4 水谷玲弥 ①

 玄関前の庭に敷かれた白い石の上で、一瞬、立ち止まる。大きく息を吸ってから吐き出し、自分自身に気合いを入れる。 

「ただいま。」

 ドアを勢いよく開け、大きな声で叫ぶ。

「腹減った~! 今日のメシ、何?」

「もう、玲弥ったら……。いきなりそれ?」

 エプロン姿の母が台所からひょっこり顔を出して、小さく笑う。

「しゃぁないだろ。今日の部活も超しんどかったんだから。体力消費しまくり。エースアタッカーは辛いよ。」

NIKEのシューズを脱ぎながら、やれやれといった感じで肩をすくめて見せた。

「はいはい。今日はカツカレーよ。」

母は柔らかく微笑む。そう、この笑顔だ。この顔を見たいのだ。

「やった~! 最高!」

「ほんと、単純なんだから。ルーは、じっくりコトコト二時間煮込んだわ。後は、ささみカツを揚げるだけ。あと十五分くらいでできるかな。できたら呼ぶから、先にお風呂入ったら?」

「サンキュー。」

 俺はスポーツバッグをソファに投げ、たたまれた洗濯物の中から着替えをつかんで、風呂場に直行した。

 お気に入りの入浴剤を入れ、ザブンと湯船につかる。心地よい熱さに包まれる。身体と一緒に、さっきエイッとくくった心もゆるゆるとほどけていく、大きく息をつく。ここなら大丈夫だ。

 張り付けていた作り物の笑顔を引っぺがし、こめかみをマッサージする。

 疲れた。今日も疲れた。今日の自分を振り返る。俺、大丈夫だったかな。うん。きっと上手くやれた。さっきの母とのやりとりも、非の打ちどころのない「体育会系単純男子」だ。学校でも、威勢良くリーダーを務めることができた。

 風呂と自分の部屋。そこではガードを取っ払って、素の自分でいることができる。

 だが、「素の自分」とは、いったいどんな自分なのか。

 もう十年以上擬態を続けてきていると、「素」は何なのか、どういうのが本当の自分なのか、分からなくなってきた。少なくとも母が言う「単純」なキャラではない。曲がってくねって裏返って……もう何が何やら自分でも把握できない。

 家で、そして学校でも、俺は「自分」を演じている。

 母を安心させるために。母の気持ちが少しでも穏やかになるように。そして、それは、壊れかけてガタガタの我が家を何とかして保つことにつながる。さらに、俺自身の罪悪感を少しでも軽くするためでもある。

 

 十年前の俺は、どこにでもいるごく普通の小学二年生だった。無邪気に笑って、ケンカして、親に反抗して、わがまま言って。

 一人っ子だった俺は七夕の短冊に願い事を書いた。弟がほしい、と。淡い空色の短冊に、マイネームで一生懸命書いて、笹にくくりつけた。

 俺の願いは叶った。母に「玲弥、お兄ちゃんになるんだよ。」と言われた。その日が来るのが楽しみで楽しみで仕方なかった。日ごとに大きくなっていく母のお腹に耳をつけて鼓動を聞いた。超音波検査でお腹の中の様子がわかるらしい。「弟だよ」通し得てもらった。そっか、弟か……。一緒にいろんなところへ行こう。いろんなことを教えてやろう。ワクワクが止まらなかった。お腹にいるときから、もう名前は決まっていた。光。それが新たな家族の名前だった。

「光! 早く生まれてこい!」

お腹に向かってそう声をかけると、お腹がもぞもぞ動いたりする。こいつ、ちゃんと俺の声が聞こえてるんだ。

 真っ白なおくるみに包まれて、光は我が家にやってきた。まさにきらきらと光り輝く王子様だ。ぽにょぽにょのほっぺたをそっと指で押してみる。光は人差し指をぎゅーっとつかんできた。

 歳の離れた弟の存在は、何もかも新鮮だった。母も父も、そして僕も、光のことが可愛くて仕方ない。

 以前は会社から帰ってくると、無言で服を脱ぎ捨てソファでうたた寝をしていた父も、光のベビーベッドに一直線。デレデレした顔で、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような赤ちゃん言葉で話しかけている。

 五分ほど離れたところに母方の祖母が一人暮らしをしているのだが、何かと用事を作っては、毎日のように家に来るようになったのは、明らかに光に会いたいからだ。一年前につれ合いに先立たれた祖母にとっても、光は救世主となった。

 光が笑った、光がハイハイして、こんな所まで進んだ。ベッドのサークルにつかまって立ち上がった、こんなものを口に入れてしまった……。夕飯時はそんな話でもちきりとなる。

