第7話 名前を忘れた少年と彷徨い続けた少女①
深夜。
すぅすぅと寝息を立てて眠る、隣の青年を見る。
グレイスが去ってから、夜にうなされたり突然泣き出すことがあったが、今日は落ち着いている。
なんとなく、彼の頭に手を伸ばし、柔らかな焦げ茶色の髪を梳いた。
(自分の名前も忘れている……)
過去にどんな人物がいたか知らないが、ちぃはここにいる漂着者たちのなかでも異質だと思う。
キヨも勇太も、記憶が抜け落ちている部分はあるが、自分のアイデンティティは失っていない(と思いたい)。
それに比べて、ちぃはどういう存在なのだろう。
勇太の社員証に入っていたシールを見て「ニャームだ!」と言っていたことから、勇太とあまり変わらない年代だと考えられる。
見た目からすると、おそらく日本人。
外見と年齢がちぐはぐなのは、ここに来てからなのか、それともその前からだったのだろうか。
(幼児退行ってやつなのかなぁ)
勇太の気もしらず寝息を立てているちぃ。
――そう。彼のことを「ちび」と呼んでいた存在も気になる。
勇太よりも背が高いし、どう見ても“Little kid ”の意味での「ちび」ではないと思う。
(誰かに「ちび」って呼ばれた記憶だけが強く残っているのか)と勇太は考えていた。
この世界は静かだ。
勇太の住んでいた街では深夜でもたまに大きなトラックが通ると音が聞こえていたのを覚えている。田舎に行けば、夜の虫や鳥の鳴き声がする。
駅長ハンスと漂着者以外に誰も存在しないこの世界では、夜に動くものはいない。
きっと今、ちぃが隣にいなかったら、勇太は痛いほどの静寂に心を蝕まれていただろう。
「ありがとな」
同性だというのに不思議と嫌悪感はない。
小さな声で囁いて頬を突いたが、ちぃはすやすやと眠り続けていた。
◆ ◆ ◆
その日、広場に停まっていたのは古びた蒸気機関車だった。
物珍しいそうに見つめるちぃの一方で、キヨは仁王立ちしたまま顔をしかめる。
「どうかしたの?」
勇太はキヨに対してくだけた口調で話せるほどには、時を共にしていた。
「聞こえないの? まったく……やっかいなのが来たわ」とキヨが鼻を鳴らす。
勇太は目を閉じて、耳を澄ませた。
列車からかすかに聞こえてるのは──子どもの泣き声だ。
「だれかいるね! 探しにいかなくちゃ!」とちぃは勇み足だ。
煤だらけの扉を開けて、おそるおそる車両に踏み込む。
ところどころ床板は剥がれ落ち、座席も崩れていた。かなりの時の流れを感じる。
勇太の疑問を察したのかキヨが口を開いた。
「ごく稀になんだけど、古い過去の異物が流れ着くこともある。そこにいた人が帰れた試しはないわ」
「あの、キヨさん」
勇太は意を決して尋ねた。
「僕たち忘れられた漂着者は、キヨさんの友人やグレイスさんのように戻れる人もいる。……けれど、そうじゃない場合は? ずっとここに?」
キヨはどこか遠い目をして口を開く。
「そうね……そろそろ潮時ね」
俯いて唇を噛んでから、ポツリポツリも語りだした。
「ここに辿り着いた<漂着者>が思い出すことを諦めたとき、『終わりの橋』とは別の橋に連れていかれる。そこがどういうものかはわからないけれど、駅長が不要と判断したものと一緒にそこを航っていくの。あたしはそれが"成仏"ってやつなのかなと想っている」
キヨは俯いて、自信の爪先を見ていた。
重い空気を払ったのは、ちぃだった。
「泣いてる子がいるから、早く迎えに行ってあげよう!」と地団駄を踏む。
老朽化した蒸気機関車は、一歩歩くのも油断できない。
勇太、キヨ、ちぃの隊列で進んでいく。
泣き声に確実に近づいているが、当の本人は未だに見つからない。
「あとはかくれているとしたらここね」
キヨは遠慮なく荷台車の扉を開けた。
──息を呑む気配がして、泣き声が止む。
キヨは凛とした声で告げた。
「ここには貴女を迫害する人はいない。美味しいご飯もある。だから出てきて頂戴」
