎていく時間。そのすべてが憎くなる瞬間が、かくれんぼの鬼のように現れて、私を襲う。その鬼に囚われると、私は身動きできなくなってしまう。
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