4章 それぞれの決意と、それぞれの想いと 2

「さて、まさか私の方が先に会えてしまうとは。いや、予定通りではあるんだけど」

 凛は長すぎる廊下を歩きながら一人呟く。

 つかさは実家に戻っていた。難しいのはつかさと面会することだったが、さすがのつかさでも昨日転校してきて、今日除籍とまでは手続きが追いつかないようだった。

 凛はクラスメートという立場と、放浪癖のある父から代行している長田家の顔としての信用を生かし、三宮家へのアポイントをとった。

 三宮の家は長田の家からそう遠くない場所に位置している。

 凛は身なりを整え、相手先へ向かう。

 三宮家は少しだけ人気のない場所に国立公園を遥かに凌ぐ敷地を有していた。近代の西洋建築様式に則った屋敷に凛は圧倒されながらも、玄関のインターホンを押す。

 受付に要件を伝え、部屋に通してもらう。つかさは自宅学習に勤しんでいるらしい。

「さすがだなぁ」

 凛は案内されながら、両手で足りないほどの部屋数に見惚れていると、屋敷の一番奥、どこか暗さを感じさせる場所へと通された。

「お嬢様、お客様をお連れいたしました」

 小雨とは違う、マダムという言葉も似合いそうな淑女は、部屋の前でいったん立ち止まるが、返事を待たずに、扉を開けて、「どうぞ」と、凛を部屋へ通す。

 凛は軽く一礼し、部屋の中へ入る。

 一通りの家具は揃っているのだが、飾りっ気もなく、部屋が広いせいか、お世辞にも女の子らしいとは言えない殺風景な場所だった。

 つかさは部屋の隅に設けられた机の上で参考書とにらめっこをしている。

 昨日までの奇抜なものではない、整えられた洋装だった。

「なにかようですか?」

 凛の存在に気づき、つかさはしかめっ面で視線を向ける。

「学校を休んだクラスメートのためにプリントを持ってきましたよ」

 今まさに授業が始まった時間でもあるのだが、凛平然と嘘を吐く。

「そうですか。でしたら、そちらの机の上に置いていて下さい。それで、もう要件は終わりましたよね。では、早くお帰りになってもられませんか?」

 つかさはにべもない対応。凛は素直に帰ってやろうかとも思ったが、ため息を吐いて、本題に入る。

「……兄さんが怒ってましたよ」

 たった一言。それで彼女は気づいてくれるだろう。

「だから?」

「それを伝えに来ました」

「それだけ?」

「はい」

「あ、そう」

 それこそつかさにとってはどうでもいいことだった。あの男と自分はすでに無関係だと決めていた。無関係にならなければいけなかった。けれど、凛にはその姿が無理をしているようにしか見えない。

「どこまで意地を張るんですか?」

 一言だけのはずが、ついつい言葉を続けてしまう。

「張っていません」

 どう見ても意地になっている。新を無視することで、今までの自分を留めているように見える。まるで、新を憎むことで自分を留めていた過去の自分を見ているような気に凛はなった。

