第2話 夕日の桜
次の日、一時間目は一人ずつその場で立って自己紹介をする時間だった。私は自己紹介が苦手だった。多くの人の視線が自分に向いているあの圧に、
自己紹介は、出席番号順にしていった。自分の番に近づいてくるにつれて、心臓の鼓動が速くなった。冷や汗が、じわりじわりと滲み出ていた。
気づけば、前の席の人が立ち上がり、自己紹介をしていた。次は、私の番だった。私は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。前の人の自己紹介が終わり、拍手が起こった。そして、前の人は席に着いた。
私は、立ち上がった。
その瞬間、周りの視線は一斉に私に向けられて、その重圧が息苦しかった。
「…富士見第二中学校から来ました。雪枝千雪です。中学のときは…美術部に入っていました。よろしくお願いします」
声が震えないように、必死に抑えたけれど、少し声は震えてしまった。きっと、耳は真っ赤に染まっているだろうと思った。恥ずかしがっているのが、周りに分かってしまうというのが、何よりも恥ずかしがった。
私はすぐに席に座った。周りが拍手をしている時間が、苦しかった。
「はい、みなさんありがとうございました」
と言って、平田先生は自己紹介を始めた。平田先生が自己紹介をしている間も、私の体は火照っていた。
その日以降は通常授業となり、学校は半日ではなくなってしまった。春休みを満喫していた私は、一日中、学校があることがなんだかとても面倒くさいように感じた。けれど、何日か経てばすぐに慣れた。
どの教科も、最初の授業はどういうふうに授業を進めていくかとか、成績の評価の基準とかを話すだけで、まだ授業らしい授業はなかった。
入学から一週間くらい経ったある日、私はまだ、自分の席で、一人で弁当を食べていた。クラスでは、ぽつぽつとグループができ始めていて、四人ぐらいで食べてる人もいたが、まだ一人で食べてる人も少なくなかった。
気になっていたあの女の子も、そうだった。
もうその頃には彼女の名前を知っていた。彼女の名前は「
私は弁当を食べながら、彼女を眺めていた。一人で弁当を食べていた彼女からは、不思議と寂しさを感じなかった。私は勝手に、彼女に少し親近感を抱いていた。
この日から、仮入部が始まった。高校では何部に入ろうとかは特に決めていなかったが、新しいことを始めようという気概もなかったため、結局、中学と同じように美術部に入ろうと思っていた。
私は、絵を描くのが好きというよりは、美術部という空間が好きだった。私と似たような人が集まっていて、心地よかった。そして、みんなが絵に集中しているときの静かな時間も、好きだった。
帰りのHRが終わり、私が荷物をまとめていたら、肩を指で優しくつつかれた。
顔を上げると、そこには春川桜がいた。
思わず、彼女の綺麗な瞳に魅入られて、息をのんだ。
「中学…美術部だったんだよね?」
「…うん」
「高校でも美術部に入る?」
「うん、そのつもり」
「じゃあさ、一緒に仮入部行かない?」
「あっ、うん。行こう行こうっ」
「良かったぁ。一人だと不安だったから…」
そう言って、彼女は笑った。向日葵のように、優しくて、明るくて、純粋な笑顔だった。彼女の笑顔は、誰よりも素敵な笑顔だったと思う。なにか、人を惹きつける不思議な力のある笑顔だった。
一人で弁当を食べる彼女の姿を見て、大人しい人だと思っていたが、話す姿はとても明るかった。
私は、彼女に声をかけてもらって、とても嬉しかった。今までに感じたことのない高揚感が、ふつふつと湧いてきていた。
「私も、一人で行くの不安だったから嬉しい。ありがとう…誘ってくれて」
「うんうん全然。じゃあ行こっか」
私は立ち上がって、リュックを背負った。そして、桜と一緒に教室を出た。
「美術室って、あっちであってるよね?」
と、彼女は右を指さした。
「うん、あってるよ」
私は入学式の日に配られた校内地図で、事前に場所を確認していた。美術室は、教室と同じ三階の、廊下の突き当たりにあった。一年一組の教室から、廊下の奥は少し距離があった。
廊下を歩いてる途中、沈黙が少し気まずくて、私から話をした。
「春川さんも、美術部にはいるの?」
「うん。昔から、絵が好きなの」
少し、意外だった。明るい彼女は、運動部に入るのだとばかり思っていた。
彼女と同じ部活に入ると思うと、私は心の底から嬉しい気持ちが込み上げてきた。少しでも、近づける。少しでも、一緒にいれる。その事が、何よりも嬉しかった。
「そうなんだ。同じクラスに美術部に入りたい人がいて…安心した」
「私も。部活もクラスも一緒の人がいるって、なんか安心するよね」
「そうそう。部活の予定と、クラスの予定が一緒だから、色々確認できる」
「特に入学したてだと、確認しないと不安だもんね。…あ、あれだ」
と言って、彼女は廊下の突き当たりを指さしていた。もう美術室はすぐそこだった。美術室と書かれた札が、扉の上にあった。
「よし、行こう」
と、彼女が笑って私に言うと、私の手をひいて美術室に向かった。
扉には、「入部歓迎!!」と大きく書かれた下に部活の概要が書いてあるポスターが貼られていた。イラストが所々に描いてあって、美術部らしいポスターだった。
彼女が扉を開け、私達は美術室に入った。
美術部の仮入部には、十人くらいが来ていた。女子が多くて、男子は二、三人だった。美術室で活動している美術部の二、三年生の人達も、女子が大半だった。美術部の部長が、仮入部に来た一年生に向けて、活動内容や活動日について説明していた。
美術部の活動は、水曜日を除く平日に行い、稀に、土日に美術館などに行ったりするとのことだった。部長の説明の後、その日は簡単なデッサンをして、仮入部は終わった。
美術室を出て、昇降口に向かう途中、彼女は私に話しかけてくれた。
「雪枝さんって、電車で学校来てるの?」
「うん、電車。春川さんも電車?」
「そうそう。電車は上り?それとも下り?」
「私は下りだよ」
「そっかぁ。私は上りなんだよね。じゃあ駅まで一緒に帰ろっか」
「うん」
「あとさ、もう下の名前で呼びあわない?苗字にさん付けは、もう変な感じがする」
「たしかに。私は、
「うん、桜だよ。千雪、これからよろしくね」
「こちらこそよろしく、桜」
私は、大抵受け身だった。声をかけるのも、一緒に帰る誘いも、名前で呼び合うことも、桜からだった。最初の一歩を踏み出すのが怖くて、いつも躊躇してしまうのだ。
私は、臆病なのだ。その臆病さが、私の人生に、大きな、深い傷跡を残すことになった。
校舎を出ると、もう日は沈んでいて、空は燃えるようなオレンジに染まっていた。夕日を浴びた雲は、逆光で、灰色だった。
河川敷を、桜と二人で歩いていた。私達の歩く方向に、夕日は沈んでいた。川は、夕日を反射して、ほんのりオレンジ色に染まっていた。
桜は花を散らしていて、生き生きとした若緑の葉が姿を現していた。桜並木からぱらぱらと桜の花びらが舞い、そっと地面に落ちていた。桜吹雪と言うには、少し弱々しい気がした。夕日を受けた桜並木は、
桜並木をみて、私はふと思った
「桜は、やっぱり桜に思い入れがあるの?」
桜は、突然立ち止まった。
私も、足を止めた。
「私は…桜が嫌いだな」
そう言って桜は、桜の木を見あげていた。その横顔は、淡い夕日で、照り映えていた。悲しいような、寂しいような、そんな表情だった。理由を聞くのは野暮な気がした私は、何を言えばいいのか分からなくて、黙っていた。
桜はこちらを向いて、尋ねた。
「千雪は、雪が好き?」
「…私も、雪が嫌い」
と、私は笑った。
「なんだか、おかしいね」
と言って、桜も笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます