第5話 寂しげな教壇
近藤は小さく溜息をついた。
「長久手、お前には『二人の真意を確かめたい』そう依頼したつもりだが?」
「あ、あの黒瓶の中身!あれは嗅覚を奪う薬品ではないんですか!?」
テリーは芝生の上に転がる黒瓶を指さした。
「あれか?暗知の事務所に忘れた時に、中身を調べなかったのか」
近藤はテリーに蹴り飛ばされた黒瓶を拾い、鈴木に手渡した。
「こいつを嗅いでみろ、鈴木。試験問題だ」
「‥‥『試験問題』ですって?」
鈴木は手を伸ばしかけた。
「ちょっと待って下さい!」
テリーは近藤から黒瓶を奪い取ると、中の匂いを嗅いだ。
「無臭‥‥すり替えた黒瓶の中身と同じもの、ですかね?」
テリーは暗知に渡した。
「うーん、さっぱり何なのかわからないな」
危険では無いのが分かると、暗知は鈴木へ黒瓶を手渡した。
「『クンクンッ』‥‥メントールで鼻が利かないです、一口いいですか?」
鈴木は鼻をすすると、近藤を見た。
「仕方ない、一口だけだぞ?」
「グジュ、ズルルル、ゴクンッ スーッ」
鈴木は口内に残る、わずかな香りを吸い込んだ。
「‥‥インドネシア産 マンデリン」
「どれだけ薄めているかまでは定かではないですが、すごく薄められています」
鈴木は黒瓶を近藤へ返した。
「見事だ。試験ではこれをマスクに湿らせたものが出題されるだろう。鈴木家元服の儀式だ」
近藤は鈴木の左肩を叩いた。
「試験って、まさか」
テリーは近藤が手に持つ黒瓶に目を移した。
「20数年間、ずっとこれが試験問題だ。候補者当人の頑張りが認められると、鈴木家の穏健派が試験アドバイザーを派遣する。それが今回は私だったという事だ。役目は果たしたぞ」
安堵のせいか、近藤の顔から自然と笑みが溢れていた。
「何も顔にかけなくても‥‥」
鈴木はタオルで頭を拭いていた。
「すまんな!まぁお前も親父になったら、私の気持ちがわかるさ!」
2人のやり取りを見て、テリーは思わず地面に膝をついた。
「そんな、事情があったなんて‥‥」
「早まったな、すまない二郎‥‥」
暗知は倒れていた自転車を転がしてきた。
「依頼したからには計画の全てを話すべきだったが、言えなかった。しかし、ここまで調べられているとはな‥‥授業もそれくらい率先して取り組んでくれよ!」
そう笑い飛ばすと、近藤はテリーに拍手を送った。
「ボクにも優れた嗅覚があればな‥‥」
テリーは計画中止を企てた理由を近藤に説明した。
『鈴木家を追われた近藤先生は鈴木君の嗅覚を奪い、試験に失敗させ、自分と同じ道を課そうとした』
「この仮説は鈴木君から家の内情を聞き、考えついたものです。近藤先生が凶器である液体を鈴木君に使用した時点で、ボクは説が正しいと判断しました」
「なぜなら、近藤先生は《二人の真意》がわかれば良かったはず。凶器を使う必要性は無い、使う理由があるとしたら‥‥自分を追い出した鈴木家への復讐だと‥‥」
テリーはゆっくり立ち上がると、膝についた砂利を手で払った。
「なるほど、深読みしすぎだな。確かに私は鈴木家を追い出された。だが、それは当然の報いだった。大切な家族と、家の威信を傷つけてしまったのだからな」
「恨みは無いんですか‥‥?」
鈴木は一歩踏み出し、近藤に質問をした。
「あぁ、十分楽しませてもらったさ。そんな事より、私が17の頃と比べて『家のしきたり』は薄れてしまったようだな」
そう言うと、近藤は溜息をついた。
「それは、一体‥‥」
鈴木と美奈子が口を合わせた。
「『守秘義務だ』嗅覚の事も鈴木家の内情も、外部の人間に口外してはならんという『しきたり』だ!‥‥ばかもん!」
近藤は鈴木をしばらく叱りつけた後は、激励の言葉を掛けていた。
美奈子は父である近藤に掛ける言葉もなく立ちすくんでいる。近藤は目を伏せながらも美奈子の肩を優しく叩くと、後を振り返った。
「さて、暗知!今夜は付き合ってもらうぞ!」
暗知は近藤の笑顔の裏側を読み取った。
「よし、軽く行こうか!」
二人は日が傾き始めた並木通りから、そそくさと去っていった。
緊張の糸が切れたのか、鈴木と美奈子はその場に座り込んでいる。テリーは少しだけ二人と語らうことにした。
‥‥‥‥
‥‥‥
‥‥‥キーン コーン カーン コーン‥‥
翌朝。汐見高校は登校時間を迎えていた。
いつもと変わらぬ風景だ。
「おはようテリー!昨日の結果詳しく聞かせてよ!」
夏菜子は教室に入ると、跳ねながらテリーの元にやってきた。
「ごめん、話せない『訳』があってね‥‥でも、約束通りダブルパンケーキ奢るよ!」
テリーは読んでいた本を閉じると、頬を膨らませている夏菜子をなだめた。