 日々、新しいことがあり、成長があり、発見がある。早く大きくなれよ。大きくなって、いろんな所に行こう。いろんなことを一緒にやろう。

 本当に幸せな日々だった。今思えば、この頃が水谷家の幸福の頂点だったのだ。


 幸福な時は、あっという間に崩れ去る。本当にあっけなく。


 光が八ヶ月を迎えた頃。

 その日の俺は、面倒くさい計算ドリルの宿題を前に、相当にイライラしていた。いつもはそんなに気にならない光の泣き声が、耳について仕方ない。

「うるさくて宿題できない!」

 母に不満を言う。

「仕方ないねぇ。ちょっと散歩に行ってくるわ。」

 母はむずかる光をベビーカーに乗せて、家を出た。

 そして、母と光は、赤信号を直進してきた車にはねられた。

 病院で光は息を引き取った。八ヶ月の短い命が終わった。

 母は身体のあちこちを骨折したが、命は助かった。骨折は、やがて治った。しかし、母の心は砕かれたままだった。

 悪いのは前方確認をろくにせずにつっこんできたミニバンの運転手だ。しかし、母は自分を責めた。もっと早く気づいていたら、反応できたら、ベビーカーを押しやっていたら……。繰り言で自分自身を追い詰める。

 そして、そんな母を見て、俺は自分を責める。あの時「うるさい」なんて言わなければ、母と光は散歩に行かなかったのに。家から出なければ、事故に遭うこともなかったのに。算数がもっとスラスラできてれば。光の声が気にならないくらい集中できていたら。

 こうしていなければ。

 こうしていれば。

 すべて仮定の話だ。その「仮定」が母を、俺を苦しめる。

「お前は何も悪くない。」

 父も祖母も、母や僕を慰めた。だが、「仮定」はいつまでも頭の中でリピートする。繰り返し繰り返し襲ってくる。


 母は骨折が治って退院してからも、ずっと鬱状態が続いた。食べるものもろくに喉を通らず、どんどん痩せていく。光のものを見ては泣くので、父はそれらの品々をどこかにやってしまった。家の中で、誰も光のことを話さなくなった。笑顔と明るい声であふれていた家の中は、別の空間になった。

 調子が悪いときは家事をする気力もおこらない母に代わって、祖母が頻繁に夕食を作りに来てくれた。無言の食卓は重すぎて、その場にいるのが苦痛だった。

 そんな中で、幼いなりに、俺は自分にできることをしなければ、と思うようになった。少しでも母が楽になるように、家の空気が明るくなるように。

 祖母の作ってくれたおかずを「上手い!」とほめたたえ、次はこれを作ってと甘えてみせる。つまらないギャグを言う。はやりの芸人の真似をする。

 父もそんな俺の努力に気づいているのか、大袈裟に笑ってみたり、感心してみたり。

 徐々に会話は増えていった。

 母の具合も少しずつ少しずつ、上向きになっていった。「薄紙を剥ぐように」という言葉があるが、まさにその通りに。とはいえ、些細なことで思い出してはまた後戻りということもあったが、一進一退を繰り返しながらも、徐々に心身が落ち着いていった。

 光の事故から二年目、祖母がガンで亡くなった。祖母にも心労がたまっていたのだろう。母にとって、常に支えてくれていた祖母の存在は非常に大きかった。よりどころを失った母の鬱状態は再び悪化した。父と俺で家事を分担し、母に明るく声をかけ、「うれしい話題」を増やせるよう、最大限の努力をした。そのかいあってか、時が解決したのか、母の具合もまた少しずつ良くなってきた。

 十年だ。ここまでくるのに、十年かかった。今では、母は普通に家事ができるまで回復している。心療内科に定期的に通い、薬をもらってはいるが、初期の頃に比べると、薬の量はぐっと減った。しかし、完全に元通りになったわけではない。なるわけがない。母の笑顔には、いつも影が付きまとう。笑いながらも、きっと思っているのだろう。光のことを。光が生きてここにいたら、と。生きていたら今、何歳だと。俺自身がいつも思うように。

 

 光は死んだ。だが、家のそこかしこに、「光」の存在があった。

 俺は明るい良い子を演じ通した。成績も落とさぬようがんばった。バレーボールもがんばった。

「みてよ、今回、最高点だぜ!」

「一年生なのに、レギュラーに選ばれた!」

「頑張ったこと」は、明るい話題として食卓に提供できる。

「お~、玲弥、すごいじゃないか!」

 それを手がかりに会話がはずむ。

 そんなこんなの十年間。

 気がつけば、俺は、自他共に認めるお調子者のリーダーになっていた。「演じること」は、俺の中に染みついた。もはや、それが「俺」なのかもしれない。

 だが、疲れる。そして、気持ち悪くなる。演じていること、演じている自分自身に気持ち悪くなる。吐き気がする。そして、実際に吐く。

 もう母の調子もかなり良いし、そこまでの「良い子」でなくてもいいのでは、とも思うのだが、作り続けてきた「水谷玲弥」という虚像が俺自身を縛る。家族にとっても、クラスメートにとっても、バレー部の部員にとっても、「水谷玲弥」は「水谷玲弥」だ。今更、違う「水谷玲弥」を見せられても困るだろう。学校での賞賛と信頼。それはそれで心地よいものではある。そして、心地よさと同時に、過剰な期待に押しつぶされそうにもなる。

 自分自身、じゃあ、今演じている「水谷玲弥」以外の何があるのか、よく分からない。

 だが、気持ち悪い。人に見られぬところで、こっそり吐く。トイレで。旧部室の裏で。誰もいない公園の隅っこで。

 吐けば若干すっきりする。吐いてから再び「水谷玲弥」に戻る。その繰り返しが、もはや通常モードとなってしまった。

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