5 水谷和子 ④

 私がガンの末期だという事実を、娘夫婦に伝えた。敬子は、真っ白な顔になり、しばらく口を聞けなかった。涙があふれて止まらない娘と、二人、静かに抱き合った。

 しばらくは薬で抑えていた症状も徐々に悪化していき、自分で生活するのがしんどくなってきたので、入院することにした。夫の時には私が在宅介護をし、自宅で彼の最期を看取ったが、今、娘にそれをさせるのは酷だ。病院の方がむしろ気兼ねがない。

 心配だったのはタビトのことだった。私がいないこの家に、一人だけタビトを置いておくわけにはいかない。だが、それを言うと敬子は笑顔で請け負ってくれた。

「大丈夫。タビトはうちで面倒見るわ。玲弥もタビトのことが大好きだから、ちょうどいいかも。それに、私も。」

 そうだ。玲弥も娘も、今度は私がこの世からいなくなるという事実に直面せねばならない。じわじわとその事実を受け入れていかねばならない。その時、きっとタビトが二人の支えになってくれるはず。夫の死を前にした私がそうだったように。

 下着、洗面道具、タオル、箸。本、スマホの充電器、タブレット。スーツケースに入院支度を整えた。

 淡いパステルカラーの水色のスーツケース。これは、夫が定年退職してから二人で旅行に行こうと計画を立てていたときに、購入したものだ。

 店頭でこのスーツケースを見て、私が一目惚れした。

「でも、ちょっと若すぎない?」

私がためらっていると、横にいた夫は優しく微笑んだ。

「いいんじゃない? 母さんのイメージに合ってると思うな。」

このスーツケースをコロコロ引っ張りながら、彼と一緒に知らない街を歩いているところを想像して、華やいだ気分になったのを覚えている。出会った頃に彼と議論を交わした万葉集の歌。その歌が詠まれた場所を訪れてみたい。旅行雑誌を見ながら、彼と計画を練ったっけ……。

 彼のガンが再発してそれどころではなくなり、今まで日の目を見ずにいたものだが、まさかこんなところで役立つとは、思いもしなかった。人生、何があるか分からない。

 できる範囲で、家も片付けた。いらないものはできるだけ処分しようとしたが、なにぶん、身体が以前のようには動かず、何をするのも億劫だ。ちょっと動いては休み……その繰り返し。結局、十分なこともできないまま、あきらめた。

 最後にタビトを抱きしめる。

「タビト、私はもうこの家には帰ってこない。あなたは敬子と玲弥の家の子になるのよ。そこで、みんなを守ってあげて。」

 キャリーケースに入れられたタビトは不満そうに強めに鳴いていた。不安にならないように、いつも寝るときに使っているお気に入りの赤いひざ掛けを一緒に入れてやったが、あまり効果はないようだ。ケースのネット越しにこちらを見る目が真剣で、切なくなってくる。タビトもこれがいつものお出かけとはちょっと違うということは、何となく察しているのかもしれない。

「お前は賢いなあ。そうだね。これで最後なんだね。」

 自分で言った「最後」という言葉に、戸惑い、絡め取られてしまう。泣くまいと思っているのに、涙が出てしまう。タビトの細い鳴き声がキリキリと突き刺さった。


 水色のスーツケースをお供にして、一人で入院手続きをすました。この街の唯一の総合病院である。かつて、夫が入退院を繰り返した際、何度も訪れ、時には付き添いで自分も寝泊まりした、勝手知ったる場所だ。洗濯機の場所、売店の営業時間、テレビカードの自販機の場所……すべて熟知している。

 病院での入院生活は単調で、毎日が長かった。朝の検温。問診。三度の食事。テレビを見るのもうるさくなり、クリーム色の天井を見上げる。点滴がポツンポツンと落ちていくのを数える。だんだんとできることが少なくなっていく。この状況は、夫の時に予習済みだ。後は静かに朽ちるのみ。薬のせいで食欲も落ちていく。家にいればタビトをなでたり、遊んだりできるのに……。スマホで撮ったタビトや玲弥の写真を繰り返し繰り返し見る。

 暇に任せて、タビトの名前の由来となった「大伴旅人」について、ググって調べてみた。

 彼はなかなかに波瀾万丈の生涯を送っている。

 都を離れて太宰府に赴任したのは、なんと六十過ぎてからだ。おそらく彼が望んだことではなく、今でいう「左遷」だったのであろう。だが、そこで旅人はさまざまな人々と親交を深め、「筑紫歌壇」と言われる和歌の仲間を得る。「新年号・令和」の語源となった歌が詠まれた「梅花の宴」は、旅人の屋敷で催されたものだ。歌集の序文を書くほど、中心的な存在だった。

