第二章 第47話 歳末小景4 ―和馬と莉緖と……―


「さ、遠慮しないで食べてくれ」


 黒瀬くろせ和馬かずまの前に、どんぶりがドンと置かれた。

 続いて犬養いぬかい莉緒りおの前に、そして八乙女やおとめみどりの前に。

 最後に八乙女征志郎せいしろうは、自分の席にも年越しそばの入った丼を置いた。


「それじゃあお言葉に甘えて……いただきまーす!」

「いただきます」

「いただきます」


 蕎麦そばをすする音が響き始める。

 ここは、N津市のとある場所にある町中華「八龍はちりゅう」。

 あと三十分ほどで、年が変わろうという時刻。

 近所の寺から響く除夜の鐘の音が、遠くに聞こえる。


「改めて今年は本当に、黒瀬さんには世話になったよ」

「そうよね。本当にありがとう、黒瀬さん」

「いやもういいですってば」


 八乙女夫妻が今日何度目かの頭を下げるのに、和馬は困りきって手を振った。

 征志郎が言うのはもちろん、犬養宗久むねひさの企み――莉緒を我がものにする――のために危機におちいった八龍と莉緖自身を、和馬が義兄である黒瀬白人はくとの力を借りて救い、解決したことを指す。


「何度もいいますけれど実際のところ、オレ自身はなーんにもしてないんですから」

「そんなことはないじゃないか」


 征志郎がごまあぶらとニンニクのぽりぽりきゅうりをつまみながら答える。

 酒のたぐいこそないが、テーブルの上には町中華らしくさまざまなおつまみがところせましと並んでいる。

 つまみ用ネギチャーシュー、豚しゃぶと揚げ茄子の香味だれがけ、よだれ鶏のサラダ、エビとアスパラの中華風炒め、ちくわと明太チーズの春巻き等々。

 四人で食べきれるかどうか、少し怪しいほどの量である。


「だってオレがしたことと言えば、『何とかしてくださいお願いします』って頼んだだけなんですから」

「わたしらじゃ、そもそもその頼む相手がいないわけだし」

「それにな、助けられた俺らが言うことじゃないが、他人ひとのために頭を下げて頼みごとをするなんて、なかなか出来ることじゃないぞ」

「本当です……」


 ここまで言葉少なだった莉緒が立ち上がり、真剣な顔で言う。


「わたしだけだったら、今頃どうなっていたか分かりません。黒瀬さん、何度お礼を言っても言い足りないんです。本当にありがとうございました」


 そうして、深々と頭を下げる。


「ホントにもうやめましょうよ。きりがないしオレもこそばゆくて仕方ないんですよ。それにこうしてお疲れ様会にもタダで参加させていただいてるんだし、逆にこっちが恐縮しちゃうくらいなんですって」