 兄さんは困っている人を見過ごせない。その優しさは時に冷たく、それでも心地いいほど温かい。

 凛は新に尽くすと決めた時のことを思い出した。


 眩しすぎるほどの青空。ジリジリと照りつける太陽。そんな、ギラギラと活力に満ち溢れた日に母が死んだ。

 それは、なんの前触れもなく、驚くほど呆気なく訪れた。

 昨日まで、ずっと自分に優しい笑顔を向けてくれた母の瞳を見ることはもうできない。

 凛は初め、その事実を信じることができなかった。葬儀の最中も「ママはいつ起きるんだろぅ」「起きたらなに話そうかな」なんて考えていた。

 それでも、事実は否応なく現実に侵食してくる。

 目を覚まさない母。引きつった顔を続ける父。

 暗い雰囲気。泣きじゃくる大人たち。

 凛もさすがにただ事ではない空気を感じ取ってしまう。

「ねぇ、ママはどこにいったの?」

 棺の中に閉じ込められた母を心配し、つい、聞いてしまった。

 当然、周囲は凛の言葉に反応する。

 可哀そうに、可哀そうに。そんな、同情めいた視線が凛に降り注ぐ。

「???」

 凛はわからない。どうして、自分にそんな視線が向けられるのか。そんなに自分はおかしなことをいったのだろうか。

「あのね、お母さんは遠いお星様になったんだよ」

 一人の大人が代表して凛に近づいた。

「そうなの? じゃぁ、わたしも行きたい」

「そんなことを言ってはいけない」

 子供の無邪気な言葉を大人が叱責する。

 自分は正しいことを子供に教える立派な大人であるという利己的な優しさが凛に振りかかる。

 母はもう帰ってこない。

 キョトンとする凛に対し、その事実を回りくどく、ねちねちと凛が理解するまで大人たちは話を終わらせようとしない。

 そして、ようやく凛は理解した。

 母はもう帰ってこない。凛は泣いた。

 こういう時の子どもは悲しみ耽って泣くもんだ。大人も自分はいいことをしたと満足した。

 それが、凛にとっては世界の終わりと同義だということも知らずに。

 泣いて、泣いて、泣いて。凛は泣き疲れて、言葉を失う。

「………」

「凛ちゃん!」

 凛が倒れた。その瞳には生気がなく、瞳孔は開いている。当然、葬儀どころではなくなった。

 凛は病院に運ばれ、ベッドの上に寝かされている。

 医者がいうには、今の凛に外傷はまったくないようだが、内面的な問題で心を閉ざしてしまっているのか、目を覚ます気配もないようだ。

 そして、このままでは最悪の場合もあると告げられた。

「なんとかできないんですか?」

 父は必死になって、相手に詰め寄るが、どうしようもないことはどうしようもない。

 父は早々に諦め脱力しきる。相手の本心が読める二葉だからこそ、この医者が本気で凛のことを診てくれたこと、言っていることに嘘偽りがないことが断言できた。

「一つ。なにか感情を彼女に与えて下さい。意識を覚まさせるような喜びの感情とか。そうすれば、あるいは」

 医者は一つの可能性を口にした。父は、凛が喜びそうな言葉を並べるが、目を覚まさない。

「どうしたらいいんだ」と、いつも陽気な父でさえ、下を向いていた。

 それなら。

 横で大人たちの話を黙って聞いていた新は幼い思考で必死に考え、思いついた。

 病室には凛一人。

 新はそのタイミングを待って、病室へと入り込む。

「凛、凛?」

 呼びかけても凛が起きることはない。

「凛、僕の話を聞いてくれるかな」

 新の問いかけに、答えが返ってくることもない。

「お母さんが死んじゃったのは僕のせいなんだ」

 新は淡々と凛に語りかける。

 この時にはすでに人の心を読める力を理解していたこと。

 母の死が近いことを自分は知っていたこと。それを凛には黙っていたこと。

 異能の力を持つ、自分が生まれたことが母の寿命を大きく奪ってしまったこと。

 だから、母が死んだのは、自分のせいだと伝えた。

「………」

 新にとっては賭けだった。これで凛が目を覚ましてくれなければ、万策尽きる。

 もう、これ以上、自分の周りから笑顔が消えるのは嫌だった。

「……なの?」

 小さな小さな声がした。新は凛の方をじっと見つめる。

「……ほんとなの?」

 凛も横になったまま新を見返す。新は凛が目を覚ましたことにほっと安堵し、ナースコールのボタンを押した。

「なんで、なんで? なんで笑ってられるんだ!」

 しかし、凛の捉え方は違った。ゆっくりと新の方へ手を伸ばし、首を掴むと、力を込めた。

「返して! 私のお母さんを返してよ」

「………」

「殺してやる。私があんたに罰を与えてやる」

 凛の力はますます強くなり、新も身の危険を感じるほどになった。それでも、凛が目を覚ましてくれるなら、自分はどうなってもかまわないと本気で思っていた。

 ナースコールを聞きつけた看護婦が病室に来たため、新はなんとか気を失わずに済んだが、凛の憎しみは少しも晴れることはなかった。

 凛は家族であるにも関わらず、大事なことを教えてもらえなかった自分を悔しく思った。そして、なにより、それを知っていながら、母の苦しむ姿を見ていながら、なにもしなかった新が憎らしかった。そして、一つの決意をした。

『私が新に裁きを与えなければいけない』

 元々身体に異常はなかったため、凛はすぐに退院し、周りに笑顔を見せるようになった。

 周囲は安心し、これで問題は解決したと思っていた。

 しかし、そんなことはない。

 凛は家に帰りつくと、張り付いた笑顔の仮面を外して、新に詰め寄る。

「ねぇ、私が今考えていることわかる?」

 新はなにも答えない。

「わかるよね? だって、お兄ちゃんは人の心が読めるんだもんね。悪魔の子なんだもんね?」

 凛のどんよりとした瞳が新を捉えるが、新はなにも言い返さない。

「あぁ、そっかぁ。私の胸を触らないと、わからないんだっけ? ねぇ、そんな中途半端な力のせいで死んじゃったお母さんの気持ちはわかるの?」

 新は黙って、凛を見返す。その態度も凛の癇に障った。

「なんなの? なんなの、その目は。私だけが知らなかったって蔑んでるの? 自分だけが知ってた優越感に浸ってるの? けど、私の気持ちなんてわかるわけないよね。お母さんの気持ちなんて、わかってたまるもんか!」

 凛は近くにあったハサミを力一杯新に投げつける。それは新の手の平に当たり、ポタポタと赤い液体がしたたり落ち、さすがの新も苦悶の表情を浮かべて膝をつく。

 少しだけ、イライラが落ち着き、「アハッ、アハハハハッ」と、凛は笑った。

 そうだ、それでいい。新はきちんと罰を受けなければいけない。新のせいでお母さんは死んだんだ。お母さんが生きたくても生きれなかった分、苦しくても笑っていた分、新は死にたくても生きなければいけない、笑うことなく苦しまなければいけない。

 凛は新にストレスをぶつける分、外では笑顔を見せていた。自分だけじゃない、新の周り、全員が新を嫌いになるように仕向けていた。

 時には新に石を投げ、時には新を階段から突き落とし、時にはあからさまに無視をする。

 凛にとって、新は頭の先からつま先まで。視線の先から吐いた息まで憎らしかった。

 それでも新が凛になにか言うことはなかった。新は凛が今を生きてくれていることだけでよかった。

 しかし、新が良しとしても、そう思わない人物だっている。二人の父、長田二葉だった。

 二葉は凛が生きる気力を取り戻してくれたことを喜んではいた。新がかまわないというのならと、あえて、干渉はしなかった。だからといって、心の奥にわだかまりがないわけではない。

 俺たちのことに干渉しないでくれ。

 新に強く言われると、凛の時になにもできなかったことが二葉の行動を躊躇させる。

 あれから、もう三年が立った。今からでは遅すぎるだろうが、今のままが続いていいはずはない。

「なぁ、もう凛に真実を話してもいいんじゃないか?」

 今日も生傷を作って帰ってきた新に、二葉はとうとう口を開いた。

「………」

 新は聞こえないふりをするが、それはもう許されない。

「聞きなさい」

 二葉の厳格な雰囲気に新は神妙な態度で応えた。

「お前のおかげで凛は生きている。けれど、今の凛の態度を秋江も喜んじゃいない」

 だから、真実を伝えようと二葉は言っているが、新は聞く耳を持たない。

「俺は事実しか伝えていない」

「あぁ、たしかにそうだな」

 二葉も納得する。たしかに、長田に生まれる者が二人もいたことはない。そして、双子を産んだことで秋江の体力は消耗され、衰弱していったことも事実だ。

 もしかすれば、新の言うとおり、新のせいなのかもしれない。

「秋江の死はお前のせいじゃない。もちろん、凛のせいでもない。今からでも、お前が伝えなかった部分、この家の歴史を含めてすべてを凛にも伝えなければいけないんじゃないか」