 彼は太宰府赴任中に、連れ添ってきた妻を亡くす。二年の任期の後、帰京するのだが、その時、一緒に旅をしてきた妻はいない。

 帰路で旅人が詠んだ歌が残されている。

「行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも」

 太宰府に行くときには妻と二人で見た景色。同じその場所を通って、今まさに帰京できるというのに、最愛の妻はおらず、ひとりぼっちだという切ない気持ちが、ストレートに伝わってくる。念願の都に戻った旅人だが、その翌年には亡くなってしまう。

 当時の「六十歳」は今でいえば、恐ろしく高齢だ。そんな歳で左遷という憂き目に遭い、言うに言えない思いを抱えつつも、彼は太宰府という新天地で、自分の第二の人生を創っていった。だが、妻の死という悲劇が再び彼を襲う。京に戻った彼は、何を思い、残りの日々を過ごしたのだろうか。

 何となく、旅人と夫、旅人と自分を重ねてみたくなる。

 さあ、これから悠々自適の時が送れると思った矢先、ガンが再発した夫。

 その夫を見送り、一人残された自分。

 旅人も、きっと京に戻っても鬱々とした日々を送っていたのではないのだろうか。孤独は人を苛む。まして、当時の六十二歳となれば、そうでなくても心身ともに弱っていそうだ。「旅人」という名前が皮肉に見える。旅をしながら、さまよいながら、彼は何を心のよすがに生きていたのだろう。

 彼にとって、「歌」を詠むことは非常に大きなことだったのではないのだろうか。自分の悲しみ、喜びを率直に言葉にのせた歌。自分の感情と向き合わないと生まれない歌だ。歌を詠むことで、幾分か救われる部分はあったのかもしれない。

 そして、その歌を、千年以上たった現代の私たちが読むことができる。彼の思いを追体験し、そこに自分の思いを重ねることができる。そうして、自分自身の思いと向き合うことができる。

 病院の窓に切り取られた四角い空を眺める。自分のガンが発覚した日、空は大きな穴だと恐ろしく感じたことを思い出した。今日の空は、あの時と同じく真っ青で、鳥の羽毛を思わせる雲がひらりと浮いている。羽は軽やかで、どこまでも流れていきそうだ。

 良かった。そんなに怖くない。

 なぜだろう。もう自分の死を覚悟したからなのか。娘や玲弥のことが不安ではあるにせよ、もう自分のやるべきことはし終えて、後はここで静かに運命の日が来るのを待てば良いだけだという思いがあるからなのか。あるいは、この空の向こうで、夫が私が来るのを待っていると思うからなのか……。

 ベッド横の壁際には、入院するとき、家から荷物を詰め込んで持ってきた空色のスーツケースが、チンと収まっている。

 そうだな……。もうすぐ私は旅立つのだ。

 「あの世」というものがあるかどうかは知らない。でも、夫の思い、私の思いは、きっと何かの形で残っていくのだと思う。


 夫が亡くなった後のことを思い出した。彼の希望で、葬儀そのものは家族葬でこじんまりと行った。しかし、その後、知らせを聞いたといって、たくさんの方々が我が家にお線香をあげに来てくださったのだ。

 昔の同僚、地域の方、かつての教え子……。退職してからもう何年もたつのに……。そう思うと目頭が熱くなった。

 その人たちは、それぞれに、夫との思い出話を感慨深げに話してくれた。こんなふうにお世話になった、こんなことを教えてもらった、一緒にこんなことを頑張った、この言葉に支えられた……。私の知らない夫の頑張りが言葉となって伝わってきた。

 その中の一人は、何と、私も知っている女性だった。独身時代、夫が担任していた女の子。夫と私と、二人で夜中、行方を捜しまわり駅でみつけた、あの家出少女だったのだ。

 もうすっかり大人になった彼女の顔に、かすかに昔の面影があった。

「私、今、中学校の教員やってるんです。」

「え、そうなの?」

驚いて顔をまじまじと見ると、彼女は恥ずかしそうに続けた。

「はい。あの時、先生たちに助けてもらいました。何より、私のことを心配して、本気で探してくれたことが、とってもうれしかった……。ああ、こんな人もいるんだなって思えた。だから、私も、そんな先生になりたいって思って……。」

私は、あふれ出る涙を抑えることができなかった。ああ……、彼の頑張りは、決して無駄じゃなかったんだ……。こんなふうに、今も、この人の中で、いろんな人の中で、彼の思いは生きている。つながっているんだ……。

 泣いている私と彼女を、タビトが神妙な顔で見上げていた。

 

 そうだ。タビトだ。タビトがいてくれる……。大丈夫。きっとタビトがみんなを守ってくれる。タビトが、みんなの心をつないでくれる。あの子も、自分の道を歩いていくのだろう。

 タビトがまっすぐな尻尾をピンと立てて凜々しく歩んでいく姿を想像すると、自然に微笑んでいる私がいた。

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