花びらをつかみたくて

佐藤 日向

プロローグ 10年後のあなたへ

 ずっと何かが、私の心に引っかかっていた。

 その何かは、私の心に深く食い込んで、私の心をえぐり続けていた。仕事をしたり、酒を飲めば、忘れられる。しかし、家で一人酒を飲んで、酔いが覚めたその時、その引っかかりが私の心を上からぐっと抑えつけ、底へと沈める。そして、激しい絶望感と虚無感が、私を襲う。私は一体何をしているのだろうと、憂鬱になる。そんな憂鬱から逃れようとして、私はまた酒を飲む。そんな悪循環を、毎日、続けていた。

 

 夜、退屈な仕事を終えて、ビルの谷間の道を歩いていた。ビルからは、カラフルなネオンが輝いていた。両脇に高くそびえ立つビルの壁で、見える空は狭くて窮屈だった。星が見えない漆黒の夜空だった。赤の信号で、私は立ち止まった。そして、街を眺めていた。溢れんばかりの人々と車が、街を埋めつくしていた。そんな街を眺めては、私の孤独はどんどんうきぼりになった。

 季節は春になっていた。けれど、都会の夜は冷たかった。夏でも、そうだった。夜の都会を行き交う人々、そびえ立つ灰色のビル群は、冷やされた鉄のようで、ツンと突き刺すような冷気が漂っているように感じた。

 信号が青になり、私は歩き出す。周りにいる大勢の人々も、歩き出す。大きな流れだった。ただ無心で、駅へと歩いていた。もう何回、この信号を歩いただろうか。昨日は今日と変わらず、明日も今日と変わらない。そんな毎日を、過ごしていた。

 駅のホームでは皆下を向き、スマホの画面を眺めている。冷たい、景色だった。けれど、この冷たさが私には心地よかった。駅のアナウンスと共に、電車はすぐにやってきた。大勢の人が、電車に乗り込む。電車に乗ると、空いている一席を見つけたが、私は座らずに、ドアの近くにある手すりに寄りかかった。電車はゆっくりと走り出した。電車は、ビルが乱立する都会の街中を進んでいく。この景色も、何回見ただろうか。

 電車を降りて、改札を抜ける。駅には、いつもより人がいた。駅から出て、少し歩くと、大勢の人と、目黒川に沿って並ぶ、絢爛たる満開の桜が目に入った。桜は、堂々と、花を全身に咲かせて、立っていた。桜は、川の柵に並ぶ灯りの優しい光を下から浴びて、なまめかしく、神秘的だった。

 私は、桜を見て、ある人を思い出していた。その人が頭をよぎると、私の心に鋭い痛みが走り、思わず、桜から目を背ける。私は、人混みをかき分けながら、足早に家へと向かった。ヒールの音が、こつこつと鳴った。

 街灯が、ほのかに光る、暗い住宅街を進んで、私の住むアパートへと着いた。都会らしい、黒と白の、綺麗なアパートだ。アパートに入って、私はポストを開いた。すると、その中には手紙が入っていた。私はその手紙を手に取り、裏を見た。


 そこには、桜を見る度に思い出す、あの人の名前があった───。

 

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