第二章 五月雨
第5話 曇天の美術館
体育祭と中間テストを終え、5月の下旬になっていた。桜は時々、教室で天川君と話していて、掴みどころのない不安は、まだ私の心をさまよっていた。
そんな中で進めた私の桜の水彩画は、少し暗い色合いになっていた。最後に河川敷の砂利の色を塗って、私の絵は完成した。みずみずしい空の下で、暗い桜が並んでいた。芝生の草は小筆で細かく描いた。
思わず、自分でも「良いな…」と思ってしまうほどの出来栄えだった。私は、自分の実力以上の力が出たような気がしていた。
自分の絵が終わった私は、隣の桜の絵を見てみた。色が濃く、力強い自然の景色の中で、透き通る綺麗な水が流れて、激しく跳ねていた。思わず、魅入ってしまった。まるで、凛々しくて、悲しいほどまっすぐで、純粋で、強い心を持っている、桜のような作品だと思った。
作品を見つめる私を気になった桜は
「千雪は終わったの?」
と尋ねた。
「うん、終わった。我ながらいい感じだよ」
「ほぉ。どれどれ」
桜は私の絵を手に取って、しばらく眺めていた。その間、私は変に緊張して、気まずかった。
時間が流れるにつれ、恥ずかしくなってきた。
「私、この桜…好きだな」
と桜は呟いた。その顔は、故郷を懐かしむような、なんとも言えない表情だった。
「え、ほんと?嬉しい…」
「なんでだろう。この桜は、すごく好き」
この桜の絵は、まだ実家の私の部屋に飾られている。両親もこの絵を見て「いい絵だね」と言っていた。
部活動の終了時刻を知らせるチャイムが鳴って、西島先生が黒板の前に立った。
「明日は土曜日ですが、予定表にもある通り美術館に行きます。美術館に、十時に現地集合になります。当日欠席する場合や、移動する途中何かトラブルがあった場合は私の携帯に電話をかけてください。まぁ、こんなところです。私からは以上です」
と言って、黒板の前からはけると、松井部長が黒板の前に出てきた。
「体育祭もテストも終わったので、のびのびと作品を鑑賞しましょう。あと、当たり前ですが、美術館ではうるさくしないようにしてください。美術館まではみんなで行動しますが、入ってからは自由になります。では、今日の部活は終わります。お疲れ様でした」
「「お疲れ様でした」」
挨拶を終えるなり、皆ガタガタと席を立ち、美術室から出ていった。
私と桜も、美術室を出て、昇降口に向かった。
「桜は美術館とか行く?」
「行かないなぁ。千雪は?」
「私も全然。鑑賞って、どう楽しめばいいのかあんまりわかんないや」
「なんか、難しそうだよね。まぁ、気楽に楽しめばいいのかな」
「うん、そうしよう」
廊下から見た校庭では、サッカー部が道具を片付けていた。その中に、天川君もいた。一生懸命に、片付けに励んでいた。風紀委員らしい、凛とした振る舞いだった。
翌日、私は桜と乗り換えの駅で待ち合わせをしてから、一緒に美術館に行くことにしていた。空は灰色の雲に埋め尽くされていて、陰鬱な曇天だった。
私の心も、どこか憂鬱だった。平日、駅はいつも人が溢れていたが、休日の朝は、結構人が少なかった。一緒に乗ろうとしていた電車が出る三分前に、私はホームに着いた。
「おはよう桜」
「おはよ。結構ギリギリだったね。遅刻するんじゃないかと思ったよ」
「お母さんに起こしてって言うの忘れてて…」
「あぁ、今日土曜だもんね」
「そうそう」
話しているうちに、私達が乗る電車がやってきた。
電車に揺られること三十分、私達が行く美術館の最寄り駅に着いた。私は出かけることが少なかった上に、出かけるとしても決まった所しか行かなかったので、いつもと違うところに行くのは心が踊った。
東京の駅は、想像していたよりも大きくて、目眩がしそうだった。綺麗で、近代的なデザインも、私には衝撃だった。駅から五分くらい歩いて、美術館に到着した。ガラス張りの、綺麗な美術館だった。入口の横にある広場に、美術部員は集まっていた。
