5 水谷和子 ① 

 思っても思っても、願っても願っても、この世には人の力ではどうにもならないことがあるのだ。

 夫が亡くなったのと同じ歳、六十七歳になった今、つくづくそう思う。


 夫は中学校の教師だった。教科は社会科。真面目な人で、頑張り屋で、手を抜くということができない人だった。

 私たちは職場結婚だった。私が務めていた中学校に彼が赴任してきた。私は大学教育学部卒業後、新採用でこの学校に来て、三年目。彼は二校目の勤務で、私より五つ年上だった。同じ学年団に所属し、共に悩み、共に走り、共に笑った。二年生が五クラスある中で、彼が二年A組担任、私は二年B組担任。職員室の席も隣どうし。初めて担任を経験する私に対して、彼の方が経験値が高く、あらゆる面でお世話になった。私は彼の実直な人柄、一生懸命さにひかれた。

 4月の家庭訪問で、運転の苦手な私が細い道に入り込んでしまい、動くに動けず立ち往生しているとき、同じく家庭訪問中、たまたま近くを通りかかった彼が、救世主として、車と私を救い出してくれた。おかげで、5分の遅刻で済んだ。

 私は国語の教員で、同じ人文系ということもあり、馬が合ったのかもしれない。「日本文学史」という共通項もあった。万葉集の歌の解釈を巡り、激論を交わしたこともある。

 私のミスに怒った保護者からのクレーム電話に心をやられて、机に突っ伏している私の横に、そっと温かい紅茶が入ったカップを置いてくれたこともあった。

 当時はまだまだ「荒れる中学校」と言われた時代。日々、いろいろな事件が、同時多発で起こった。

 夜八時頃、彼が担任しているクラスの女生徒が家を飛び出し、探し回ったこともある。彼女の弟からの電話で発覚した。親に「お前なんか生まなきゃ良かった」と言われて、着の身着のまま出て行き、帰ってこないというのだ。親に話を聞きにいくと、「ま、そのうち帰ってくるわ。」というそっけない返事。「そんなんだから、家出てっちゃうんだよ!」と言いたい気持ちを押し殺して、立ち寄りそうなところを探し回った。彼が車を運転し、私が助手席から目をこらす。無人駅の自販機の前に、ほの暗い明かりの中で座り込んでいる彼女を見つけたときは、涙が出てきた。

 私たちの中学校の文化祭では、学年で一つ、劇を演じる。1学期末から準備に取りかかる。私が書いた脚本を元に、まずは役者のオーディション。選ばれた役者の生徒たちと一緒に、私は夏休みも、冷房のない教室で汗だくだくになりながら演技の練習をした。彼は大道具担当で、やんちゃな男の子たちを率いて、大工仕事に精を出した。図面を書くところから始まって、近くの工場からいらなくなった木材を調達し、とんてんかんてん、生徒とともに悪戦苦闘していた。なかなか上手くいかず、試行錯誤の繰り返しだったが、最終的に、立派な両開きのドアが完成したときは、歓声が上がった。

「俺ら、すごくね?」

普段、なかなか教室に入らず、廊下や中庭でたむろしている面々が、紅潮した顔で自慢してきた。

 九月に行われた本番では、我ながら素晴らしい劇となり、二年生ながら最優秀賞を受賞。役者と大道具だけでなく、衣装担当、音響・照明担当、背景担当……、それぞれの頑張りが一つに結びついた成果だった。生徒は飛び上がって喜び、中には、泣きだす者もいた。

 その日の夜、学年団の教員全員で祝杯をあげた。隣の学区にある駅前の居酒屋で、わいわい盛り上がった。お開きになったとき、車で来ていた私が、彼をアパートまで送ることになった。車の中で、ほろ酔いモードの彼が助手席でつぶやいた。

「何だろうな……。最近、何か楽しい。充実してるっていうか、何ていうか……。忙しいし、毎日大変なことがあるんだけど……そうなんだけど、何か、楽しい。頑張ろうって思える。」

そうか……。彼もそう思ってるんだ……。うれしかった。私も、ちょうど同じことを思っていたから。

「何でだろうな……」

しばらく考えて、もうその答えは出てこないのか、と思うくらい、長い沈黙が続いた後に、彼はこう言った。

「多分、隣に君がいるからかな……」

 私たちは付き合うことになった。

 ただ、同じ職場内、しかも多感な中学生のいる場ということで、交際は極秘。校内では、極力、今まで通りに振る舞う。デートも、学校から遠く離れた場所で。

 二人でジブリの新作映画を見に行ったときには、知り合いに見られることを警戒して、距離を離して商店街の右端左左端を歩いた。映画の開始時間に間に合うかどうか、ギリギリだったので、猛スピードで歩く二人。両端を同じハイスピードで歩いていたら、どう考えても怪しかったはずだ。無事、たどり着いて映画を見終わった後、二人で食事をしながら「絶対、変だったよね。」と笑い合った。