「それじゃ、凛が悲しむ」

 自分は凛のために今の生活を送っている。わざわざ自分が納得しているのに、日常を壊す必要はないと思った。

「たしかに、凛も傷つくだろう。それでも、あれから考える時間もあった。これ以上、秋江が悲しむようなことは止めにしよう」

「母さんはもういない。だから、母さんを悲しませようにももうどうしようもないじゃないか。でも、凛は生きてる。だったら、凛が悲しむようなことはしたくない」

「ずっと話さないつもりか?」

 新もそれは難しいと知っている。幼心に吐いた即興のものだ。どこかでぼろはでるだろう。

「けど、今じゃない」

「そうかもしれないが、先に延ばしていっていいわけでもあるまい」

 新と二葉は話に集中してしまい、扉一枚向こう側の気配を見抜けなかった。

「ねぇ、今の話、どういうこと?」

 迂闊だった。家の中で話をする話題にしては気をまわさなさすぎた。

「凛には関係ないことだよ」

 話を聞かれていないのであれば、どれだけ不自然であろうが、ごまかすしかない。

「そんなはずないでしょ。だって、お母さんの話をしてたんでしょ? 真実ってなに? また、私に隠し事するの?」

 凛は強い口調で口の端を結ぶ。そうしないと、弱い自分が泣いてしまいそうな気がした。

「凛、お前にもすべて話そう」

「おい!」

「新は黙ってろ」

「っ!」

 二葉の怒鳴り声に、新は顔を背けた。凛も覚悟を決めている。

「凛。落ち着いて聞きなさい」

 二葉は一つ一つ、丁寧に自分たちのことを語った。

 自分たちの能力について、自分の家系について。

 凛が生まれることについて、初めは反対されていたことまで話した。それでも、秋江は自分の身体にどれだけ負担がかかろうとも、凛を諦めないと強い意志を持っていたこと。

 出産直後は元気な姿を見せていたが、予期された通り、秋江の身体は次第に衰弱していった。しかし、秋江は後悔などまったくしていなかった。

 それは凛のおかげだった。

「新も可愛いけど、凛はもっと可愛い。あ、もちろんあなたのことも大事よ」

 秋江の口癖だった。ついでのような言い方にちょっとむっとはしたが、自分と結婚した頃よりも幸せそうな表情が印象的だった。だからこそ、短い人生を秋江は謳歌し、自分の人生に悔いはないと、秋江は笑って目を閉じた。

 秋江の人生は秋江が自分で責任を持っていた。だからこそ、同情される言われもないし、誰かのせいで自分は不幸だなんて思われるのはもってのほかだ。

 それを凛には知って欲しかった。けれど、そうできない事情もあった。まだ、小さすぎる凛に話すには難しいとこちらが勝手に判断した。母の死を契機に家のことを知ってもらおうと考えていたが、状況がそれを許さなかった。