「おはよう、長久手」
朝練後の鈴木がやってきた。
「おはよ~」
テリーは気だるそうな鼻声で返事を返した。
「まさかその洗濯バサミがコンプレックス対策だとは知らなかったな、そもそも効果あるのか?」
鈴木は苦笑いした。
「『石の上にも三年』と思ってたけど‥‥」
テリーは鼻に付けた洗濯バサミを取り外し、小さくくしゃみをした。
「まさか洗濯バサミをつけてたら因縁つけられると思ってなかったし、これはもう辞めにするよ」
そう言うと洗濯バサミをバッグにしまった。
「悪かった、おれももう教室には持って来ないようにするよ」
鈴木は数種類のチーズを好んで朝練後に食べていた。栄養補給と共に、嗅覚を鍛える時にも使っており、机中に置いていた。
テリーが毎朝鼻を摘んでいる姿を見て『チーズの臭いで迷惑をかけているのではないか?』と勘違いしていたらしい。
「おはよう!鈴木、またシャツが出てるよ!」
美奈子は世話焼きな性格を鈴木家の保守派から心配されていた。
野球と嗅覚鍛錬に忙しい彼に、やたらと絡まない方が良いと忠告されていたようだ。
「ふーん、上手くいったんだねテリー!」
美奈子と鈴木が話す様を見て、夏菜子はテリーの肩を肘で突いた。
近藤は学校から突然消えた。
今朝、職員が近藤のデスクに置かれた辞表を見つけたようだ。
美奈子に実父であることを告白し、鈴木に娘を託した。自分はこのまま学校に残ってはいけない、と判断したのだろう。
近藤の思うままに計画が成功していたら、彼は正体を明かさず、試験アドバイザーの役目を終えたかもしれない。
今日も教壇に立っていたのかもしれない。
そう考えるとテリーは胸が苦しくなった。
あっという間に、この日の授業は終わった。
テリーは帰り支度を済ませると、夏菜子と昇降口(下駄箱)へ向かった。
「今日も平穏な1日だったねー」
夏菜子は引っ張られるように体を伸ばした。
「そうだね。昨日は感覚の鈍さに気がついた一日だったよ、久しぶりに運動して帰るね」
テリーは運動靴に履き替えた。
「ふ〜ん、じゃあ私はカラオケにでも行ってきまーす!」
夏菜子は遠くに見える友人の輪を目掛けて走り出した。
テリーは校門を出ると、前方から暗知が自転車を押して来るが見えた。
「暗知さん、どうしたんですか?」
「昨日、学校から借りた自転車を返しに来たんだよ。丁度よかった、これ臨時給与」
暗知は籠に乗せていたブリーフケースから茶封筒を取り出すと、テリーに差し出したわ。
「お金はいいです。この前のトイレ修理費用でチャラにしましょう」
テリーはバッグからテキストを取り出した。
「そうか、じゃあこれは預かっておくよ」
暗知は茶封筒をジャケットの内ポケットに入れた。
「近藤先生の問題、難しかったです。二人の真意を確かめ、鈴木君に試験アドバイスをする為の計画だったとは‥‥そんな人物の心情なんて、読めませんよね」
テリーは近藤の授業を思い出すように、現代文のテキストをパラパラとめくって見せた。
「ははは!実は昨日、二郎と飲みに行ったんだけど、理恵ちゃんに感心してたよ。《想像力が豊かだ》ってね」
暗知はテリーの肩に手を置くと、街路樹を見上げた。
「臨時収入も得たし、『竜司』にも報告しておいたよ。未だに返信が無いけど、きっと忙しいんだろうな~‥‥ははっ!」
テリーの父『竜司』は外国で探偵業を営んでいる。訴訟社会での業務は大忙しのようだ。
テリーは暗知などの第三者を通して、父と連絡を取っていた。《直接、連絡は取らないこと》それが幼い頃、父と交わした《一つ目の約束》だった。
10年前に竜司が日本を発ってから、父の職業を知り、探偵業に興味を持った。
友人である暗知と接点を持つ事ができたのは、テリーにとって不幸中の幸いだった。
「いつか、また父さんに会えるんですかね?」
テリーは暗知の横顔を見上げた。
暗知はピタッと笑うのを辞めた。
「そうだねー、もう10年経つか」
「‥‥まぁ良いです!なんだかんだ充実してますし!今日は久々に道場に行ってきます。昨日の一件で心身が弛んでいるのがわかったので」
テリーは屈伸運動を始めた。
「東堂の所かい?今日は暑いし、よかったらこれ使ってよ」
暗知はスラックスのポケットから財布を出そうとした。
「これから汗をかきにいくのに、楽してどうするんですか。走りまーーす!」
テリーは暗知に手を振ると、緩やかに走り出した。
いつもより暑い日の昼下がり。
テリーは時折り力強く前へ足を踏み出し、道場へ向かって走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます