5 水谷和子 ③
光が車にはねられて、死んだ。ベビーカーを押していた敬子も、重傷を負った。光はまだ八ヶ月だった。
何ということを神はするのだろう。
なぜ、こんな目に遭わせるのだろう。
人の力ではどうにもならないことがある。何も悪いことをしていないのに。無慈悲に過酷な運命が突然やってくる。「幸せ」は一瞬で崩れる。今まで当たり前にあったものがもぎ取られ、世界は別の空間となる。
残されたものは、自分を責める。何の落ち度もないのに。
敬子は、ベビーカーを押していた自分を責めた。
小学二年生の玲弥は、「光の声がうるさくて、宿題に集中できない」と言った自分を責めた。
私は、その時、自分が娘の家にいて、光をあやしてやっていたら、と思った。
悔やんでも、光は戻らない。
しかし、何度も何度も自分を責め続けてしまう。
結果、敬子は心を病んだ。光の写真、光の服、光のおもちゃ。それらを見るたびに、涙がとめどなく流れる。ご飯の用意をしようとして、手が止まる。ピントの定まらぬ目で空をみつめ、震えている。痛々しくて見ていられなかった。
玲弥も別人のようになった。あんなにやんちゃできかん坊だった子が、沈黙を保ち、母親の顔色をうかがっている。まだ小学二年生なのに。
笑顔と喜びであふれていた食卓は、何とも言えない気まずい時間となった。カチャカチャと食器が鳴る音、咀嚼音さえも聞こえそうな静けさ。
そんな中で、変わろうとしたのが、玲弥だった。
健気に、明るく振る舞ってみせる。そう、「振る舞ってみせる」のだ。私が作った料理を
「ばあちゃん、おいしい!」
と、大げさに褒めてくれ、勢いよく口の中にかきこんでみせる。年寄りが作った和風の薄味の料理は、口に合わないだろうに……。
「僕、今回の算数のテスト、満点!」
一生懸命、明るい話題を提供する。失敗談を披露しては、おちゃらけてみせる。まだ七歳なのに。見ていて、痛々しくも感じられるほど、彼は頑張っていた。
そうだ。私がへこたれてちゃいけない。こんな幼い子が頑張ってるんだ。玲弥の笑顔をみると、そう思えた。
少しずつ少しずつ、世界は色を取り戻していった。敬子の調子も徐々に良くなっていき、家事もできるようになった。
それでも、玲弥は「頑張り」をやめなかった。勉強も、小四で始めたバレーボールも、全力で取り組んだ。明るく、優しく、ちょっぴり抜けているところも見せながら、母を笑顔にしようと精一杯の自分を作っていた。
そんな玲弥が、唯一、自然な表情を見せるのは、たまに我が家に来て、タビトとたわむれているときだった。タビトの前では気を遣う必要もない。柔らかい表情でそっと喉元を撫でる。玲弥が上手に緩急をつけて振る猫じゃらしに、タビトが跳ね踊る。大ジャンプを誘い出した玲弥が歓声をあげる。
「タビト、すげぇ! 最高新記録だ。お前、猫界のエースアタッカーになれるぞ!」
とびっきりの笑顔が見ていて嬉しい。玲弥の声援に応えて、タビトも幾度となく舞い上がる。空中でなめらかに身体をくねらすその姿は、実に優雅だ。
タビト、お前は本当にえらいよ。玲弥のことも守ってやってね。
時々、タビトは人間の言葉や気持ちが分かるのではないかと思うことがある。私が塞ぎ込んでいるときは、そっと側にやってきて、私の顔をのぞき込み、「にゃぁ」と優しく声をかける。うつむいている玲弥の顔をペロリとなめ、遊びに誘う。タビトのぬくもりに触れると、元気になる、癒やされる。夫が言ったように、この子は我が家の守り神なのだ。
しかし、不幸は再度訪れた。
当事者は私。
夫と同じく、血便がでて、検査を受けたら、ガンだと診断された。しかも、末期だと。