 自分のせいで兄妹の仲が悪くなることを秋江は決して望んでいない。凛にはちゃんと笑っていて欲しい。そして、もちろん新にも。

 二葉は深く頭を下げた。

「………」

 話を聞き終わって、凛は言葉も出ない。険しく、悲しい負の表情を一通り浮かべ終えると、ワナワナ震えながらダッシュで家を飛び出した。

「凛!」

 新もその後を追おうとするが、「新!」と、二葉に呼び止められる。

「なんだよ」

 露骨に嫌な顔をしながらも、立ち止まるあたりは真面目さゆえか。

「……すまない、頼んだ」

 二葉も口元を結んでいる。本来ならば自分の役目だとわかっているのに、それができない歯がゆさゆえの表情か。

「当たり前だ!」

 新は構わず、走り出す。

 なんとか凛の姿は見えた。見失わないように追っていく。

「待ってくれ、待ってくれ、凛」

 近所迷惑などお構いなしに新は凛を呼びとめるが、相手は構わず、逃げていく。

 それでも、男と女、運動能力の差か、徐々に凛との距離が縮まっていった。

「こないで、こないでよっ!」

「凛!」

 ようやく、凛の手を掴めた。二人とも息を切らしており、すぐには話を始められない。

「は、離してよ」

 凛は新から逃げようとするが、それは許されない。気絶はしなくても、ここで手を離せば、今度は自分の前からいなくなるとわかっていた。

「……逃げないから離してよ」

 凛もようやく観念し、立ち止まる。新も掴んだ手を離したが、凛の気持ちはまだ不安定なままだった。

「凛、帰ろう。俺たちの家に帰ろう」

「やだ。もう、私はあの場所には帰れない」

 凛は頭を振った。

「どうして? 母さんのことはお前のせいじゃない」

「それだけじゃない!」

 凛は新を睨んだ。母親の死は自分のせいでなかったとしても、自分が新にしたことは消えない。

 なにも悪くない、自分のためを思ってくれていた新を無闇やたらに傷つけた。

 自分がつけた傷を見ないフリして、このままなにもなかったように新と接することなどできなかった。

「俺にしたことか? それこそ気にするな。俺はただ凛が生きているだけでよかったんだ」

「………」

「だから、帰ろう」

 新は優しすぎた。ほんとに自分を心配してくれるほどに優しい。それでも、凛はその優しさにすがるわけにはいかない。

「帰れない。あんなひどいことをして私が兄さんと一緒にいられるわけがないよ」

 凛はその場に膝を吐いて泣き崩れた。

「ごめん」

 ひっくひっく泣いている凛に向かって新が謝る。

「どうして? どうして、兄さんが謝るの? 私が悪いんだよ。謝んないでよ。もっと、私を蔑んでくれた方が助かるよ」

 つかさはうつむいたまま、声を絞り出す。小さくまるまる凛の頭に新はそっと手を置いた。

「俺も凛があそこまで苦しむなんて考えてなかった。今だって、俺のせいで凛は泣いてるんだろ」

「ち、ちがっ」

 凛は思わず顔を上げる。新を心配させちゃいけない。

 涙よ、引っ込め。ぐずり声もむりやり変われ。

「俺は兄だからな。妹である凛を守らなくちゃいけないんだ。もっといい方法があったはずなのに、幼稚な正義感で凛を長い間、苦しませてしまった。笑顔を忘れさせてしまった。ごめん」

「もう謝らないで下さい! 兄さんに謝られたら、私はもう……」

 笑い顔を保てない。

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」

 新の胸に顔をうずめて凛は泣いた。泣かないと誓った瞬間にもう泣いてしまう自分の感情が憎らしい。ただ、優しい兄はそんな自分を受け入れてくれていた。

「……兄さん、私は今日からどうやって生きればいいの?」

 顔をうずめたまま凛は聞いた。

「ただ、笑って生きてくれ」

「それだけでいいの?」

「そう、それだけでいい。けど、それが難しいことを凛は知っているだろ?」

「………」

「自分を憎むのも止めろ。そうじゃなきゃ、ほんとに笑って生きることなんてできないさ」

「………」

「今だけは好きに泣け。けど、今日からは自分のために笑ってくれ」

 凛は言葉もなく、ぐしゅぐしゅ泣いている。新は黙って凛のしたいようにさせた。

 そして、凛は泣きながら決意した。

 これからの人生、新のために、新のためだけに生きよう。新の役に立つ女の子になろう。

 好きになってもらうわけにはいかないけれど、好きでいさせてもらおう。

 だから、新の言うことは守る。次に顔を上げる時には笑っていよう。

「……もう大丈夫」

 凛は自分から顔を上げる。目元は真っ赤、頬はびちゃびちゃでお世辞にも可愛らしい顔とは言えないが、まだ家族四人だった頃の無邪気な笑顔がそこにあった。

「さ、家に帰ろうぜ」

「うん」

 新は凛の手を引きながら、家路についた。


 次の日からの凛は周囲が驚くほど、新に対して献身的になっていた。自分が犠牲になろうが、新を立てる。

 新に嫌われないように、自分を磨くことで新に嫉妬が向けられるのは皮肉なことだったが、たまに自分を女の子として見てくれることが凛にとってはこの上なく幸せなことだった。

 新への好意を隠すつもりもなく、新が自分を選んでくれたらいいなと思うことはあっても、受け入れられなくても仕方がないと思っている。

 自分は新のために。

 だから、自分は今ここにいた。

 自分のためなら、彼女のことは放っておく。わざわざ自分から敵に塩を送るほど、凛はお人よしではないけれど、新のためになるなら、なんだってすると決めた気持ちに嘘はない。

