3 野崎誠 ③
今日はこの空間に、僕以外のものが現れた。
それは、一匹の黒猫だった。少し離れた草むらからじっとこちらを見ている。前足をきちんとそろえてスッと背筋をのばし、鎮座している。
僕同様、野良猫にとっても、外敵の存在しないここは落ち着く場所であるらしく、ときおりいろいろな猫がやってくる。
猫という生き物はなかなか興味深い。こちらを気にしていないようで、実は毛繕いしながらもしっかり見ており、気が向けば距離を縮めてくる。弁当の残り物などを与えると、こちらを警戒しながら「食べてやる」と言わんばかりの尊大な態度で平らげ、用が済むと素っ気なく立ち去っていく。そのクールさが面白い。ある一定の距離感を見事に保っている。
今、目の前にいる黒猫は、新顔だった。
「悪いな。新人さん。今日は、食べ物は何も持ってないんだ。」
猫に話しかけても通じるわけはないのだが、とりあえず、言ってみた。猫との会話(?)は、気を遣わなくて良いから、学校の僕以上に雄弁になる。
黒猫は、小首をかしげて尻尾をパタパタさせていたが、やがて、ゆっくりと僕に近づいてきた。なかなかに積極的だ。かつてどこかで飼われていた猫なのか。あるいは、家猫が散歩中なのか。丈の短い草を踏みしめてしなやかに前に出す足先だけが真っ白で、まるで白ペンキの缶に足を突っ込んだかのようだ。
黒猫は足下まできて、僕をしばし見上げる。
きれいだ。闇夜のような黒い毛並み。細い紡錘形の瞳。見つめられると何だか自分が観察されているような気になる。
いきなり彼(または彼女)は、ひらりとパイプに飛び乗り、間合いを詰めてきた。
すごいな、こいつ。こんな猫は初めてだ。警戒心がなさ過ぎる。僕のことが怖くないのか。この人間は何かくれると期待しているのか。猫ネットワークのようなものがあり、情報が行き渡っているとか? いずれにしても、興味深い。
驚くべきことに、黒猫は僕の太ももに前足を乗せ、さらに上半身を持ち上げて、僕の顔に自分の顔を寄せてきた。こんな近距離は初めてである。何という図々しさ! だが、嫌な感じではない。むしろその目で見られると、妙に落ち着く気さえする。緩やかな逆放物線を描く白いひげが、ピクッと揺れる。猫は右前足を持ち上げ、僕の眉間にそっと押し当てた。ひいやりとした肉球の感触が伝わる。
しばらくそうしていたが、やがて猫はすぅっと前足を離した。その桜色の肉球に、何か光る物が見える。非常に細い銀色の糸だ。太陽光を浴びてキラリと光るその糸は、僕の眉間とつながっており、猫が前足を離すとともに、長く引き延ばされた。
三十センチほどの長さの銀糸が、僕の額から猫によって紡ぎ出された。そして、糸は双方から離れて独立し、空に舞い上がった。
何だ、これは。何が起きているんだ?
僕の疑問はおかまいなしに、銀糸は優雅に宙を漂う。僕はただただその神秘的な物体を目で追う。
しばらくして、銀糸はするすると降下してきた。そして、僕のかたわらの化学の教科書に静かに着地し、その間にまるで生き物のように滑り込んで動きを止めた。
目の前の光景が信じられない。今のは一体何だったんだ。妄想? 幻想? 猫の魔術? だが、少なくとも幻ではない。銀糸はまるで栞のように本に挟みこまれている。
僕は、そっと教科書を持ち上げ、恐る恐る銀糸が示すところを開いてみた。
それは炎色反応の実験のページだった。元素が示す炎色反応を利用して、物質を特定するというものだ。さまざまな水溶液を白金線の先につけ、ガスバーナーの外炎に入れる。炎の色を観察し、ナトリウム、バリウムなどの物質を判定する、という実験である。
実験。
その文字が目に飛び込んできた。実験。
そうか、「実験」か。
頭の中で、何かがはじけた感じがした。
今までの僕は「観察」するのみだった。だが、自ら進んで実験することで、その観察の条件はさらに限定され、精度を増し、より高度な考察が可能になるはずだ。
水溶液はそれだけではどんな物質が入っているかわからない。しかし、火をつけて燃やすことで様々な「色」を見せてくれる。それを「観察」することで、その物質が何なのか、明らかになる。
人もまた同じかもしれない。
何事もやってみなければ分からない。この言葉は、すでにグルデモのダンスで実証済みだ。それがダンスという身体活動以外の分野でも有効かどうかは、それこそ、やってみないと分からない。「実験」によって、仮説は検証される。
仮説はこうだ。
「恋愛感情を知らない自分だが、経験を積むことで、その感情を獲得することができる。」
やってみる価値はある。
では、どうやって?
本宮早紀の顔が脳裏に浮かんだ。「恋愛対象」として可能性があるとすれば、それは、本宮早紀だ。他の人間は考えられない。彼女のことは、なぜか非常に気になる。これは、純粋に人間観察の対象としてではあるが、それが「恋愛」に発展することもあり得るわけだ。
では、どうすればそうなるのか。
僕のバイブル、山野かえでの本を分析すると、人は長時間ともに過ごしたり、苦楽をともにしたりすると、相手に対して恋愛感情を抱くことがよくある。心理学の実験では「吊り橋効果」というものがあって、ドキドキはらはらを共有した相手と恋に落ちることがあるそうだ。まあ、僕の場合、「ドキドキはらはら」はあまりないのだが、共にいる時間を増やしたり、さらに会話を増やしたりして互いについてもっと知り合うことで、目標である「恋愛感情」の獲得に至る可能性はある。
では、どうすれば、本宮早紀ともっと長時間一緒にいることができるのか。
「付き合う」という複合動詞がひらめいた。
人は付き合うことによって、互いの交流をさらに深める。本当は、好きな者同士が付き合うわけだが、どちらかがお願いして「試し」に付き合うということもあるらしい。これぞまさしく「実験」ではないか。
本宮早紀は、恐らく水谷玲弥に恋愛感情を抱いている。ただ、多分それは本宮早紀の一方的な感情だと思われる。
僕に対しては、読書という共通の趣味を持ち、気に入った本を紹介し合う仲としか思っていないだろうが、少なくとも、他のクラスメートに比べると距離感は近く、嫌われてはいない、はずだ。
よし。決めた。本宮早紀に「付き合ってほしい」と言ってみよう。断られることは想定内だ。確率的には非常に少ないと思われるが、試しに付き合ってくれるということがないわけではない。わずかな可能性ではあるが、ゼロではない。
それに、断られてもいい。そうなったらそうなったで、その時の、本宮早紀の表情・行動を観察したい。そして、僕自身がそれに対してどう反応するのか、という、そこに一番興味がある。
僕は再び、開かれた本に目を落とした。先ほどまで挟まれていた銀糸は、風に飛ばされたのか、もうそこには存在しなかった。
あの猫は?
顔を上げるが、黒猫の姿はなかった。制服の白シャツには、まるで置き土産のように黒い毛が一本だけ張り付いていた。
しばらくして、チャンスは訪れた。放課後、図書室に向かっていると、本宮早紀が僕に話しかけてきたのだ。
「野崎君、グルデモ、めっちゃ上手くなってて、すごい!」
そうか。本宮早紀も僕の上達を認めてくれるのか。これはなかなかに心地よい。
「そうですか。」
「そうだってば! もう、反応うすいなあ。」
その言葉にハッとした。僕としてはかなり「嬉しい」ことなのだが、きっとそれは表情には出ておらず、本宮早紀には伝わっていないのだ。ナトリウムが炎色反応で黄色に変化するように、僕の表情も変化したら、もっと「気持ち」が伝わるのだろうか。
やはりここは「実験」で試してみてその反応がどう出るのかを観察する、この前自分なりに考えて決断したことを実行するしかない。
意を決して言ってみた。
「本宮さんにお願いです。僕と付き合ってくれませんか? もしよかったら、実験のつもりで。」
「は?」
本宮早紀の目が大きく見開かれる。「は」の形のままで口が閉じない。
「僕の言っていること、多分よく分かってもらえないと思いますが、僕は、本宮さんと付き合えたらいいなと思っているんです。」
「実験って………どういうこと?」
そうだろうな。いきなりこんなことを言われて戸惑う心情は、推察できる。
「結果がどうなるか分からないけれど、上手くいくかどうか分からないけれど、試してみる、という意味だととらえてください。」
「私と……ですか……」
「はい。本宮さんと。他の人は考えられません。」
そうだ。やはり本宮早紀しかいない。今まさに、そうして明らかに動揺している表情。君のその表情をもっと見ていたい。
「突然、こんなところでこんなことを言い出して、すみません。でも、僕の中では、結構前から考えていて、考えた結果、いつかお願いしたいと思っていたことなんです。返事は急がないので、ゆっくり考えてください。」
呆然としている本宮早紀を後に残し、僕は図書室に向かった。
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