病院の固い丸椅子の上で、主治医の言葉を聞いたとき、「ガン」「末期」という言葉が、どこか別世界から降り注いでくるような現実味のないものに聞こえた。
もうすぐ夫が亡くなったのと同じ歳になる。六十七歳。死ぬにはまだ早い歳だ。だが、夫の元に行くのだ、と思うと、死ぬこと自体はそんなに不安ではなかった。眠るように逝った夫の死に顔が脳裏に浮かぶ。
しかし、私が死んでしまうと、水谷家はいったいどうなるのか。娘の調子はかなり良くなってきているが、万全とは言えない。その中で、私がいなくなるということは……。、家事のサポーターでもあり精神的な支えでもある私を失ったら、娘の鬱状態は再び悪化する可能性が高い。
ああ、神様。何ていうことをなさるのですか。私が何をしたというのですか。娘が何をしたというのですか。今度は娘から私を奪うのですか。
病院からの帰り道、バス停から家までの道のりがあり得ないほどに遠く感じられた。一歩一歩足を交互に出すのに、とてつもなく力を使う。歩かなきゃ、歩かなきゃと自分に言い聞かせながらゆらゆらと歩みを進めるものの、ついには力尽きて、川沿いの土手にへたへたと座り込んでしまった。
夫の在宅介護をしていた頃、気分転換にと散歩していた道。あの時見上げた空と同じく、今日も快晴だ。
だが、その抜けるような青さは何か途方もなく恐ろしいもののように思えた。
昔、読んだ本の言葉が思い出される。「空」という漢字の部首は「あなかんむり」。「空」は大きな穴なのだと。
今、その言葉が無性にしっくりくる。空は果てることのない深い深い穴。そこに落ちてしまったら、二度と元には戻れない。さわやかな「青」はすべてを飲み込む。心も体もすべてとらわれてしまう。
これ以上「空」の下にいることが恐ろしくなり、めまいと闘いながら立ち上がって、ふらつきながらも家まで何とか歩いた。
玄関のドアを開けると、タビトが上がり口にちょこんと座ってこちらを見上げていた。それを見ると、抑えていた感情が一気にこみ上げてきて、涙がとまらなくなった。土間に崩れ落ちて泣く私の身体にタビトがすり寄ってくる。たおやかなその身体をそっと抱き寄せて頬ずりする。ああ、この暖かさ。生きているものの温もり。もうすぐ私はこの温もりを失う。娘の肩を抱くこともできなくなる。玲弥の手を握ることもできなくなる。光の柔らかいほっぺたに頬ずりすることもできなくなる。
「お願い、タビト。敬子と玲弥を守ってやって。人の力じゃどうにもならないことはやっぱりあるの。だから、お願い。猫の魔力で、ちちんぷいぷいのぷいって。」
タビトをギュッと抱きしめながら、かき口説く。
「お願い。私がいなくなっても、みんなが幸せでいられますように。どうぞどうぞ守ってやってちょうだい。」
タビトの両肩をもって顔の前に持ち上げ、小さな金色の瞳を見ながら、さらに頼む。
「玲弥はお前といるときは楽しそうだけど、本当は、とってもしんどいの。とっても優しい子だから、自分が頑張らないと、と思って、無理してる。無理しすぎてるのよ。」
そうだ……。あの人と同じ……。
「父さんと同じね。真面目でいい子……。周りの人のために自分が何とかしなきゃって、ついつい頑張っちゃう……。頑張りすぎて、あの子の心が壊れてしまわないか、心配なの。でも、私はいつまでも側にいてやれない。タビト、私がいなくなったら、あの子をお願い。みんなをお願い。私がいなくなることで、また心がバラバラになるかもしれない。どうぞその心をつないでやって。」
一瞬、タビトの瞳がキラリと光ったように見えた。
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