 凛は改めて目の前の少女に意識を移した。

「ねぇ、あなたはいったいなにをしたいの?」

 自分は兄さんのおかげで生きる道を決めた。

 彼女のことはどうでもいいけれど、兄さんが望むなら私もきっかけを作る手助けはしよう。

「僕は三宮。家のために生きるんだ」

 彼女は自分に言い聞かせるように、模範的な言葉でお茶を濁す。そんな辛そうな表情でどう信じればいいのか。

「本当に?」

「本当だ」

「それなら、兄さんとの婚約は進めないといけないんじゃないの。私は絶対に認めないけれど」

 つかさは唇を噛みしめる。自分でも矛盾しているのはわかっていた。

「新と一緒になっても、三宮のためにはならない」

「どうして?」

「三宮と長田では格が違いすぎる。周囲に笑われる、理解されないのがオチだ」

 そんな理由で納得するはずもないことを知った上で、彼女は苦肉の言葉を発す。

「ふ~ん、そっかぁ。あなたはそれで納得してるの?」

「しているさ」

 言いつけの途中で実家に帰ってきたことを誰も驚きはしなかった。父親からは「部屋の中にいろ」と伝言された。

「もう、私たちとは関係ないってことでいいの?」

「あぁ、問題ない」

 変わらない。今までと変わらない日常に帰るだけだ。

 心を殺してしまえば、余計な感情に囚われないで済む。

 当然、凛の言葉ではつかさの能面ははぎとれない。

 凛はクスリと笑った。

 そりゃそうか。だって、私の言葉は本気じゃない。優しさからじゃなければ、心配もしていない。だから、彼女の心には響かない。

 やっぱり、兄さんのようにはいかないなぁ。

 けれど、自分の役目は全うできそうだ。

「なら、私はもう帰りますね」

 物解りよく、彼女は自分から背を向けた。つかさはほっとすると同時に寂しくも思った。

 学校を変えることは今回が初めてじゃない。友だちと名乗る少年少女たちが自分の家を訪ねてくることも多々あった。

 彼らは誰かに言われて来たか、友だち想いの自分に酔ってきたかのどちらかだった。誰も本気で自分と別れることを残念に、悲しく思ってはいない。

 彼女もそうだ。僕のためにこの場所に来てくれたわけではないから、表面上の一言二言で簡単に諦めてくれる。彼にいたっては来てもくれない。

 自分が望んでいる形ではあるけれど、いざそうなると……。

「あ~、そうそう」

 凛はわざとらしい演技で付け足すように言葉を続けた。

「今日だけは見逃してあげるけど、次に私たちが会った時は容赦しないからね」

 後ろ姿のまま、つかさに告げる。「どういうこと?」と、聞き返すことができないまま、一人部屋に残された。

 静かになった室内で「うん、これでいいんだ」とつかさは頷く。

 自分はこの部屋で、ずっと明るいこの部屋の中で、必要とされた時だけ部屋から出ていく生活を続けていけばいい。

 そう簡単に、この部屋の扉が開くことがないのは幼少期から知っている。

「………」

 でも、望むなら、昔読んだ絵本のように、王子様が僕を連れ出してくれないかな? つかさは物欲しげに部屋の扉を見つめてしまう。

 そんなおとぎ話あるはずないと思いながらも、あいつだったらと期待してしまう。

 感情を抑えなければいけないが、夢物語を考えていないと、部屋の中は静かすぎて、自分の息遣いや心拍さえも耳障りと思ってしまう。

「さて、勉強でもしようか」

 つかさは机に座りなおして参考書を広げる。勉強はいい、時間を潰せる上に、教養が広がる。

 気を取り直して、自分の世界に浸ろうとすると、コンコンコンとまた扉がノックされた。

 珍しいこともあるものだ。まだ、食事の時間には早いし、社交界に出かける予定も聞いていない。

 なんだろうと思案していても、扉が開くことはなかった。いつもであれば、メイド長の上沢がこちらの都合もお構いなしに入ってくるのだが、ノックの音だけで、それ以降の反応はない。

「開いていますよ」

「………」

 声をかけても、反応はない。空耳だったのだろうか。

「………」

 無視することにする。

 コンコンコン

 もう一度聞こえる。

「開いてますよ」

「………」

 返答しても反応はない。こんなことでさえ、自分の思い通りにはいかないことに少しだけイライラしてしまった。

「………」

 コンコンコン

「開いてますよ?」

 つかさはにこやかに、それでいてやんわりとした怒気を含ませながら、自分から扉を開けた。

「よう、久しぶりだな」

 そこには、会いたくて仕方がなかった男が何事もなかったかのように立っている。

「………」

 つかさは一瞬、目を見開いてしまうが、思い直してゆっくりと扉を閉めようとする。

「ちょっと待てよ」

 しかし、それは許されない。新は扉の隙間に身体をねじ入れ、つかさの瞳に自分を映す。

 つかさも観念したのか、閉める力を緩めて、自分の前に新が立つのを許した。

「で、どうして、キミがここにいるんだい?」

 つかさは驚く気持ちを落ち着けながら、努めて冷静に新がこんなところまできた理由を聞いた。

「つかさを迎えにきたんだよ」

 新はにっこりほほ笑みながら答えた。

「………」

 つかさは、自分が求めていた言葉を言われ、黙り込んでしまう。しかし、すぐに「そ、そんんことより、よくここまで来ることができたね」と、話題を変えた。

「それはだな」

 新はちょうどいい機会だと、自分がここまで来れた経緯をつかさに話し始める。

 新はつかさの行動に憤りを感じ、すぐに家を出たはいいものの、すぐにどこへ向かったらいいのかわからなくなった。とりあえずじっとしていることもできずに、大きな家を捜しながら闇雲に走ってはいたが、当然のことながら成果はない。

 そんな折、凜からのメールにより、ようやく目的地へと動き出す。

 見上げるほどの豪邸に到着したものの今度はインターホンの前で右往左往することになった。

 当然だ。つかさの婚約話はあまり公になっていない。三宮の屋敷の中でも知っているのは一部に過ぎなかった。だからなのか、いくら新が友だちなんだ、つかさに会わせてくれと懇願しても、大事な大事な三宮の娘になにかあってはと、門を通過させることをなかった。

「どうしたらいい、どうしたらいい」

 新はどこかから侵入できないかと、屋敷を一周するものの、簡単に入れるような場所なんてなかった。

 しかし、再び正門の前に戻ってくるとそこには小雨が立っていた。

「新様」

 小雨にしては珍しく、感情を押し殺した声音だった。

 新はその声に背筋を伸ばして相手を見据える。

「どうして、こんなところまで来られたのですか?」

 起伏のない口調で小雨は聞いてくる。

「つかさに会いに来たんだ」

「どうしてお嬢様に会いに?」

「あいつの本心を聞き出すためだ」

 新の言葉を聞いて、小雨はふっと嘲笑の笑みを浮かべた。

「聞いてどうするんですか? あなたはもう三宮とは関係ない身分。そして、あなたもお嬢様のことを疎ましく思っていたようですから、願ったり叶ったりではないのですか」

 小雨はすでに婚約は破棄されたと判断しているのだろう。であれば、つかさにとって害悪になりかねない新を追い返そうとするのは至極当然の行動だった。

「小雨さんはつかさが今のままでいいと思っているのか?」

「思っていません。思っていませんが、今のふさぎ込んでいるお嬢様を見るのは、……嫌です」

 明らかな敵意の視線を向けてくる。昨日、お節介とわかりながらも二人を尾行していた。恋人同士には見えなかったが、少しではあっても距離が縮んでいた気がした。予想だにしなかった源一郎の登場で、小雨は先に新の家へ帰るよう命令されてしまったが、二人なら大丈夫だと思った。

