2 本宮早紀 ①

 「赤いのと青いの、どっちがいい?」

 むちむちした丸っこい指で二つのあめ玉を差し出された時、私は答えられなかった。

 小学校低学年の頃の話だ。

 迷った末に、私はこう答えた。

「どっちでもいい。」

「どっちか選んでよ。サキちゃんの好きな方あげるから。」

 重ねて聞いてきたのは、当時、仲の良かったユカリちゃんだったと思う。ピンク色のシュシュでまとめたポニーテールの髪をふわりと揺らしながら、ユカリちゃんが私をみつめる。遠足の自由時間。二人並んで座っていたレジャーシートの柄がキティちゃんだったことは覚えている。

 ユカリちゃんにそう言われても、私は選べなかった。

「選べない。」

 私がそう言うと、ユカリちゃんは、元々大きな瞳を、これでもかというくらいに見開いた。

「何で? 簡単なことでしょ?」

 簡単なこと。そう、確かに簡単なことだ。他の人にとっては。

 でも、私にとっては、「簡単なこと」ではなかった。私は、キティちゃんのまん丸い目を見つめたまま、固まっていた。


 昔から、私は「選ぶこと」が苦手だった。どうしても、決断することができない。高校生になった今でも、そうだ。

 小学四年生の時、近所の家で生まれた子猫をうちで引き取るという話が持ち上がった。一緒に見に行った父に聞かれた。

「キジトラと茶トラ、どっちにする?」

 二匹の子猫は、ちっちゃくて、ふわふわで、母さん猫のおっぱいをふみふみしながら必死で吸っていた。ちょっと大きめのキジトラはきかん坊らしく、茶トラの頭を踏みつけながらおっぱいにしがみつく。みかん色の茶トラは、「み~」と、か細い声を上げてささやかな抵抗を見せている。一心不乱なそれぞれの背中にそっと触ってみた。温かいぬくもりが手のひらからすーっと私の内部まで伝わってくる。やわらかくて、けなげで、そして、はかない。

 この二つの命。そのどちらかを私が選ぶのか……。

 悩んだあげく、私は言った。

「選べない。」

「どうして?」

 父の問いに、こう答えた。

「だって、選ばれなかった方が、可哀想だから。」

 それを聞いた父は、しばらく言葉を発せず、何とも言いがたい表情で私をみつめ、そして、目をそらした。私は、そんな父を、少し意地悪な思いで冷ややかに見ていた記憶がある。そう。選ばれなかった方は、可哀想なのよ。わかるでしょ、父さん。

 結局、その後、選ばない私に代わって、父がキジトラを選び、家に連れて帰った。

 キジトラの子猫は可愛かった。「トラオ」と名付けたそのオス猫に、哺乳瓶で猫用のミルクを与えていると、何だか自分が「母」になった気がする。ひたすらにこちらを見る青い瞳に魅せられる。無防備で、すべてを私に委ねている小さな存在。温かい命。私の後を追いかけて、みーみー鳴きながら、けなげによたよたしながらついてくる。抱き上げると小さな爪を立ててしがみついてくる。私のベッドに潜り込んできて、腕枕で寝る。その姿はまさに天使だ。すーすーという呼吸とともにモフモフの毛が小さく揺れる。一緒にいると、身体と心があたたかくなる。そっとなでると、「ごろごろ」と喉を鳴らす。私がなでていることが気持ちいいんだなと思うと、うれしくなる。

 トラオは、すくすくと大きくなり、やんちゃのし放題となった。朝の4時から元気いっぱいで、家中猛ダッシュする。爪とぎ用の段ボールを用意してやっているにもかかわらず、ソファでバリバリ爪をとぐ。カーテンをわしゃわしゃと登っていき、カーテンレールの上から見下ろしてくる。

「こら、トラオ!」

と叱ると、一時、身体をすくめて申し訳なさそうな表情をするが、一時間ともたず、再びガリガリ。

 そんな様子を見て、ため息をつきながら

「メスの方が良かったかなあ……」

と、父がつぶやいた。

 そんな父に、無性に腹が立つ。あんたが選んでおいて、何言ってるの。トラオはトラオ。いろいろやらかしてこっちを困らせるけれど、私は可愛くて仕方がなかった。

 父には言えないことも、トラオになら言える。学校で会ったこと、悔しかったこと、楽しかったこと、全部トラオに話を聴いてもらう。トラオは尻尾を時々小さく振りながら、私の目を見て聴いてくれる。

