さすらい猫は銀糸を紡ぐ

T-aki

1 プロローグ

 空は巨大な穴なのよ、そう誰かが言っていた。大きくて深くてどこまでも続く穴。だから、一度その穴に飲み込まれたら、もう戻ってこれないのだと。

 その言葉を誰が発したのかは、忘れた。ただ、そう言いながら私の背中をそっと撫でる手の感触と、哀しげな口調は、頭の片隅にかすかに残っている。その時、私は、不思議な感覚に襲われた。空が大きな穴で、そこに落ちていくのだとしたら、私が今こうしているところは、上下逆転している世界なのか、と。突然、世界が根本から覆されたように思えて、軽いめまいを感じた。

 空の青さは目に痛い。

 特に五月のそれは、なおさらだ。見上げると、何もない、どこまでも続く、ただ、青。青。青。落ちていきそうな青。

 人は「そらいろ」と言う。薄い青色が「そらいろ」だ。じゃあ、曇りの時の空色は「そらいろ」じゃないのか。雨降りの空色は? 雪模様の空色は? 晴れの時のみが「そらいろ」なのだというそのネーミングセンスは、いたって不合理だ。晴ればかりが空じゃないだろと、申し述べたくなる。

 いわゆる「そらいろ」の、その青さに、言いようのない恐ろしさを感じ、視線を下げてしまうのは私だけだろうか。

 気持ちを落ち着かせようと毛繕けづくろいに励むのは、私だけだろうか。


 私はさすらい猫である。名前は忘れた。

 以前、人間と暮らしていた頃、何かしらの名前があったような記憶は、うっすらある。誰かが、優しい声で私を呼んでいたような気がする。その声に呼ばれると、うれしくなる。心の奥の方がほわほわとなる。呼ばれた方に、尻尾をピンと立てて、駆けていきたくなる。だが、何と呼ばれていたかは、思い出せない。誰かの膝の上で心地よくまどろんでいた覚えはあるが、それが誰だったのか、定かでない。あったかくて、気持ちよくて全身がとろとろと溶けていきそうな感覚……。だが、昔のことを思い出そうとすると、頭の中に白いモヤがかかったようになる。たどりつけそうでたどりつけない。何か、しなければならないことがあったような気がする。何か、とっても大切なことが……。

 だが、思い出せない。モヤモヤすること、この上ない。思いっきり掻きたいのに、かゆいところ(例えば頭の上)に足が届かないような気分だ。

 めっきり歳をとってしまったということはしみじみと感じる。若い頃はもっと軽やかに動けた。最近は、草むらから飛び出すバッタを捕まえるのもおっくうだ。せっせと毛繕いしても、全身真っ黒な毛並みにつやがない。春の夜、血気盛んな雄猫たちが鳴いている声を聞いても、一向にそそられない。


 ただ、歳をとることで、得たものもあった。

 人の世界では、年を経た猫は、尻尾が二股に分かれ、「猫又」という妖怪になるという話があるらしい。人に化けるだの、人をだますだの、悪者扱いである。愚かな人間が思いつきそうな、馬鹿げた迷信だ。

 私の自慢であるまっすぐな尻尾は二股になったりはしていないが、人が「妖力」と呼ぶかもしれない力を持つようになった。妖力? 魔力? 能力? まあ、いずれでもよい。要は、「人外」かつ「猫外」の力だ。

 私の力は、銀糸ぎんしつむいで、「人」を「何か」とつなぐことだ。それができた瞬間、なぜか、心の中の空白が埋まるような気がする。一時いっとき、空の青さの恐怖から逃れることができる。思い出そうとしても思い出せない「やらなくてはならない何か」に少しだけ近づけるような気がする。

 

そのために、私は「人」を探してさすらっているのだ。

 さあ、今日は、どんな人間の、どんな「何か」と会えるのだろうか……。

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