 小雨は新を信用した。

 信用したのに。

 家に帰ってきたつかさの表情は沈んでいた。小雨がデートのことを聞き出そうとしても作り笑顔を浮かべて「楽しかったです、よ」と、はぐらかされるばかり。

 その笑みはここ数日あまり見ることのなかった悲しい笑み。小雨がなによりも嫌いな笑みだった。

「お嬢様にあんな顔をさせたあなたをお嬢様に会わせるわけにはいけません」

 きっぱりと言い切る小雨に新は「やっぱりか」と呟いた。

「小雨さん、ごめん」

 新はそういって、自分の右手で小雨の胸を触った。

「………」

「………」

「………」

 なにが起こったのかわからずに、小雨は自分の胸を触る新の右手と、新の顔を交互に見比べて、状況を把握してから「きゃ~~~っ!」っと、自分でも驚くほどの声量で悲鳴をあげて、胸を押さえながら勢いよく後ずさる。

「な、なにするんですか」

 初めて異性に身体を触られたのか、普段の落ち着いた態度を崩してしまい、涙目になっていた。

「………」

 新は小雨に文句を言われながらも、静かに考える。

 つかさは小雨に距離を置かれたと思っているようだったが、それは小雨も同じ気持ちだった。

 小雨はつかさの侍女になるための教育を受けていたが、二人が本当に幼い頃は仲のいい姉妹のように見えていた。

 その関係が変わったのは小学生に上がった時。

 親の言いつけを守り、その他大勢が呼ぶように、小雨は他人行儀な呼称でつかさに話しかけた。

 親からはつかさとの距離感を考えるようにと言われていたが、そんなことくらいで二人の関係性は変わらないと思っていた。

 その時のつかさの表情は覚えている。

 初めは驚いていた。そして、その表情は一瞬だけ哀しみを帯びて、最後には笑った。

 それは自分には向けられたことのない表情。大人たちに見せていた、面白くもなんともないのに、ただ笑っているだけの無感情な笑みだった。

 線を引かれた。

 小雨は、というよりお互い、そう感じてしまった。

 それからだ。小雨は意識して、つかさに近づかないようにし、つかさもそれを受け入れた。

「小雨さんはつかさに笑っていてもらいたいんだね」

「だからどうしたんですか」

 小雨は落ち着きを取り戻し、新を睨む。

「俺に任せて欲しい」

「あなたになにができると?」

「つかさを自由にさせてやる」

 イラッとした。あんなに悲しそうな表情をさせて、今さらヒーロー気取りとかありえない。

「気軽につかさなんて呼ばないで! あなたはもう失敗したの。もう一度チャンスがあるなんて思わないで」

 丁寧な言葉使いも忘れ、小雨の感情は爆発した。

 自分だってつかさには笑ってもらいたいと誰よりも思っている。けれど、二人の距離感はあの時に決まってしまった。侍女が主に馴れ馴れしくしてしまえば、つかさと会話さえもできない関係になってしまうかもしれない。それほど、三宮つかさというのは自分たちの上にいる存在なのだ。

「それでも、もう一度つかさに会わせて欲しい」

 新は頭を下げた。小雨にもう一度信用してもらうには、今はこれしかできない。

「そんなことで」と、小雨は言葉を続けようとしたが、その瞬間に自動で門が開いた。

「な、なんで」

 すると、門からは見知った顔。長田凜が出てきた。

「やっほー、兄さん。ここからなら入れるよ」

 凜は軽い口調で門が閉まらないように注意しながら、新を手招きする。

「お、おう」

 新は一瞬だけ躊躇するが、凜の厚意に甘えて三宮の屋敷に入ろうと、凜の元へ進んでいく。

 ここで凜がどうしてここになんてことは思っても口にはしない。新がここに来た目的はつかさに会いに行くためだ。そのチャンスが与えられたのだから、ここは素直に甘えるべきだった。

「ちょ、ちょっと待って下さい。どうしてあなたが」

 だからなのか、その質問は小雨の口から出ていた。

 小雨はどうして凜が屋敷の中から出てきたのかわからなかった。自分だって来客者のチェックはしている。凜が来たとしても自分が中に入れるはずはない。

 少しだけ席を外した瞬間に来ていたのだろうか。それでも、ただの一般人を簡単に屋敷に入れるなんて警戒心がないのか、凜の素行のよさか。

「どうでもいいことじゃないですか。そんなことより、兄さん。あんまりこんなところで長居していると本当に不審者と思われますよ」

「わかってる」

 けれど、すんなりと中に入れるわけがない。案の定、「待ちなさい」と、声をかけられる。

 小雨に無許可のまま入るわけにはいかない。新は律儀に立ち止まり、小雨の言葉を待った。

「どうやって、お嬢様を自由にするのですか?」

 小雨は聞いた。ここまできてしまえば、相手は止まることはないだろうし、自分も意固地になるのは止めようと思った。

 ただ、つかさに会いに行くと言うなら聞かなくてはならないことがある。ただ家を出るだけが自由というのなら、三宮の名前を捨てるのが自由というのなら小雨は新を無理やりにでも帰さなければいけないと思った。

「そんなのはつかさに決めてもらうさ」

 そう言って、ゆっくりと歩き出す。

「バカらしい」

 小雨は追うのは止めた。

 自分は侍女も友だちも失格かもしれない。ただ、つかさがもう一度この門を笑顔で出てくることがあれば。

「その時は、昔に戻って話すのもいいかもしれませんね」

 新は小雨の呟きを聞いて、それさえもつかさに伝えた。

「小雨が?」

 話を聞き終えて、つかさにも思うところがあった。新が来てくれたことを嬉しく思ったのは事実だが、それ以上に小雨の気持ちには驚いてしまう。

「小雨さんもつかさのことを心配している。もちろん、俺だってそうだ」

「でも、なんで今さらそんなことを言うんだよぉ」

 新の言葉につかさは唇を噛んだ。

『部屋の中にいろ』

 源一郎からはそう伝えられた。

『わかりました』

 小雨だって、心配してくれているみたいだが、たった一言で会話を終わらせた。

 なにより、新のことを好きになったのは自分の意思だ。そして、新の元を離れたのも自分の意思。初めて自分の意思で行動したにも関わらず、その決断を周囲は心配してくる。だったら、今まで通り自分は言われたことをするだけの方が周りに迷惑をかけないのではないかと思ってしまう。