「ねえ、トラオ。どっちがいいと思う?」

選べない病に陥ったときは、トラオに聞く。トラオは本当に良き聴き手だったが、そんな彼にも欠点はあった。

「にゃぁ」としか答えてくれないのだ。それはわかっている。それでも私は、何かあるごとにトラオに相談する。トラオの表情(?)を見て、勝手に

「やっぱりそうだよねぇ。トラオもそう思うよね。」

と、答えを生み出したりする。お礼に喉をなでると、気持ちよさそうに目をつむって喉を伸ばし、もっともっとと、催促してくる。

 でも、私は、トラオの喉をなでつつも、選ばれなかった茶トラのことを思わずにはいられなかった。あの子は、どうなったのだろう。元気でいるだろうか。誰か、私ではない別の人にもらわれて、幸せに暮らせているだろうか。


 「選ぶということ」は、「もう一方を選ばないということ」。

 そうなのだ。選ぶということは、同時に、捨てるということでもあるのだ。

 選ばれなかった方のつらさ、悔しさ、悲しさ。それを思うと、私は、選ぶことができない。

 なぜなら、私が、選ばれなかった子供だから。


 私が五歳の時、母は家を出て行った。三歳の妹だけを連れて。

 私はこの家に残された。以来、父と二人暮らしである。母とは音信不通だ。

 その時の記憶ははっきりしないが、いつものように、朝、起きたら、母と妹の布団が丁寧にたたまれており、その布団に差し込む朝の光が、妙にまぶしかったことは、頭の中に鮮明に残っている。

 なぜ母は出て行ったのか。

 幼心に、何となく想像はついた。当時の父は仕事が上手くいかず、酒を飲んでは、人が変わったようになり、時々母に手をあげていた。さすがに、まだ小さい私や妹に手をあげることはなかったが、父の怒鳴り声は恐ろしかった。母も、私も、妹も、父の機嫌をうかがいながら、ビクビクする毎日だった。後から聞くと、借金もたくさんあったのだそうだ。今思えば、父は「悪い人」ではないと思う。むしろ、小心者で、周りを気にしすぎる。いや、だからこそ、よそでは出せない鬱屈を、家の中で、酒の勢いに任せて爆発させていたのかもしれない。母はそんな状況に耐えられなかったのだろう。

 それは、わかる。母は自分の道を選んだのだ。幸せに生きる道を選んだのだ。

 では、なぜ、妹だけ連れて行き、私を残したのか?

 少し大きくなってから、思い切って、伯母(父の姉)に聞いてみた。

「さあ、どうだろう? 女手一つで二人の子供を養っていくのは大変だから、一人だけにしたのかもね。早紀の方が大きいから、大丈夫だと思ったのかな? 史織はまだ小さかったからね。」

 理不尽だ。私だって、五歳だ。まだ小さい。なんで私だけ置いていったの? どうして私を選ばなかったの?

 選ばれなかったものは、その思いを反芻する。

 なぜ? どうして? 私のせい? 母さんは私が邪魔だったの? 

 いっそ、妹も置いていったのなら、納得もできる。でも、私は、一人残され、捨てられた。母が逃げ出した環境に、捨て置かれたのだ。


 母が出て行った後、父は心を入れ替えたのか、仕事も頑張り、酒も飲まず、私に当たり散らすこともなかった。今考えれば、子猫を飼おうとしたのは、寂しいであろう私の遊び相手になるように、という父なりの気遣いだったのかもしれない。

 だが、私の心が満たされることはない。結果、私は、「選ぶこと」を極度に恐れ、周囲から希有な目で見られることとなる。


「選ぶこと」を、私はどうにかこうにかやり過ごして、今まで生きてきた。

 どうしても選ばなければならないときは、次の三つの方法が有効である。 


 その一。「どちらにしようかな」で指さし、天の神様の言うとおりにする。

 その二。他の人が選んだものを選ぶ。

 その三。他の人に選んでもらう。


 子供の頃は、「その一」が結構通用した。ただ、このやり方には欠点が二つある。まず、子供っぽいということ。十八歳にもなって、友達の前で「どちらにしようかな……」をやっちまうと、ドン引き間違いなし。よくて、「ガキ」扱いされ、悪ければ「かわいこぶってる」と、ハミられる原因を自ら作ってしまうこととなる。よっぽど気を許せる相手の前じゃないと、使えない。例えば、七歳にして、キティちゃんと共に私の優柔不断さに直面し、それが本宮早紀の偽らざる姿だと理解している幼なじみのユカリとか。