美術館は豊かな緑に囲まれていた。雲と一緒に木が私を覆っているような気がして、閉塞感が、苦しかった。いつもなら、こんな風には思わないはずなのに。掴みどころのない不安が、私の心を抑えつけていた。
そんな私とは対照的に、桜は目を輝かせて美術館を眺めていて、声を漏らしていた。
「ねぇ、美術館綺麗だね」
「うん、晴れた日に見たかったな」
西島先生が、部員一人一人にチケットを配り
「十二時にここに集合して帰ります。時間に気をつけて美術館をまわってください。はい、では行きましょう」
と言うと、ぞろぞろと私達は美術館に入っていった。ちょうど、美術館が開館した10時頃だった。
「おぉ…」
美術館に入るなり、思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。長い廊下の白い壁に、大きな絵画がずらりと並んでいた。
私と桜は、近いところにいながら、お互い喋らずに絵画を見ながら歩いた。写真越しで見たときと違って、実際に目で見てみると絵の迫力は凄まじかった。絵に込められた描いた人の魂といおうか、何か絵に生命力を感じるのであった。「いずれ、私もこんな絵を描いてみたい」と、その時思った。
廊下を曲がると、広い展示室があった。ここも真っ白な壁に、作品が展示されていた。壁に沿って、ゆっくりと、作品を見ながら歩いた。私は、ある絵の前で、ふと足を止めた。
思わず、その絵に、釘付けになった。その絵は、黒髪の女性と、金髪の女性が、見つめ合い、抱き合っていた。交わる視線に込められた思いは、友愛なのか、性愛なのか、親愛なのか。そんなものは愚問だった。二人は、愛し合っていた。
美術館を出ると、外は騒々しかった。激しい雨が、どしゃどしゃと降りしきっていた。じめじめと湿った匂いが、辺りに漂っていた。
朝、慌てて来た私は傘を持っていなかった。生徒は、入口から伸びる屋根の下に集まっていた。桜を見つけて、私は桜の隣に行った。
「全員揃ったようなので、これから駅に行きます。傘をさして歩くので、横に広がって他の人の邪魔にならないようにしてください」
と言って、先生は歩き出した。部員は、傘をさして、先生について行った。みんな、傘を持っているようだった。私はずっと、「どうしよう」と悩んでいた。
桜は私の顔を見て
「もしかして千雪、傘忘れた?」
「うん…」
「よし、じゃあ入れてあげよう」
と、桜はぱっと笑った。陰気な天気を吹き飛ばしてしまうような、そんな笑顔だった。
「ありがとう桜…」
「気にしないでいいよ」
私は桜の傘に入って、肩をくっつけながら、雨の道を歩いた。触れ合う肩から、桜の温もりが伝わってきた。
「朝、美術部のLINEに『傘を持ってくるように』って、先生から言われてたんだよ」
「あぁ…全然見てなかった」
「だよね。………千雪、何か悩みでもあるの?」
と、桜は私の顔を覗いていた。私は、ぎょっとした。全身の毛穴が広がって、冷や汗が出るのを感じた。
「ある…けど…」
嘘は、つけなかった
「言いにくい感じ?」
「…うん」
「そっか。言いたくなったら言いなよ」
「うん、ありがとう、桜」
桜の暖かい優しさが、痛かった。私の、掴みどころのない不安を、桜には言えなかった。男友達と話している桜について悩んでるなんて、恥ずかしくて、情けなくて、言えなかった。
緊張からなのか、罪悪感からなのか、心臓の音が、うるさかった。本当に、私のこの気持ちはなんなんだろう。もちろん、桜は好きだ。でも、それは人としての尊敬なのか、友達としての友愛なのか、はたまた、恋愛なのか。答えの出ない問が、私の頭の中をぐるぐると回っていた。
肩が触れ合う時の高揚感、桜が他の友達と話していた時の寂しさや嫉妬。その正体が、掴めそうで、掴めない。雨の音が、
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