5 水谷和子 ②

 何か聞こえると思い玄関から外に出てみたら、庭の側溝で真っ黒な仔猫がミャーミャー鳴いていた。どうやら、ここに落ちて、這い上がれなくなったらしい。痩せた身体は土まみれで、何とも貧相な状態だ。思わず手を差し伸べて救助した。よっぽど弱っているらしく、抗うこともなくされるがままで、ガタガタ震えている。仔猫特有の青い瞳が訴えるように私を見つめた。こんなに痩せているということは、飼い猫ではなく野良猫で、親からはぐれたのかもしれない。

 私は仔猫を家に連れて入り、風呂場で洗ってやった。手のひらにすっぽりと乗るくらいの大きさしかない。タオルで拭いてから膝の上にのせる。身をくねらせる猫を左手と膝で押さえながらドライヤーで乾かすと、黒い毛並みの中で、手足の先だけが真っ白だということが分かった。柔らかい毛の奥のぬくもりが伝わってくる。

「足袋はいてるみたいね。」

 仔猫は返事するかのごとく「みゃぁ」と小さく鳴いた。

「お前、うちの子になる? 名前は……、タビでどうかな。ちょっとひねりがないか……。そうだ、タビトは? 奈良時代、大伴旅人っていう歌人がいてね。素敵な和歌を作ってるんだよ。決まり! 今日から君はタビトだよ。」


 こうして、タビトは我が家の一員となった。我が家に登場した小さな命の存在は、私にとって非常に大きかった。娘は少々あきれた顔をしていたが、私がタビトを愛でる様子を見ると、非難がましいことは言わず、逆に、協力者となってくれ、ネットで猫の飼い方をいろいろと調べてくれた。まだミルクが必要な時期らしい。牛乳では腹をこわすらしく、猫専用のミルクというものがあるのだという。

 まずは健康状態を調べようということで、獣医に連れて行った。幸い、痩せてはいるが、外傷や病気はなかった。帰りにペットショップにより、猫グッズを用意する。

 仔猫の世話は思った以上に大変だった。猫用粉ミルクをお湯で溶いて人肌にし、四時間おきにスポイドで与える。排便を促すために、お尻をぬれティッシュで拭いてやる。お母さん猫がしてやることを、代わりに行わなければならない。でも、手の中にある小っちゃなふわふわした塊を見ていると、心があったかくなる。母性本能がくすぐられる。

 タビトは女の子だった。

「名前、変えたら?」

と敬子に言われたけれど、やっぱり「タビト」がしっくりくるので、そのままにしていた。

 夫の調子の良いときに、タビトを引き合わせた。夫はそっとタビトの背中を撫で、静かに言った。

「いい猫だ。いい目をしている。我が家の守り猫になってくれそうだな。」

 そうかもしれない。この子は、我が家の、いや、私の救世主かもしれない。夫もそのことが分かっていたのかもしれない。

 玲弥はタビトに夢中になった。抱き上げようと後を追っかけ回しては「フーッ」と威嚇され、それでも懲りずに撫でようとする。

「玲弥、優しくしてね。タビトはまだ赤ちゃんなんだから。」

「ふ~ん、赤ちゃんかぁ。じゃあ、守ってやらないとな。」

 いっぱしのお兄ちゃん気取りで、そっと加減するようになった。タビトの方も最初は警戒モードだったが、徐々に慣れていき、ついには玲弥の振る猫じゃらしに大ハッスルするようになった。

 少し大きくなってきたら、離乳食。トイレトレーニング。

 赤ちゃんだった敬子を育てていた頃のことを思い出して、何だかおかしくなって笑ってしまった。こんなおばあさんになって、「離乳食」作りだなんて……。大変だけど、充実している。

 痩せ細り、死を待つばかりの夫。

 柔らかい「命」を持ち、日々成長していくタビト。

 奇妙な同居生活の中、私はタビトを抱き上げて、夫に聞かれないようにこっそり何度もお願いをした。

「タビト、お願い。どうぞ父さんを安らかに逝かせてあげて。猫の魔力で、ちちんぷいぷいって。あの人は本当によく頑張った。だから、最期は穏やかに、苦しまずに逝かせてあげたいの。」

 タビトはまるで言葉が分かるかのように、私のお願いを神妙に聞いている。人間の力ではどうにもならないこと。それは、神か、はたまた人を超えた存在にすがるしかない。

 タビトが来てから、一ヶ月後、夫は旅立った。痛み止めが効いていたのか、安らかな死に顔にほっとした。

「お疲れ様。最期の最期まで、本当によく頑張ったね。今まで、私と一緒に生きてくれて、本当にありがとう。」

布団の足下には、タビトが大人しく香箱座りして、じっとみつめていた。

「タビト、ありがとうね。守ってくれたんだね。」

みやぁとタビトが鳴いた。


 夫の死後の虚無感を救ってくれたのもタビトだった。

 起きるのがおっくうなときも、早くご飯をよこせとばかり、起こしに来る。落ち込みそうになると、タビトが何かやらかす。どんどんやんちゃになり、カーテンをよじ登る。障子で爪をといでボロボロにする。棚の上の花瓶を落として割ってしまう。

「タビト! 何やってんの!」

 叱りながらも、どこか楽しい。遊んでもらおうと、すぐに足にちょっかいを出してくる。くるんとお腹を見せて横たわり、こっちを誘う。私が本を読んでいるときは、割合おとなしく、傍らの座椅子で寝ている。読み終わって立ち上がると、待ってましたと言わんばかりに起き上がり、大きな伸びをしてから、足下にすり寄ってくる。

「お前は賢いねえ。もう終わったなって、ちゃんと分かってるの?」

親馬鹿ならぬ猫馬鹿となって褒めそやす。イタズラして大切なものを壊されても、どうにも憎めない。可愛すぎる。見ていてあきない。抱き上げるとぬくもりが伝わってくる。見てよし、抱いてよし、本当に猫とは素晴らしい生き物だ。


 さらに、敬子の方にも変化があった。次男が誕生したのだ。名前は光。玲弥が生まれたときも、もちろん可愛かったが、夫の死に直面した後は、小さな命の存在がなおのこと愛おしく感じられた。以前とは逆に、今度は私が毎日のように娘の家に行くようになった。敬子も、その夫も、本物の「お兄ちゃん」になった玲弥も、光に首ったけで、光を中心に水谷家は回っていた。


 しかし、悲劇は再び訪れた。

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