3 野崎誠 ②

 体育祭の出し物を決める話し合いで、本宮早紀はいつもとは違う表情、行動を見せた。

 優柔不断で決められない。おどおどとした表情で、うつむく。困っている。

 そこまでは、いつもと一緒だった。しかし、なぜ決められないのかと問われたとき、顔をまっすぐと上げ、普段にないきっぱりとした表情で、こう言った。

「だって、みんなの意見聞いてると、それぞれ、もっともだなって思うから。グルデモにはグルデモの、応援看板には応援看板の良さがあるから、選べといわれても、困ってしまう。どっちか選ぶと、選ばれなかった方は可哀想だし。」

 新しい表情だった。そうか。本宮早紀にはこんな顔もあるのか。「選ばれなかった方が可哀想」、そうか……、そんなふうに考えているのか。「可哀想」、そんな考え方もあるのか。

 またもや新しい発見だった。


 結局、出し物はグルデモになって、毎日、練習することとなる。

 はっきり言って、グルデモはやりたくなかった。身体を動かすことは苦手だし、多数の人と息をそろえて同じことをするのは、もっと苦手だ。

 「2・6魂」のTシャツにいたっては、皆目意味がわからない。制作者たちは鼻高々で「かっけぇ!」と叫んでいるが、「2・6魂」とは何ぞや。そもそも「魂」というものがよく分からないし、百歩譲って人に「魂」があるとして、2年6組という「人」の集合体に「魂」はあるのか。たまたま同じクラスになった「人」。そこに集うものに共通の「魂」があるとは思えない。いや、共通のものがないからこそ、無理矢理「2・6魂」という無理なネーミングで一つにくくろうとしているのか。そうだとしたら、けなげなあがきとしてとらえれば、目くじら立てるいわれもないのか。


 ダンスは難しかった。

 広汎性発達障害の症状の一つとして「巧緻こうち性がない」ということがある。僕にそれは少しあてはまる。そこまで重い症状ではないが、他の人のようには器用に身体を動かせない。バランスが取りにくく、ちぐはぐな操り人形みたいな動きになってしまう。体育の時間は、はっきり言って、「我慢」と「辛抱」の時間だ。球技は特に苦手。テニスをした時は、自分がサーブを打つときに何度も空振りをしてしまい、ごつい体格の体育教師に笑いながらこう言われた。

「おいおい、野崎。お前のラケットは魔法のガットが張ってあるのか? 見事に通り抜けてるぞ。」

 チームプレーが要求されるバレーやサッカーは、最悪だ。僕のせいでチームが大変なことになってしまう。できるだけ迷惑がかからないように、コートの隅の方にそっと立っているのだが、時々、おせっかいなチームメイトがくれなくても良いパスをよこすと、僕の善意は無になってしまう。いらぬ気は遣わなくていいから、そっとしておいてほしいと、心から思う。

 そんな僕だから、水谷玲弥の最後の一票で決まったグルデモでも、周囲に迷惑をかけることは目に見えていた。


 いざ、グルデモ練習が始まると、出し物決めでもめたとき、実行委員長の水谷玲弥が「手取り足取り教える」と言っていたのは、嘘ではなかった。

「ほら、こうやって、1・2、1・2、右二回、左二回。そこでターン!」

実に根気よく、懇切丁寧にアドバイスする。できない者に合わせて、スローモーションで手本を示す。彼がやってみせると、難しいステップも、実に簡単そうに見えるから、不思議だ。流れるようなフォームが、実に美しい。

「お! できたじゃん!」

ちゃんと褒めることも忘れない。彼の明るさ、笑顔は周りの者を元気づけ、「やろう!」という意欲を引き出している。僕と同じダンスが苦手な者たちも、少しずつ踊れるようになり、それと同時に、表情も変わっていく。

 面白い、と思った。こんなふうに「人」の表情、気持ちは変わるのが。外部からの働きかけ、そこから生まれる自らの動きの変化、それに伴う感情の変化。


 苦手だと思っていたダンスは、ゆっくり教えてもらうと、徐々に踊れるようになってきた。

 一度、「正解」の動きが超スローでできると、あとはそれを繰り返し繰り返しやる。何回も何回も。身体が自然に覚えてくる。少しずつスピードを上げる。できるようになると、もっと速く。さらに速く。一つのパートをマスターすると、次のパートでまた初めから。繰り返し繰り返し。

 繰り返すことは心地よい。できるようになると心地よい。なるほど。こう動くんだ。どんどん「なるほど」が増えていくのは面白い。

 気がつくと、学校の練習だけではなく、家に帰っても自分の部屋で、繰り返し繰り返し踊っている自分がいた。鏡の前で、何度も何度も。

「あんたも、鏡くらい見て、自分がどう見られてるか、考えなさい。」

そんな言葉とともに、結婚して家を出て行った三歳上の姉が無理矢理置いていった、縦に長い姿見。今まで部屋の片隅でほこりをかぶっていたが、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 鏡の自分を見ると、どこができていて、どこができていないのか、よく分かる。ここはこう。このターンはこうじゃない。右足をもっと上げて。左手は腰の位置。水谷玲弥はこう踊っていた。頭の中で彼の動きを再現しながら、踊る。鏡の自分との微妙なずれを調整しながら、ステップを踏む。水谷の動きに近づけるのはかなり無地香椎が、それでも、少しずつサマになっていくのが自分でも分かる。そうか。ダンスとはこういうものなのか。こんなふうに身体を動かすのか。こんなふうに自分の身体も動くのか。

 「なるほど」がどんどん増えていく。


 そのうち周りから言われるようになった。

「野崎、上手いじゃん!」

「すごい上達!」

 そうなのか。上手くなったのか。上達したのか。

 水谷玲弥も褒めてくれた。

「野崎、いいよ! やるなぁ!」

 周りからこんなふうに声をかけられることは普段ないので、正直、面食らった。でも、上達を評価されるのは心地よかった。黄色いTシャツの「2・6魂」の文字に対しても、最初のような拒否感はなくなっていった。


 本宮早紀の変化も興味深かった。彼女も「踊れない」グループに属していたが、徐々に動きが良くなり、それとともに、表情が明るくなっていった。2年6組の教室では見られなかった表情だ。むしろ図書室内での表情に近い。極めて自然な笑顔である。いや、図書室でのそれとは、若干の違いがあるかもしれない。彼女の笑顔、微笑みは、「人」との自然な関わりの中で生まれていた。

 しばらくして、僕はあることに気づいた。本宮早紀の視線の先に、しばしば水谷玲弥がいるということに。もちろん、水谷玲弥がリーダー兼お手本として皆を率いているわけだから、彼を見るのは当然である。ただ、教わっていないときも、休憩中も、本宮早紀は水谷玲弥を目で追っていた。そして、口角があがる。自然に。読みたかった本を手にしたときのように。

 山野かえでを初めとするさまざまな小説で学んだことを当てはめて考えると、どうやら、本宮早紀は水谷玲弥に好意を抱いているのかもしれない。いわゆる恋愛感情である。

 なるほど、本宮早紀は、水谷玲弥のような人を好きになるのか。確かにあり得る。むしろかなりの高確率で。

 気づけば、本宮早紀以外の女子生徒も、多数、水谷玲弥に熱い視線を送っている。

 これが「モテる」ということなのだな、と納得する。女子ではない自分自身、水谷玲弥の熱量に引っ張られている。顔はいいし、運動もでき、「さわやか」である。モテない方がおかしい。でも、水谷玲弥は、これだけ女子の視線を浴びて疲れないのか、といらぬ想像をしてしまう。

 「恋愛」、それは、僕とは無縁の事象である。一方で、非常に興味深い事象である。よく分からないからこそ、「知りたい」という気持ちになる。

 だが、待てよ。はたして、本当に「無縁」なのか? 

 グルデモのダンスにしても、最初は自分とは遠いものだと思っていた。ただ、やってみると、状況が変わってきた。自分もできるようになった。「人」と関わりながら教えてもらい、自分自身で納得のいくまで反復練習することで、できるようになった。自分の独りよがりではなく、「上手くなった」と客観的な評価をもらった。

 ひょっとしたら、「恋愛」も可能になるのではなかろうか。

 いや、それはやはり無理があるか。身体能力というものは、トレーニング次第で向上するものであろう。しかし、「感情」、ましてその中でもかなり高度なものであろうと推測される「恋愛感情」は、努力して手に入るモノとも思えない。「観察」して推測できるかもしれぬが、自身が獲得できるモノではなさそうだ。


 化学の教科書から目を離し、目の前の廃墟を見ながら、僕はそんなことをぼんやり考えていた。

 学校から家に帰る際、線路沿いの細い道を通る。そこから脇にそれて、さらに細い、歩きでしか通れない道とも言えぬ道を、伸び放題の草をかき分けながらたどっていくと、この空間に行き着く。

 もう十年以上も前、市のホテル建造計画が財政危機で頓挫し、建設途上のまま放置された代物だ。作りかけのままボロボロになった姿をむなしくさらしている。使われなかった資材がそこかしこに点在し、草だけが元気よく生い茂っていた。

 錆だらけの巨大なパイプの上に腰を下ろすと、ゆったりと落ち着ける。ここに他の人間が来ることは、まずない。幼いときから、ここは僕のお気に入りの場所だった。学校帰りにここに立ち寄り、自分だけの時間を過ごすというのが、ルーティンとなっていた。

 学校という集団の中で大勢の人といることは、かなり疲れる。観察と称して、こっちから見ているだけならまだ良いが、いちいち応答したり反応したりするのは結構しんどい。人の「気持ち」はよく分からないが、それでも、学習してきたことを思い出しながら、恐らくこういうことなのだろうと考える。それは、僕にとってはかなり疲れる作業だ。

 「一人」の時間は良い。他を気にすることなく、思う存分自分の世界にひたることができる。授業の中で気になったことを、自分の中で再構築する。本を読む。人の感情について考える。自分自身のことについて考える。あっという間に時がたつ。


 小学生の頃、カウンセリングでそんな話をすると、心理療法士の先生に

「それはクールダウンだね。」

と言われた。僕は対人関係の中でそこまでパニックになることはないが、症状が重い人は、そういうとき、一人になって心を落ち着かせるのだそうだ。自分でちゃんとそれを意識してできるようになると、随分トラブルも減り、楽になるという。

 なるほど、そういうことか、と、納得した。僕にとって、この時間と空間は、とても大切なものであるらしい。


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