底にあったのは、確かな幸せだった

潮の香りがする。

もう11月を過ぎているからだろうか。夜の海は鳥肌が立つほどに寒かった。

「本当にいいの?こんなところで、あなたの大切な人生を終わらせてしまって。あなたは私と違って、まだ未来がある。希望に満ち溢れている人生が残っている。それを今から全て捨て去るのよ?」

こんなときでも私の心配してくれる彼女の慈悲深さは、きっとあのイエスキリストにさえ勝るだろう。

ただ、私にとって何よりも大切なのは、紛れもなく彼女なのである。

それは人生とか希望とか未来とかよりもずっと、大切で、大好きなものなのだ。

だから、私は精一杯の愛の言葉で彼女に応える。

「あなたのいない世界で生きるのは、私にはあまりにも辛すぎるから。そして何より、私はあなたを思い出なんかにしたくない。だから今ここで、私とあなたの物語にfinの文字を刻みましょう」

「…相変わらず、口が達者ね」

彼女が苦笑する。それにつられて、私も頬が緩む。

私たちの目の前に迫っているのは『死』という絶対的な恐怖。

誰もが恐れるべきである、人類にとって最も悲惨な出来事の一つ。

ただ、不思議と今の私には、それが一切怖くなかった。

むしろ、どこか安心感にも似た感覚が残っていた。

きっと私の心に、恐怖なんていうくだらないものは微塵も存在していないのだろう。

あるのはたった一つ、彼女を愛おしむ気持ちだけなのだ。

「じゃあ、行きましょうか」

そう言って、彼女が右手を差し出す。

少し震えているそれを、私は強く握り返して

「はい」

と一言だけ言って頷いた。

二人の手を固く結んでから、ゆっくりと海へ入っていく。

陸とは反対の方向に、一歩ずつ、踏みしめるように歩いていく。

冷たい海に体温を奪われていって、だんだんと息が荒くなってくる。

彼女の方を見てみると、私と同様に息が荒くなっていた。

その光景にどこかしらの安心感を感じながら、何度も何度も足を前へと運ぶ。

だんだんと海が深くなっていく。それでも、私たちの足が止まることはない。

例え歩みが遅くなったとしても、決して引き返さないで、二人で暗く冷たい海へと消えていく。

やがて体のほとんどが浸かった私たちは抱き合いながら、冷たい海の底に寝そべった。

暗くて、冷たく、苦しい。

だけど、隣に彼女がいることは、私にとって、何よりも幸せだった。

遠くなる意識の中、二人で強く抱き絞め合いながら、濃厚なキスをする。

私の初めてで、そして最後になるキスの味は、少しだけしょっぱかった。

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堕ちて、落ちた Aoi人 @myonkyouzyu

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