3 野崎誠 ④

 それから十日間、本宮早紀からの返事はなかった。彼女は平静を装いつつ、明らかにぎこちない態度で僕に接した。というか、できるだけ接点を持たないようにしていた。図書室にも来なくなった。返却期限のきた本は、僕がカウンター当番でない日に返されていた。

 決断力がない彼女らしいといえばらしいのだが、さすがに十日は長い。正直、もっと早く断られるだろうと予測していたので、十日は意外である。

 本宮早紀は迷っているのか。としたら、若干の可能性があるということなのか。いや、それとも、断ることは前提だが、僕に申し訳ないと思って、断るタイミングを逃しているのか。それはそれで、彼女ならありそうなことだ。


 そして、十日後、その瞬間はやってきた。

 図書室で返却された本を書架に戻していると、久々に現れた本宮早紀がためらいがちに声をかけてきた。

「ちょっと来てくれる?」

 誰もいない特別教室棟の階段の踊り場まで無言で移動した。明かり取りの窓から、西日がうっすら差し込み、本宮早紀の頬をうっすらと染めている。彼女は僕の方に向き直り、しっかりと僕の目を見て言った。

「ごめんなさい。付き合うことはできません。」

 そうか。やはりそうだよな。

「あんなふうに言ってくれて、嬉しかった。野崎君と本のこと、いろいろ話すのは、とっても楽しい。素敵な本、いっぱい教えてもらったし。」

 そうか。「楽しい」と思ってくれていたのだ。その言葉を聞けたのは嬉しかった。正直、彼女が僕とのやりとりをどう思っているのか、非常に気になっていたから。

「でも、私、他に付き合いたいと思う人がいて……」

ああ、そうか……。やっぱりな。これは想定内だ。

「それは、水谷玲弥?」

 本宮早紀はぽかんと口を開けた。

「え? 何でわかるの?」

 何という素直さ。否定もせずしっかり認めている。

「本宮さんの様子を見ていたら、水谷玲弥のことを気にしているのはわかります。」

「そうかぁ……。わかっちゃうんだねえ……。」

 小首をかしげて空を見上げる本宮早紀。

 その時、ふと、胸のどこかが苦しくなった。しめつけられるような何とも言いがたい症状に襲われた。

「私、多分、水谷君と付き合うと思う。」

 本宮早紀は、視線をこちらに戻し、まっすぐな目で言った。そうなのか。本宮早紀の一方的な思いかと思っていたが、水谷玲弥の方も彼女を好きだったのか。まったく、人の感情というやつは分からない。二人は付き合うのか。

 胸の苦しさは加速した。今まで経験したことのない痛みだ。

 ふと気づいた。

 僕は、本宮早紀に断られ、彼女が水谷玲弥と付き合うという事実に、こんなにも動揺している。断られることは想定内だったはずなのに。

 これはもしかして、「悲しい」「せつない」という感情? 今まで僕が知らなかった「恋愛感情」というもの? 僕は本宮早紀に恋をしていた? 自分では気づかないうちに。そして、断られた今もなお、その気持ちは続いている? だから、こんなにも苦しいのか……。


 有難い。

 心からそう思った。こんなに苦しい。しんどい。でも、そのしんどさを僕は獲得した。今まで味わったことのない「感情」を。

 実験は大成功だ。試してみることで、確実に僕の世界は広がった。可能性が開けた。これは、僕自身が挑戦して勝ち取ったことであると同時に、本宮早紀という存在がなかったら成し遂げられなかったことである。有難い。

「ありがとう。」

 口に出して言ってみた。

「え? 何で『ありがとう』?」

 僕の新たな救世主は、怪訝な顔をしている。僕はその問いには答えることができなかった。そうだろうな。恐らく理解できないだろう。今は無理だけど、いつか、僕の心の痛みが落ち着いて、冷静に話せるようになったら、彼女にこの思いを伝えたい。そんな日がいつか来るかもしれない。


 本宮早紀が去った後、僕は窓の外に目を向けた。

 今日の空は薄い水色。白い雲が飛び石のようにぽつぽつと浮かんでいる。

 その空の中に、窓にうっすら映った僕の顔が見えた。その口角が少しあがっている。

 微笑んでいる? これは作り物ではない「笑顔」というもの?

 空がいろんな表情をみせるように、僕にもいろいろな感情が生まれるのかもしれない。

「有難い。」

 誰にともなく、そっとつぶやいた。

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