妻、不在につき。
17時30分を告げるタイマーの振動が机越しに伝わってくる。
あ~、今日も集中できたなあ。
集中し過ぎて、危うく一週間後に予期せず降りかかる可能性のある仕事の準備まで済ませてしまった。どうしよう、有能過ぎて普通の生活が
今から帰宅するとメッセージアプリで妻に連絡を入れる。
いつもはすぐに返信が来るのだが、珍しく15分程経過しても
手の離せない用事でもあるのだろう。
早めにやゆこを迎えに行ってくれているのかもしれないし。
車窓から眺める景色。
夕暮れに染まる町は、今日もまだ
帰宅ラッシュに揺られる車内の人々も。
これから残業で頑張る人々も。
それぞれにかけがえのない生活があって、一度きりの今日を過ごしている。
一人の国民として普通に暮らしたい。俺の昔からの願いだ。
ただそれは、多くの人々が同じように願っていることかもしれない。
超人としての仕事は、俺の普通を容赦なく削り取る。
その代わりに、多くの人々の普通で、それでいて平和で、豊かな日常を守ることができる。
正直、世界のことなど二の次だ。
でも、俺にとっては守りたい世界だ。
最初にそう思わせてくれたのは――他ならぬ俺の妻、
彼女との出会いが無ければ、今の俺は無い。
感傷に浸っていると、自宅の最寄り駅まで到着した。
徒歩で自宅まで帰り着く。
――続きは、今夜ね。
家を出る間際の、来夏の言葉を思い出して心臓がドキドキしている。
「ただいま~」
扉を開けるも、人の気配は無い。
来夏はやゆこの迎えに行っているのだろうか?
忙しくて連絡する暇も無かったのかもしれないし、俺への連絡をうっかり忘れているのかもしれない。
いつも細やかに連絡してくれているというだけで、俺たちの間に連絡の取り決めがあるわけではない。
だから特段気に病む必要も無いはずだった。
とりあえず仕事着を脱ぐか、と背広をハンガーに掛けようとしたその時。
「はい、
電話は、やゆこの通う幼稚園からだった。
「延長保育、ですか? いえ、妻からは特に何も」
迎えに来ないので、延長保育を希望するかどうかの案内だった。
今までこんなことがあっただろうか?
いよいよ、うっすらと忍び寄る不安の輪郭が浮かび上がってきた。
やゆこをタクシーで迎えに行き、ひとまず家まで帰ってきた。
「おかーさん、どこにいったの?」
「どこに行ったんだろうなあ」
「おとーさんもしらないの?」
「そうなんだよ。もしかすると、かくれんぼでもしているのかもしれない」
本当にかくれんぼだったら、どれほど良いことだろう。
内心は張り詰めていたが、やゆこを不安にさせたくはない。
妻の携帯に電話しても出ず、職場に連絡したところいつも通り17時には退勤したとのこと。
何かあったことは間違いない。
「お父さん、なんだかさびしいね」
「そうだね……」
既に19時半。リビングにいつもの夕食は無い。
妻の作る料理の無い夜はこんなにも寂しい。
「でも、やゆこはおゆうはんたべなくてもへいきだよ!」
「やゆこ……」
お腹が空いたくらい言っても良いのに、俺を気遣ってくれているのだろう。
こんな時でも天使だな。
まったく、誰に似たんだか。
「お父さん、すぐにお母さんを見つけるからな」
と、スマートフォンのベルが鳴る。
液晶には妻の名前が表示されていた。
「来夏、無事か!?」
通話ボタンを押して即確認する。
「来夏、来夏なんだろ?」
応答がない。
『帳仁だな』
聞こえてきたのは加工されたと思われる、電子的な声。
「……誰だ?」
『質問に質問で返すな』
んー、んーと電話の向こうでもがくような声がする。まぎれもなく妻の声だった。
今まさに苦しめられている妻を想像し、頭が爆発しそうだ。
「……確かに、帳仁だ」
『そうだ、それでいい』
まずはおとなしく言うことを聞くしかないだろう。
『いいか。今から言うことを良く聞け』
「ああ、分かった」
『ひとつめ。今回の件にあたって、能力を使ったら女の命は無い』
「……!」
能力使用制限。その要求はつまるところ、俺が超人であることを知っていることを示す。
政府の役人と妻以外は知らないはずだ。
「分かった」
俺が能力を使った場合、それを感知する方法があるのかもしれない。
この世界には未知なる能力を持つ人間がいる。
俺という存在が何よりの証拠だ。
来夏の無事のためにも。この場では了承するしかない。
『ふたつめ。今から言う場所に娘とふたりで来い』
やゆこも連れて行くことは、家に残しているとかえって危険なので好都合だ。
「分かった」
プツリと通話が切れる。
これがピンチってやつか。超人には縁のない言葉だと思っていたが。
すぐさまタクシーを呼び、出発の準備を整える。
神様ってやつは役に立たないだろう。
超人の俺としては祈ったことは無い。
祈る必要などないからだ。
だが、本当に居るのだとしたら。
お願いします、来夏を守っていてください。
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