「つかさ」

 名前を呼ばれただけで、抑えなければいけない気持ちが騒ぎだす。自分は自分を律せられるタイプだと思っていたのに、これほどまでにこの感情は自分を苦しめるのか。

「黙って出て行ったことは謝るよ。でも、僕はもう大丈夫なんだ。だから、今日は帰ってくれないか」

 よかった。なんとか愛想笑いはできた。これで新も安心してくれるだろう。

「それはできない」

「なんでだよ」

「女の子が泣いてるのに、帰るなんてこと、俺にはできない」

「どうして? 僕はきちんと笑っているだろう?」

 近くに鏡がないので、確証はないけれど、きちんと口角は上がっている。目元を触っても、水気もなく、目尻は下がっている。けれど、新にとっては違うらしい。

「俺はつかさにちゃんと笑っていて欲しい」

「………」

 自分の目を覗き込んで名前を呼んでくれる。たった、たったそれだけのことで、つかさの心は乱される。

「……笑っているじゃないか」

 努めて冷静に笑顔で応対する。心の内を知られるわけにはいかない。

「そんな考えられた末の笑った顔じゃなく、心からの笑顔だよ。昨日でかけた時、あの風景を見た時はちゃんと笑ってくれただろ?」

 今まで誰にも気づかれたことのない、いや、もしかしたら全員気づいていたが、言わなかっただけかもしれない笑みを指摘された。

 けれど、今さらそれを認めて甘えるわけにはいかない。

「あれこそ、演技だよ。女の子の笑った顔に男はころっといくんだろ? 特にあ~いう場面で笑みを出せる女の子はポイントが高い」

「そんなはずないだろ。つかさは笑ってた。けど、今は辛そうだ。それくらいわかる」

 誰のせいでこうなっているんだと、思わず叫びだしたくもなるが、それを悟られるわけにはいかない。

「どうして僕のことをわかった風に言うんだい? もしかして、僕の知らないうちに僕の心を読んだりしたのかい? それなら、長田の能力も欠陥があるんだな。そんな能力、やっぱり三宮にはいらないね」

「お前はわかりやすすぎるんだよ!」

 新は怒鳴った。

「俺でさえ気づいているのに自分がわからないはずないだろ。それをわからないフリするのはやめろよ」

「だったら、……僕に、僕にどうしろっていうんだよ」

 暗く低い声が、俯くつかさの口から漏れる。

「つかさはどうしたい? 自分がどうありたいかをもう少し考えてみろよ。今の生活に不満がないのは本心かもしれないけど、別の選択肢をなにも考えずに排除するのは違うだろ」

「違わない。無難でない行動をとることが幸せになるとは限らない。だったら、居心地のいい場所でお人形のまま生きる方がまだましだ。ほらみろ。僕はいろいろ考えた上で行動を決定している。新にあれこれ言われる必要はないだろ」

「本当にそれでいいのか?」

 いいはずないじゃないか!

 肝心な言葉だけはなんとか言い留められたが、それを声高に叫ぶことができればどれだけよかっただろう。

「………」

 新は自分を見つめてくる。

 自分だけを見つめてくれている。

 その瞳には自分が映っていた。

「………」

 そこに映る少女は、たしかになにかを言いたそうにしていた。けれども、それを本当に叫んでいいのかはわからない。

「………」

 新は自分の言葉を待ってくれている。それがどれだけ嬉しいことか知らなかった。

 好きな人のことを考える時間がこれだけ愛おしいなど知らなかった。

 新と一緒にいて楽しいも、新が誰か別の女子と話していて腹立たしいも、新と離れて悲しいの感情を知らなければよかった。

 知らなければ、自分の決断に迷いなど生じるはずもなかった。知らなければ、新も自分にここまでしてくれてなかっただろう。

 けど、知ってしまった。知らないフリはできても、知らなかったことにはできない。だから、新はここまで自分を見てくれているのだろう。

「だって、新は僕と一緒になれば不幸になる」

 言葉にしてしまった。つかさが鍵をかけた言葉の錠が外れた。

「どうしてだよ」

「だって、僕と一緒になれば新も三宮に縛られる。僕は今までそれが普通だったし、周りは可哀そうだなんて同情してきたりもするけれど、不幸だと思ったことはないからそれでもいい。けど、新は違う。新が周りから可哀そうだなんて思われるのは僕が嫌だ。ううん、新だけじゃない。僕らの子供も三宮に縛られる。それは嫌だ」

 つかさの独白に新は思わず苦笑してしまった。

「なにがおかしいんだよぅ」

「悪い、悪い。けど、それは考え過ぎだ。それに、つかさの考えてることには一番大事なところが抜けている。俺はそれが聞きたい」

「なにさ」

「つかさの気持ちだよ。つかさはどうしたい? つかさは俺といると不幸になるのか?」

「そんなはずないじゃないか。僕は新のことが好きになったんだ。一緒にいられるだけで幸せなんだよ」

「………」

「………」

「………」

 つかさは自分の言葉が耳に入ってくるとようやく発した言葉の恥ずかしさを理解した。

「いや、あの、今のは違うんだ。その、違わないけど、今、言うべきことではなかったというか」

 鏡を見ないでもわかるほど、自分の顔は上気している。つかさはしどろもどろに否定と肯定を繰り返しながら、終いには恥ずかしくて目線を下にうつ伏せた。

 新もその真っ直ぐすぎる告白に面食らってか、言葉を続けられない。

「……どうして、ここまで…したのに、今さらばれないと……」

 つかさは下を向きながら、ぶつぶつと自分になにかを言い聞かせている。「クキキキキッ」と笑い声を上げ、覚悟が決まったのか、勢いよく新を見上げた。そこに羞恥の感情は見当たらない。

