2 本宮早紀 ④
堂々巡りの思考に身も心も疲れ果てた私は、休日、家の縁側に腰を下ろし、ボーッと空を見上げていた。晴れ渡った青い空。澄み切った青色の中に波のような雲が浮かんでいる。まるで、魚の肋骨のようだ。細い骨の先は青色に溶けていく。この空の中に入って行けたら気持ちいいだろうなあ。私もこんな「快晴」でいられたらいいのに。まあ、分不相応の贅沢な悩みなわけですが……。
ふと目線を下げると、庭の片隅に一匹の黒猫がいた。ほとんど真っ黒だが、両手・両足の先だけ、足袋をはいたように白い。お稲荷さんの狐みたいに、背筋を伸ばして、凜と座り、こっちを見ている。
「見かけない顔ね。どこから来たの?」
話しかける私を、ちょいと小首をかしげてみつめている。
小四の時に我が家にもらわれてきた猫、トラオは、その後、我が家の王様となった。私も、そして父も、トラオにメロメロで、トラオの話をするときは、お互い、優しい関係でいられるのだ。よじ登っていたカーテンレールは、トラオの体重が増えるにつれてその重みに耐えきれなくなり、壊れてしまった。そのせいかどうなのかは分からないが、今ではカーテンを駆け上ることもなく、どっしりと貫禄を見せ、のっしのっしと歩いている。今はお気に入りの座椅子の上で眠っているはずだ。普段、彼がマーキングをしながらパトロールしている我が家の庭に、他の猫が現れることは珍しい。
やや小柄でスリムな体つきの黒猫は、野良猫なのだろうか、首輪もしていない。端正な顔つきに品がある。しばらく見つめ合っていたが、猫はゆっくりと近づいてきた。そして、さらに私を見つめる。
「初めまして。何か御用?」
黒猫はさらに接近してきた。驚いたことに、ひょいと縁側に飛び上がり、私の側までやってくる。金色の虹彩が美しい。その中の黒目が私をみつめる。魅入られてしまう。
おもむろに黒猫は私の膝に前足を乗せてきた。そっと背中をなでるが、嫌がらない。そのまま、伸び上がるような体勢で、私の顔をのぞき込むようにして見る。私も見る。不思議な感覚に襲われる。
猫はさらに顔を近づけ、私の額をペロリとなめた。そして、右手を伸ばして私の額にあて、すーっと、何かを引っ張り出すかのように、ゆっくりと離した。
猫の手にはきらきら光る細い銀の糸がついていた。その糸は、何と私の額から引き出されている。三十センチほどの繊細な糸は、私の額から離れ、さらに、猫の手からも離れ、ゆらゆらと宙を舞った。日の光を浴びながらきらきらと輝く。銀糸は意志があるかのごとく、風もないのに庭の片隅に向かってゆっくりと流れていった。短い旅の終着地点は、薔薇の根元だった。ふうわりと、そこが安住の地であるかのように舞い降りる。
薔薇。
そう、それは、母が好きだった花だ。母がいなくなっても、季節が巡ってくると、庭の片隅で密やかに花を咲かせていた。私は、まじまじと薔薇を見た。そういえば、ずっと、こんなふうにこの薔薇を見たことはなかった。きっと、あえて視界の外に追いやっていたのだ。見るとつらくなるから。ビロードのような濃い赤。母の好きだった色。
銀糸は土の上で静かに横たわる。
私の中で、何かがはじけた。
土の中に、何かがある。それは、確信だった。
裸足のまま縁側から飛び降り、薔薇のもとに走り寄った。銀糸をそっとつまんでわきにどけ、薔薇の根元を掘り返してみる。手に何か固いものがあたる。さらに土を取り除くと、古ぼけたお菓子の空き缶が出てきた。土を払って、震える手でふたを開ける。
中に入っていたのは、折りたたまれた紙切れだった。ゆっくり開くと、携帯番号らしき数字が、太いマジックで大きく黒々と書かれている。母の字だ。
思い出した。そうだ。この紙を缶に入れて、ここに埋めたのは私。
すべての記憶が押し寄せるようによみがえってきた。