「はい……」


 そう言うと、莉緒は再び椅子に腰かけた。


「それにしても、こうまでぴたっと嫌がらせがやんじまうなんて、黒瀬さんの――えーっとお義兄にいさんだっけ? すごい人なんだな」

「まあそこんところはオレも同感です。結婚前は真白ましろさんの実家がこんなにすごいところだなんて全く知りませんでしたから」

「そうなのかい?」

「ええ。結婚の挨拶で初めて行った時なんて、めちゃめちゃビビりましたよ。まず外側の長いへいと門構えを見ただけで帰りたくなりました、マジで」


 和馬は頼れる義兄あにの顔を思い浮かべた。

 八乙女家のことを頼みに行った後、黒瀬白人はくとからはたった一度だけ「どう? 状況は改善したかい?」と電話があっただけ。

 それからは特に何の連絡もない。

 改めて礼に伺いたいと言っても、無用だと笑って固辞されるだけだった。


 しかし――――和馬は忘れていない。

 白人から「覚悟」を問われたことを。

 あの時和馬は、どんなことでもしようと決意したのだ。

 今は何もなくても、いつか白人から言われれば、全てを捨てる覚悟を。


 和馬が胸中でそんなほの暗い決意を新たにしていると、ふいに入り口のドアが叩かれる音がした。


「何だぁ? 一体誰だ」


 現在、町中華「八龍」は大晦日の今日から正月三が日までの四日間、年末年始休業中である。

 もちろん、表にはその旨の張り紙もしてあるはずなのだが。

 しかもこんな夜更けに訪れる客に、八乙女夫妻は全く心当たりがない。

 みどりがやれやれと腰を上げ、入口へと向かう。

 残る三人はその様子をじっと眺めた。


「はいはい、どちらさまでしょうか――――――あっ!」

「おい、誰なんだ一体」


 声を出したまま立ちすくんでいる妻を見て席を立った征志郎の表情は、入り口の向こうに立つ人影を見て、驚愕きょうがくに染まった。


「お前は……京介きょうすけ

「よう、久しぶり。親父にお袋」

「京介って……もしかして」


 つぶやく莉緒に、和馬が尋ねた。


「誰なんです? 親父とかお袋とか言ってますけど……」

「多分、涼介りょうすけさんの弟さんです。お会いしたことはないのですが、以前涼介さんが弟さんが一人いると話してくれたことがありました」

「へえ……弟なんていたんだ、先輩。初耳だなあ」

「何だい、忘年会でもやってたのか?」

「お、おい」


 京介と呼ばれた男が静かに店内に入ってきた。

 莉緒と和馬は思わず立ち上がる。


「あ、あの、初めまして。わたし、こちらのお店でお世話になってる犬養いぬかい莉緒りおと申します」

「えーと、オレは八乙女――涼介さんの後輩で、黒瀬くろせ和馬かずまです」

「これはご丁寧に。私は兄貴――涼介の弟で八乙女京介きょうすけと言います。どうぞよろしく」


 男は柔和にゅうわに微笑んで挨拶を返した。

 しかし和馬は、彼の眼を見るなり背骨に氷を詰め込まれたような気がした。

 肩が勝手にぶるりと震える。


 実は、黒瀬和馬には血の気の多いところがある。

 中学から高校の始めの頃まではエネルギーの発散の仕方がよく分からずやんちゃを重ね、何度か補導されることもあった。

 改心?してからは血の気の多さを何とか封印して学業に励み大学に進学し、卒業後に今の職に就いたというわけである。

 しかし、人間の本質と言うものはなかなか変わらないもので、黒瀬真白と交際することになった切っ掛けも、彼の血の気の多さが発揮されてしまったことにあった。


 そんな和馬をして思わず後退あとずさりさせるような何かを、眼前の男は放っていたのだった。

 和馬の様子を見て、京介がわずかに目を細める。

 そこに征志郎とみどりがとんできた。


「京介、一体今日まで何してたの?」

「別にお前を勘当した覚えはないが、もう――――十年以上何の音沙汰もなかったお前が、今頃一体何の用事で来たんだ?」


 矢継ぎ早に問う両親を、京介は手振りで抑える。


「まあ何の連絡もしなかったのは俺も悪かったが、ここは一応実家だろ? 実家に息子が帰って来ちゃまずいのか?」

「そういうわけじゃねえが……」

「俺だってもう帰らないつもりでいたさ。ただ……もしかしたら今生こんじょうの別れになるかも知れないんで、最後に顔を見に来たんだよ」

「こっ、今生の!?」

「最後に!?」


 声をそろえて驚く八乙女夫妻。

 莉緒と和馬は、ただ茫然と見ていることしか出来ない。


「そういうことなんで、お客さんもいるようだしこれで失礼するよ。親父、お袋――――達者で生きてくれよ」


 八乙女京介はそう言うと、入ってきた時と同様の静けさで入り口から出て行った。

 あとに残された四人はしばらく黙ったまま、店内には沈黙のとばりが下りていた。

 ただ、除夜の鐘の音だけが変わらず遠くで響いていた。

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