しばしの沈黙。
やがておそるおそる顔を出したのは痩せ細った体躯にぼろぼろの服を纏った少女だった。
勇太とキヨ、そしてちぃの顔を順番に見て「……軍人さんじゃない?」と乾いた声で言った。
勇太は少女を安心させるべく、しゃがんで視線を合わせて言った。
「ここにいるみんなは、君の味方だよ」
少女を、不安を隠すかのように抱きしめていたうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
◆ ◆ ◆
かつて勇太がそうされたように、ぼろぼろの服を纏った少女を駅長ハンスの元へ連れていく。
よほどの疲れなのか栄養失調なのか、足取りのおぼつかない少女に業を煮やして、キヨが抱き上げた。
(あの細腕のどこにあんな力があるのだろう)と勇太は、そんなことを思った。
運ばれている最中は口をつぐんでいた少女だが、駅長室でハンスを目にするなり体を強張らせる。
「ぐん、じんさん……」
目を泳がせてぬいぐるみを抱きしめるただならぬ様子に、勇太は思わず少女の隣にひざをついて背中を擦った。
「この人は軍人じゃない、駅長さんだよ」と諭すも少女の動揺は止む気配はない。
そんな彼女を見て、駅長は「ほう」と顔を歪めた。
「こんなに長い時間、彷徨っていた者は久し振りだな」
その口調には、どこか苛立ちが滲んでいた。
声も上げられずにいる少女の代わりに勇太が口を開いた。
「長い時間って……過去から来たってことですか?」
駅長は帽子のつばを触りながら目をすがめる。
「第二次世界大戦……ホロコーストの亡霊だ」
少女の肩がびくりと震える。
「お父さんとお母さんを知りませんか?」
灰色の瞳に涙の膜が張った。
「お父さんとお母さんはどこですか? 『ここに隠れていてね』って言っていなくなってしまったんです」
気丈に声を張る姿に勇太の胸は痛んだ。
「あの駅長さんは悪い人じゃない。この場所は怖いところじゃ──」
勇太の言葉は少女の「嘘つき!」という悲鳴に掻き消された。
「お父さんもお母さんも、みんなみんな嘘ばっかりつくの。『次のおうちは安全だよ』って引っ越して、でもまた軍人さんがおうちの周りを見張ってて、また次のおうちに向かったのに……急に軍人さんが来て、わたしだけ地下室に隠れてなさいって。『すぐ迎えに来るから』って言ったのに!」
見開いた目から涙は溢れ、頬を伝って地面を濡らしていく。
少女は、言葉にならない声で泣き出した。痩細った体では、大きな声も出ない。しゃがみ込み、ただただ喉を震わせて静かに泣いていた。
勇太はこの時、初めて彼女の黄色いダビデの星の腕章に気が付いた。
「いたたまれないわね」とキヨが小さく呟く。
事態をわかっていないちぃは、おろおろとしている。
沈黙を破ったのは、駅長室の机の横で伏せていたモモだった。
少女の元へヨタヨタ歩みより、涙で濡れた頬を舐めた。
「!」
少女は突然現れた犬に、驚いたようだ。目を瞬かせたあと、「ムッシー」と声を漏らす。
そしてモモにぎゅっと抱きついた。
「ムッシー! 会いたかった、ずっと!」
モモはその間も少女に身を任せていた。しかし、その瞳は飼い主に再会した喜びというより、慈愛の色を含んでいた。尻尾は力なくパタパタと揺れている。
「はぁ」と大きな溜め息を吐いてから、キヨが言う。
「この子をどうするかは駅長の貴方次第だけど、せめて食事くらいとらせてあげたら?」
勇太も同意見だった。
"食事"という言葉にピンと来たのか、ちぃも「そうだよ、もうすぐ晩ごはんだよ!」と拳を握る。
駅長は「やれやれ」と頬を掻いた。
「確かに一理ある。この子を送るのは明日にしよう」
それが解散の合図だった。
<続く>
※こちらの章について、近況ノートに補足があります。
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