五歳のあの日。母が出て行った日のこと。
夜だった。枕元の小さな明かりだけつけたその中で、まとめた荷物正座をして正座をした母は、私に言った。
「母さんと一緒に行こう。」
と。低く抑えた声。でも、きっぱりとした声。
「史織も一緒に?」
「そうよ。三人で。」
「お父さんは?」
「お父さんは行かない。」
母が父を捨ててこの家を出ようとしているのだと分かった。真剣な母の顔が強い決意を物語っていた。三人で家を出る。父から離れる。そうしたら、今みたいに怯えることはなくなる。母が泣くこともなくなる。でも……。
「でも、父さん、ひとりぼっちになっちゃうよ。父さん、一人じゃ寂しいよ。」
そうだ。思い出した。
選んだのは私。母じゃない。
「私、ここに残る。」
五歳の私が選んだのだ。
酒を飲むと人が変わってしまう父。でも、こんなふうになる前は、私の大好きな父だった。一緒にお風呂に入って背中を流し合ったり、寝る前の絵本を読んでくれたり、母に怒られつつも、こっそり買ったアイスを二人で食べたり……。母も史織も、そして私までいなくなったら、父はどうなるのか。母が史織を連れて行くのなら、私がここにいないと、父は一人になってしまう。
「早紀は優しいね。」
母は私をぎゅっと抱きしめた。抱きしめた背中の向こうで泣いていた。
「母さんのところに来たくなったら、ここに電話しなさい。」
そう言って渡されたのがこの紙だった。
私はこの紙をお守りのように肌身離さず持っていた。父に隠れてそっと開いては、大きな数字を見つめていた。見ていると、母さんに電話したくなる。声が聞きたくなる。会いたくなる。母さんのところに行きたくなる。きっと、母さんも「おいで」って言う。でも、そうすると、父さんが一人になる。母さんが出て行ってから、きっぱりとお酒をやめた父さん。なれない料理で指にけがをしながらも、保育園のお弁当まで作ってくれる父さん。私までいなくなったら、父さんは生きていけないかもしれない。
それとは裏腹に、母に会いたいという思いが私を苦しめた。何であの時、母さんと一緒に行かなかったんだろう。一緒に行っておれば、今頃は……。何度も思った。後悔もした。
でも、自分が決めたことだった。
私はこの紙を、宝物入れにしていたキャンディの空き缶に入れて、ここに埋めた。封印した。捨ててしまうことはできなかった。それは、母と私を繋ぐものだったから。
薔薇を見ないようにした。思い出すから。思い出すと辛くなるから。電話したくなるから。
視界の中から追い出し、頭の中から追い出し、そしてついには「忘れる」という手段で自分の心を守ろうとしたのだ。
今、再び、この紙を手にして、私の目から涙が止めどなく流れ落ちた。ぽたりぽたりと落ちた滴が、薄汚れた紙の上にじわりと広がっていく。
五歳の私、あんた、えらいよ。がんばったね。苦しかったね。寂しかったね。
でも、選んだ場所で必死で生きてきたんだね。
そう、私は五歳の時、自分で自分の道を選んでいたのだ。人生最大の選択をしていたのだ。
選ぶということは、もう一方を捨てること。そこには悲しみと後悔がつきまとう。でも、それもすべて背負って生きていくということなのだ。
だから、十七歳の私も、これからも、選べる。自分で、考えて、自分の意志で選ぶ。自分で決めたことなら、いろいろあってもきっと大丈夫。いろいろあることも想定内にして、何とかやっていける。
ふと見ると、脇に置いたはずの銀糸は風に飛んでいったのか、見当たらない。はっと振り返る。縁側に黒猫の姿はない。あの猫は、一体何だったんだろう。
どこか遠くの方から、かすかに「ニャァ」と優しげな鳴き声が聞こえた気がした。
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