第一章 春うらら

第1話 川の桜並木

 川に沿って、桜が咲き乱れていた。

 ずらりと並ぶ桜並木は、春の優しいそよ風で優雅に揺れていた。川辺には黄色い菜の花が明るく咲き、真っ白な紋白蝶が飛び交っていた。二匹の紋白蝶は菜の花の上でもつれ合い、踊っていた。この美しい景色を、私は今でも鮮明に覚えている。

 穏やかな春の温もりと、冬の名残の肌寒さが感じられるような天気だった。透き通るような水色の空が、どこまでも広がっていた。美しい鳥の歌声が、私の耳に透き通った。

 私は期待と不安を抱えながら、高校に向かって河川敷を歩いていた。河川敷は、高校とその最寄り駅の間にある通学路だった。リュックを握る手には、いつもより力が入っていて、少し手汗が滲み出ていた。砂利を踏む私の足音は、いつもより大きいように感じた。

 この日は入学式だった。中学校とは違い、高校には古くからの知り合いがいないため、人見知りの私は、馴染めるかどうか不安だった。

 向こう岸に私と同じ制服の人が歩いていて、私と同じように緊張しているようだった。その緊張が私にも伝わってきて、私はさらに緊張した。

 だんだんと、桜並木がとても荘厳なもののように感じられた。

 河川敷を抜け、アスファルトの道を歩くと、私の通う高校が見えてきた。周りには、私と同じ制服の人がたくさんいた。私はようやく、高校生になったという実感を得た。

 入念に確認していた自分の下駄箱の場所へと足早に行き、上履きに履き替えた。「こっちであってるよね……」と、不安な気持ちを抱えながら、私は三階の教室へと向かった。私は一年一組だった。

 学校はかなり年季が入っていて、壁と床には塗装の剥がれや傷があったが、綺麗に掃除はされていて、清潔だった。

 教室に入ると、皆静かに自分の席に座っていて、緊張感が漂っていた。黒板にある座席表を二、三回確認して、私は席に座った。

 私の苗字は雪枝で、出席番号は最後の三十八番だった。そのため、席は窓際の一番後ろだった。周りの席に知らない人ばかりの今の状況に、私は酷く緊張していた。その緊張を紛らわせようと、私はリュックから本を取りだし、本を読み始めた。

 しかし、緊張で本の内容は全然頭に入ってこなかった。本を読んでいるというよりは、字を眺めているといった感じだった。

「おはようございます」

 と陽気な声で先生が教室に入って、黒板の前に立ち、教室を見回していた。中年の、女性の先生だった。髪は後ろに結ばれていて、私と同じポニーテールだった。綺麗な人で、可愛いというより美人という言葉が似合う人だった。

「まだ来てない人は……いないね。はい、皆さんはじめはして。担任の平田です。えー、この一年間皆さんと一緒に過ごしていくことになります。私もこの学校に来て一年目なので、皆さんと同じようにこの学校のことをこれから知っていくことになります。なので、一緒にがんばっていきましょう」

 と言い、平田先生は笑顔を見せた。

 その笑顔には、中学の先生から感じた、虫唾が走るような胡散臭さがなかった。この人は、本当に誠実な人なんだろうと、私は思った。

 私は、埼玉県の公立高校に入った。そのため、先生の入れ替わりが定期的にあり、平田先生もその一人だったのだ。

 平田先生は、黒板に要点を書きながら話を進めた。

「えーっと、これから入学式になります。廊下に名前順で並んでから、体育館に移動します。出席番号一番から十八番までの人の列と、十九番から三十八番までの人の列の二列で移動します。それじゃ、早速廊下に並びましょう。はい、みんな立って」

 ガチャガチャという音を鳴らしながら、皆立ち上がった。私はなんとなく周りの様子を伺いながら立ち上がり、椅子をしまって、廊下に並んだ。他のクラスも廊下に並び始めていた。中学ではあんなに騒がしかった廊下は、嘘みたいに静まり返っていた。前の人に話しかけるような勇気がない私は、手持ち無沙汰で自分のクラスにはどんな人がいるんだろうと、後ろから眺めていた。

 そのとき、少し前にいる、色白で、髪型がボブの女の子が妙に気になった。背は私と同じぐらいであまり高くないのだが、優美というか、思わず魅入ってしまうような美しい立ち姿だったのだ。

 これが、私を呪う、私の恋の始まりだった。


 退屈な入学式を終えて、教室に戻った。それから、色々な配布物が配られて、先生は明日からの予定を話していた。

 その間、私はあのボブの女の子を眺めていた。座った姿勢もとても綺麗で、なんとなく、その子の方に自然と視線が動かされてしまうような、そんな魅力があった。

「はい、これで明日以降の予定は以上になります。えー、配布した学年だよりにも書いてあるので各自確認しておいて下さいね。それでは、今日はこの辺でおしまいです。気をつけて帰ってくださいね」

 話はいつの間に終わっていて、みんなが帰り支度をガサゴソとはじめた音で、私は我に返った。

 私は急いで配布物をクリアファイルに挟み、リュックにしまった。そして、教室を出た。

 私は、朝通った河川敷を歩いていた。

 スマホを見ると、時刻は正午になろうとしていた。春の穏やかな日差しが、優しかった。冬の名残の肌寒さは、もう姿を消していた。川沿いの桜並木は、朝よりもたくましいように見えた。澄んだ川は、ちらちらと、太陽の光を反射して煌めき、眩しかった。

 この日は入学式だけだったけれど、私はとても疲れていた。春休みでなまった体はもちろん、新しい環境で周囲を気にかけていたその心も、酷く疲れていた。そんな私にとって、河川敷の優しい自然の景色は、心に染みた。

 そうして、桜並木を眺めながら歩いていると、目の前に、一枚の桜の花びらが、ひらり、ひらり、と舞い落ちてきた。雄大な桜並木を背景に、たった一枚、舞い落ちる桜の花びらは、孤独で、美しかった。私は、その桜の花びらを右手でつかもうとした。けれど、桜の花びらは、手の隙間からするりと抜けていき、地面に落ちていった。


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