 結婚するため、私は転勤願いを出し、次の年度から別々の中学校に勤めることになった。

 学活や道徳のネタは、持ちつ持たれつで、情報交換する。経験年数の長い彼の方が圧倒的に「引き出し」が多いのだが、私も、新しい学校で仕入れたネタを提供した。デートのはずが、いきなり教材研究の場に早変わりすることもしばしばあった。

 結婚後は家事を分担し、これまた持ちつ持たれつで、めまぐるしい日々を走った。基本的に、私が食事担当。彼は洗濯・掃除担当。しかし、ひとたび「事件」が起こると、予定していた時間に帰れないこともしばしばだ。緊急事態の際は、連絡を取り合い、急遽、相手の役割をフォローする。二人とも遅くなるときはコンビニ弁当に頼る。あるアニメのテーマソングの歌詞に「買った方が安いよ、晩のおかず。」という言葉があるが、「確かに……」と共感してしまう。

 私は長女が生まれてから退職した。教員の仕事に未練がないわけではなかったが、生まれてくる子に寂しい思いをさせたくないという思いが強かったのだ。教師をしていると、実にたくさんの「寂しい子」と出会った。様々な家庭の実態に向き合わざるをえなかった。両親共働きで教師をしている中で、我が子にどれだけ時間を費やせるだろう……。そう思うと、選んだのは「退職して専業主婦になる」という道だった。彼は、引き続き、教師の仕事に邁進した。その頑張る姿を見ていると、彼を支えることが、結果的に、さまざまな中学生を支えることにもなるのだ、とも思えた。

 「専業主婦」もなかなか大変だった。娘が生まれたばかりの時は、三時間おきにお乳を与え、睡眠不足が続いた。寝ているすきに、家事をこなさないといけない。でも、少しずつ成長していく姿が、何よりの励みだった。彼も、疲れきって夜遅く帰ってきても、娘の寝顔をあきることなく見つめていた。

 娘は一人っ子だったので、私と彼の愛情を独り占めし、まったりとおおらかな優しい子に育った。

 娘が結婚相手に選んだ人は、父親に似て誠実な好青年だった。結婚式では、夫は周りが引くくらい、号泣し続けていた。

「バージンロードを歩くときから泣いてちゃ、困っちゃうよね。やりにくいったらありゃしない……」

式が終わった後、娘がおかしそうに、でも、うれしそうに笑っていた。


 娘夫婦に男の子が生まれ、私たちは、晴れて「おじいちゃん」と「おばあちゃん」になった。「初孫は目に入れても痛くない。」そんな慣用句を「大袈裟すぎる」と思っていたが、なるほど、と納得する。


 平和な日々が流れていった。しかし、運命というものは残酷だった。 

 酒も飲まない、たばこも吸わない、そんな彼が現職中にガンになったのは、ストレスのせいだろうと私は思っている。

 人間ドックで血便ありと言われて精密検査を受けるまで、毎月百三十時間を超える超過勤務をしながら、それでも、夫は生き生きと働いていた。

 社会の授業に熱を注ぎ、夜遅くまで教材研究をしては、生徒の反応がこうだった、ああだったと、うれしそうに語り、顧問をしている卓球部の練習や試合で土日がつぶれても、生徒の成長を見られるのが生きがいだと微笑んでいた。実際、子どもたちからは慕われ、保護者からも感謝されていた。

 ただ、すべてが上手くいくわけではない。いや、上手く行かないことの方が多いのかもしれない。心が通い合わないといっては落ち込む。勝てるはずだった試合に負けたのは、監督である自分のせいだと責任を感じて悶々とする。不登校の生徒の心の状態に一喜一憂する。山のようにある難題に心を痛め、その中で時折ある小さな変化、ささやかな前進、人の笑顔を心の支えにして、日々を生きる。そんな彼だからこそ、周りから頼りにされ、信頼されていたのだと思う。

 しかし、頼りになるもののところには、仕事が集まるというのが、世の常である。大きな校務分掌を幾つも抱え、性格上、適当にこなすということをせず、何事にも全力投球だった彼。

 私は、そんな彼を尊敬し、その誠実さが大好きだった。

 しかし、彼の心と体は、彼自身が知らない間に、もう無理だと悲鳴を上げていたのだろう。

 私の好きな吉野弘という詩人に「夕焼け」という作品がある。その中にはこんな言葉があった。

「優しい心の持ち主は いつでもどこでも 我にもあらず受難者となる」

 優しい彼。頑張り屋の彼。だからこそ「受難者」となった彼。優しい人は他人の痛みを自分のことのように感じる。そして、それをどうすることもできない自分を責める。

 内視鏡検査で撮られた画像を見ると、腸の一部に赤黒いもにゃもにゃとした塊があった。ここまでの大きさになるのには、四~五年くらいかかったであろうと言われた。彼の体内で生まれた小さなガンの芽。それがゆっくりと時間をかけて大きくなっていく様が私の脳裏に浮かんだ。彼はこの塊を抱えながら、毎日毎日、夜遅くまで働いていたのだ。

 見つかったガンは、幸い、早期のものだった。手術で切除して、抗がん剤を飲みながら、彼は仕事に復帰した。

 そして、以前と同じように、いや、ひょっとしたらそれ以上に頑張り続け、惜しまれながら定年を迎えた。


 退職して二年目。ガンが再発した。初めての手術からちょうど五年。心待ちにしていた「五年」だった。ガンは五年たつと、再発率がぐっと低くなり、生存率が上がる。

「もうすぐ五年だね。」

 二人でそう言っていた矢先の再発だった。ゆったりと日々を送り、彼の唯一の趣味である写真を撮りながら、二人で旅行をしようと計画していたが、それもかなわぬものになってしまった。

 いったいなぜ? なぜ彼が? こんなにもいい人なのに。

 いや、「いい人」だから、頑張りすぎる。

「いい人」だから、真剣に悩む。

 そして、ガンになる。

 それにしても、むごい。私は「神」の存在を信じているわけではないが、この世にもし神がいるとしたら、あまりにも残酷すぎる。神様は「いい人」を救ってくれない。

 夫は再び入院して手術した。しかし、しばらくしてまた再発。切っては転移。また切っては転移。合計四回の手術の後、最後はリンパ節に転移し、体中にまわった。

 もう手術のしようがないので、最期は自宅で終えようということになり、退院し、家に帰った。

 被介護者としても、夫は優等生であった。我慢強く、痛みに耐え、無茶なことは要求しない。逆にこちらを気遣ってくれさえする。だが、口には出さないものの、その表情を見ているだけでこちらが辛くなる。食べられるものはどんどん限られていき、最後は鼻からのチューブで流動食を流すところまで来た。年齢の割にがっしりとしていた身体は痩せ細り、頬はこけ、どちらかといえば細かった目が大きく見えるようになった。その目で、天井を無言で眺めている。好きだった野球中継も見なくなった。ラジオの音も耳に触るらしい。二人だけで部屋にいても、無音の時間が続く。夫の息づかいが大きく聞こえる。

「寒くない?」

「今日はいい天気ね。」

「庭の白木蓮が咲いたよ。」

 私が探した会話の糸口に、短く返したり小さくうなずいたり。夫からの声はまれにしかなくなった。末期の痛みをやわらげるためのモルヒネの量が増えたこともあり、うつらうつらとすることが増えた。

 毎日ヘルパーさんが決まった時間に来てくださり、私には難しい、身体の向きを変えたり身体を拭いたりといった、力がいる介助をしてくれる。ヘルパーさんが来てくれる時間は、夫にとってだけでなく、私にとっても一日の中で、大きなアクセントであった。ヘルパーさんの元気な声に救われる思いがして、その時間が待ち遠しい。

 結婚して家を出て行った娘の敬子は、我が家から五分くらいのところに住んでいる。お相手は次男ということもあり、水谷姓を名乗っていた。敬子は毎日のようにやって来ては、何くれとなく世話を焼いてくれた。

「お母さんも、ちょっと気晴らしが必要よ。父さんのことは私が見ているから、ちょっと、買い物にでも行ってきたら?」

 その言葉に甘えて外に出ると、申し訳ないけれど、ほっとする。

 青空にもくもくと巨大な白い雲の峰がそびえている。力強いその雲を見ていると、別世界のように思える。夫が寝ている部屋の独特の匂いから解放されて、大きく息をする。

 孫の玲弥も母とともに時々やってきた。いつもはうるさいほど元気いっぱいで、幼稚園で習いたての歌を大声で歌いながら家の中を駆け回っていたが、夫の部屋に入るときは神妙になる。

 自らの戦利品であるピカピカ光る小石や木の実を、眠る夫の枕元にそっと置いて立ち去る。

 世の中には、もっと大変な介護の状況もあると聞く。私の場合は、周囲に協力者もおり、夫は我慢強く、恵まれた環境だったと今になって思う。しかし、当時の私にとっては、非常にしんどい日々だった。身体よりも心の疲れ、痛みが大きい。目の前の夫の状況は、理屈では理解していても、心が受け入れられない。

 早く楽にしてあげたいという思いと、死んでほしくないという相反する思いがせめぎ合う。

 もうすぐこの人は逝ってしまう。その後、一人残された私はどうなるのだろう。彼がいないこの家で、一人でやっていけるのだろうか。現実の光景と未来の予想が私を苛んだ。夜、ハッと目が覚めては、傍らで寝ている夫の口元に手を当て、息があることを確認する。そこから、なかなか寝付けず、悶々とする時間は非常に長く暗かった。


 そんな時、我が家に別の存在が現れた。

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