 もう一つの欠点は、二者択一の場合、どちらから指さすかということで、実は結論は決まっているということを、何度も繰り返すうちに、知ってしまっているということだ。「どちらにしようかな」で終わる場合は、始まり以外の方が選ばれる。「天の神様の言うとおり」をつけると、始まりの方。「鉄砲撃ってバンバンバン」をつけると、始まりとは違う方。

 ちなみに、「鉄砲撃ってバンバンバン」は地域によっていろんなバリエーションがあるのだそうだ。「もひとつおまけにバンバンバン」がついたり「柿の種」がついたり、何と、鹿児島県では「桜島ドッカーン」となるという。

 すごい。知恵がつき始めた子供がいつか悟るように、日本中の子供が、そして、大人が、第二の欠点に気づいている。それを何とかしようと、やたらめったら、言葉をつけていったのではないのだろうか。あるいは、「天の神様」が示してくれた選択結果に納得できず、グズグズと抵抗した結果ではないか。「天の神様の言うとおり」と言いつつも、その決定に従わないとは、なんたる不遜! もはや「どちらにしようかな」に託す意味がない。

 選びきれずに四苦八苦しているのは、私だけじゃない。そんなふうに自分を慰めてみたりもするのだが、それもまた、むなしい。


 というわけで、「その二。他の人が選んだものを選ぶ。」というやりかたが、次なる手段となる。

 だいだい世の中の女子というものは、とかく群れたがるものだ。自分の判断に自信が持てず、漠然とした「世の中」の傾向、流行り物にのっかっていないと不安になる。だから、私以外の大勢の人も、この「その二。他の人が選んだものを選ぶ。」を日々実践していることとなる。

 だがしかし。これもまた、危険をはらんでいる。「女子」は、難しい。人と変わったことをすると、「あの子、変。」というくせに、誰かと同じもの(例えば、文房具とか、服とか)を持っていると、「あいつ、あたしの真似した」なんて、嫌な目で見られたりするのだ。恐るべし、女子! 全く同じでもなく、かといって、浮くほどとっぱずれてもおらず、その微妙な綱渡りをやり抜くというのは、かなり疲れる。この「ザ・女子構造」に気づかなければ、そんなふうに思わなければ、自分の「素」のままでいられれば、格別思い悩むこともないのかもしれない。    だが、トラウマを抱える私は思ってしまうのだ。選べない……と。「素」とは何ぞや、と。

 例えば髪型。あまりにも流行を追いすぎたくもないし、かといって、「ダサい」と思われたくもないし。何となく落ち着いたのがボブだ。昔でいう「おかっぱ」である。ある意味、流行りすたりのない、定番といっても良い。そんなに迷うこともなく、伸びたら伸びた分だけ切れば良い。 

 そんな私にユカリはあきれた顔で

「いい加減、変えたら?」

 と言うが、迷わなくて済むという楽チンさからは抜け出せないのだ。

 ユカリに言わせると、私の顔は「くしゃみが出そうで出ない、その直前みたいな顔」なんだそうだ。

「何それ? どういうこと?」

 と聞くと、

「はっきりしないってこと」

 と言われた。自分で鏡を見ても、確かにそうだと思う。自信なげでほわんとした顔が、おどおどとこっちを見てくる。きれいに整えられた細い眉毛がキリッと凜々しく、目に力がこもっているユカリと比べると、雲泥の差だ。正直、自分の顔を鏡でまじまじと見るのは、好きではない。


 そして、最終的に浮上してくるのが、「その三。他の人に選んでもらう。」という手段だ。これは、他の二つに比べれば、かなり使える。

 何かを決めなくてはならないとき、身近な人に「あなただったらどうする?」と、意見を求める。これは、単純に、情報収集手段としても有効である。さらに、周りには「自己中ではなく、多面的に物事をとらえようとする堅実な性格」という好印象を与えることもある。

 ただ、事と場合による。


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