6 水谷敬子 ①

 この世に神はいない。もしいるとしたら、それは恐ろしく残酷な神だ。決して人を救ってくれる「神様」ではない。無慈悲で冷徹。いや、それは人間が自分の価値基準でそう思うだけで、「神」にしてみたら、人間のことなどどうでもいいだけなのだ。神は人間のことなど思いもしない。一人の人間にとって良かろうが悪かろうが、そんなことは、神には関係ない。

 運命。

 さだめ。

 いろいろな言い方があるが、およそちっぽけな人間の意志とは関わりなく、この世界は動いている。それを司るのが「神」だ。「助けてください。」とすがってみたところで、それを超越したところに「神」はいる。そもそも、そんな人間の声さえ届きはしない。


 光が亡くなってから、そう思うようになった。


 昔の自分は、漠然とではあるが、それとは違う「神様」像をもっていた。特に宗教を信じているわけでもないが、世の一般的な日本人と同じく、お正月には初詣に行き、家内安全を祈る。妊娠した時には、母が神社で拝んでもらった腹帯をつける。玲弥の七五三の時も、神社に参った。どうぞこの子が健康に育ちますように、と祈った。光が生まれたときもお宮参りをした。真っ白な産着に包まれた光は、家族みんなに見つめられながら、神社の鳥居をくぐった。

 決して心から当てにしているわけではないが、何となく神に祈ると、守ってくれそうな気になる。お参りしてお賽銭を上げることで、心のどこかで安心する。


 そんな「神」への漠然とした信頼は、あの事故とともに消え失せた。


 八ヶ月の光。

 何の罪も汚れもない光。

 そんな光がなぜ死なねばならないのか。


「神」はなぜ救ってくれなかったのか。


「神」にとっては、光の存在などどうでも良いことなのだ。死のうが生きようが、どうでもいいのだ。


 もともと当てにならないものを当てにしていただけで、半ば「逆恨み」のようなものだと理屈では分かってはいる。分かってはいるが、どす黒い感情をどうにもできない。


 「なぜ光は死んだのか。」

 「なぜ光は死なねばならなかったのか。」

 「どうしたら死なずにすんだのか。」


 繰り返し繰り返し、押し寄せる問い。


 頭の中であの時の光景が際限なくリピートされる。壊れた映写機のように、何度も何度も。

 

 あの日は雲一つない快晴だった。

 横断歩道の手前で立ち止まり、空を見上げた。何という美しい青。しばしその色に見とれ、幸せな気持ちで一歩を踏み出したとき、巨大な物体が視界に入った。「えっ?」と思う間もなく、身体に衝撃が走り、ベビーカーが宙を舞うのが見えた。青色をバックに、ゆっくりとスローモーションのように。自分自身の身体も宙に浮いていたのだろう、次の瞬間、地面にたたきつけられた。右足に強い痛みが走った。ベビーカーも鈍い音とともに地面に落下した。

「光!」

 叫んでいる声が、自分の声ではない何か他の人の声のように耳に入ってきた。そして、意識を失った。


 あの時の空があんなに美しくなかったら。

 そうしたら、私はもっと早く、ミニバンに気づけたかもしれない。


 もちろん、直接の原因は、前方未確認で突っ込んできたミニバンの運転手だ。彼は、涙を流し、病院の冷たい床に頭を擦り付けてわびた。三十五歳の妻子持ちの男だった。自分にも二歳の男の子がいるのだという。だから、自分の犯した罪の恐ろしさは痛いほど分かると言っていた。

 しかし、いくら謝られても、光は帰ってこない。

 その男は、過失運転致死罪に問われ、刑務所に服役した。

 しかし、彼がそうやって自分の罪を償ったところで、光は帰ってこない。


 そして、問いは繰り返される。


 「なぜ光は死んだのか。」

 「なぜ光は死なねばならなかったのか。」

 「どうしたら死なずにすんだのか。」


 責められるべきは、運転手だ。

 だが、それだけでは「問い」の答えにはならない。「問い」は執拗にそのほかの解答を求めてくる。


 「なぜ光は死んだのか。」

 「なぜ光は死なねばならなかったのか。」

 「どうしたら死なずにすんだのか。」


 最初に出た答えはこうだ。

「あの時、私がベビーカーを別方向に押していれば、光は生きていた。」

 そして、自分を責めた。なんて母親。子供の命を守れなかった。

 周囲のものは、そんな私を慰めた。そんなことはない、あの事故は敬子のせいではない、と。

 じゃあ、なぜ光は死なねばならなかったの? 私が機敏に反応していれば、あんなことにはならなかった。光は今もこの家で笑っていた。

 自分を責め続けるのは苦しかった。心の奥底がドロドロになっていくのを感じる。世界から色がなくなった。何を見ても心が動かなくなった。あんなに光に満ちていた世界はあっという間に別の世界へと変貌を遂げた。

 ドロドロになった心は、さらに嫌な部分に落ちていった。

「あの時、玲弥がうるさいって言わなければ、私は光を連れて散歩に行かなかった。」

「あの時、母が家にいてくれて玲弥をあやしてくれていたら、散歩に行かなくてすんだ。」

「なぜ夫は光のものを隠したの? 私に光を忘れさせるため? そんなことできないって、なんでわかってくれないの?」


 口には出さないけれど、そんな最低な思いがよぎった。こんなことは、単なる責任転嫁。自分を責め続けることに疲れた自分が生み出してしまった世迷い言だとは分かっている。でも、一度巣くってしまった邪念は消えない。そして、そんなことを考えてしまう自分が嫌で嫌でたまらなくなった。言葉に出さない分、そのよどんだ澱は、心の深いところにたまり続けて、層をなしていった。


 何を見てもしんどい。

 誰の言葉を聞いても辛くなる。


 家事もできない。

 布団から起き上がれない。

 お風呂に入ることすらできない。


 どうしようもない自分。


 そんな自分を、母は、夫は、玲弥は、何とか励まそうとしていた。その気持ちはよくわかった。

 しかし、黒い塊は、それすらも否定する。必死で自分のことを支えようとする彼らのことさえおとしめる。そうやって、光のことを忘れさせようとするの? 自分の罪をあがなうために? 

「罪」ですらないこと、彼らに何の責任もないこと、彼らのせいではないことはよく分かっている。でも、黒い塊が胸もとにつかえてとれない。

 小学二年生の玲弥が、おどおどした目で私を見る。

 何、その目? 私が怖いの?

 玲弥が一生懸命明るく振る舞う。「良い子」でいようと頑張る。

 何? それで光のことを忘れさせようとしているの? 「死んでしまった光より、僕を見て。」と言いたいの?

 玲弥を見ると光のことが思われる。玲弥が頑張れば頑張るほど、「もし光が生きていたら」と思ってしまう。

 とんでもない母親だと分かってはいる。玲弥が可哀想だとも思う。だが、塊はチクチクと鋭い棘で心を刺してくる。


 このまま世界は真っ黒なままかと思っていた。

 だが、気休めだと思われた「時が解決する」という言葉は、真実であるらしい。

 少しずつ世界は色を取り戻した。光がいない世界。でも、その世界でも私たちは生きていく。いつまでもくよくよしてちゃいけない。そう自分に言い聞かせ、前を向こうとした。

 少しずつ、本当に少しずつ、動けるようになっていった。母がしてくれていた家事も、何とか自分でできるようになった。


 そんな時、残酷な神が再び運命を突きつけてきた。

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