「あぁ、僕は新のことが大好きだ。大好きになったよ。だけど、だから、新のためを思って、僕は自分から身を引いたのに、当の本人がなんでここまでくるんだよ。なに? 新も僕のことが好きなの? そうだよね、そうじゃないとここまできてくれないよね。これで僕のことを、いや、特に好きじゃないけどなんて言わせないよ。そんなことを言おうものなら、僕は君を社会的に抹殺してやるからな!」

 つかさは矢継ぎ早に開き直った感情を爆発させ、今は息が切れているのか、ハァハァしている。

「俺は」

「はい、ストップ!」

 新はつかさの言葉をきちんと理解して、話し出そうとするが、それをつかさは止めた。

「むりやりに決断をしないでいいよ。新を好きだって人が他にいることも、新が袖にできない人がいることも知ってる。それに新が優しすぎることもね。でも、これだけは覚えておいて。僕はなにがあっても新を選ぶし、絶対に新に僕を選ばせてみせる。もう、帰ってくれなんて言われたって絶対に帰ってやらないんだからな」

 つかさは少しだけ残念そうに新の言葉を遮った。もしかしたら、あの二人を出しぬけるかもしれない。アドバンテージを考えるならば、ここで少しくらいの役得があっても問題ないはずだ。けれど、それはあの二人に宣戦布告をしてからでないといけない。

「なら、つかさは」

「あぁ。身勝手な話だと分かっているけど、また一緒に暮らそう。それに、許婚の話は続けさせてもらう。こんなアドバンテージをみすみす手放す必要はないからね」

 新は彼女の表情がやっとらしくなったことにほっとした。と同時に、これからまた厄介事が増えそうだと苦笑してしまう。

 そのためには、つかさの根本的な問題を取り除かなければならないが、その機会はすぐにきた。

「入るぞ」

 ノックもせずに、この家の主がつかさの部屋に入ってくる。

 三宮源一郎。この男に、きちんと気持ちを伝えられなければ、つかさの勇気と一歩は振り出しに戻ってしまう。

「なんだ、君もきていたのか。ちょうどいい、君との婚約が破棄されたと小耳にはさんだのだが、知っているかな?」

 源一郎は威圧を含む態度で新とつかさを睨む。

「………」

 つかさは条件反射からか、怯えるばかりで相手の顔も見ることができていない。新の袖口を掴んで源一郎の視線に入らないよう、隠れている。

「黙ってないで、なにかいってくれないか? はい、いいえ。答えだけでいいんだ」

 新は源一郎と目が合って直感した。彼も言い方が悪いが、自分と同じようにつかさの言葉を待っているのだろう。

 それを不必要につかさが委縮してしまっているため、会話が成り立っていない。彼も自分の娘に自分が思う最良の行動をとっているだけなんだろう。相手に伝わっていない時点でそれは想いやりでもなんでもないが、今がわかりあうチャンスなのかもしれない。

「つかさ」

 新は袖口を掴むつかさの手を取り、横にたつ。そのせいでつかさは源一郎と対峙する格好になってしまった。

 つかさは小さな声色で自分になにか話しかけてくるが、残念ながらなにも聞こえない。すぐにでも逃げ出したいのだろうが、新は取った手をぎゅっと強く握り返した。

 人の気持ちなんてそんなにわかるもんじゃない。口からでる言葉が本心でないこともあるだろう。心に思うことが嘘だったりするだろう。今の気持ちも一時間後には変わってしまうこともあるはずだ。

 この場面、新がお互いの心の内を読んで仲介すればスムーズにことが進むのかもしれない。けれど、それでは意味がない。それに、人の気持ちを知れるのは自分の専売特許じゃない。心理学者や目の前にいる企業のトップだって、そういう感情の機微聡くなければやっていけないだろう。

 それをわかってかどうかは知らないが、源一郎は一つ息を吐いて、つかさに言葉を促す。

「お前はどうしたいんだ?」

 新はほっとする。やっぱりこの人はつかさに自由を与えないわけじゃない。自分の考えを押し付けるが、束縛はしない。だからこそ、つかさは自分の言葉を言う必要があった。

「………」

 しかし、つかさは言葉を紡ぎだせない。

 けれど、つかさが自由になるにはつかさが変わるしかない。

 新は彼女が変わる勇気を持っていることは知っているので、どこまでも待つことはできるが、源一郎の気はそれほど長くない。

「今回の件、お前はどうしたいんだ?」

 源一郎にすれば最後通告だろう。それでもつかさは黙ったまま。

 源一郎はいつもと変わらないつかさの態度に辟易しながらなにも言わずに立ち去ろうとしたところで、ようやくつかさの口から「待って下さい」と小さいながらも声が出た。

 源一郎は腕時計を一度確認してから、話だけは聞こうとしてくれた。

「新の家に行ったのは、私の意志ではないです。けど、今は違います。初めは嫌な気持ちもありました。許婚自体は覚悟していましたけれど、誰かも知らない人っていうのは怖いなって」

「だから、婚約破棄をしようと思ったのか? それにしてはあまり相手が嫌いなようには見えないな」

 源一郎は手を繋ぐ二人を見て不審がる。

「新は私が思っていたよりも優しくて、カッコいい男の人です。今は相手がこの人で、この人と出会わせてくれたお父様にすごく感謝しています」

「ならば、どうしてだ?」

 そこまで本人が思うのなら、自分から反故にするなんて考えは及ばないはずだ。

「……私と結婚したら、三宮に来てしまったら新が不幸になる。お父様の言葉を聞いて、そう思ってしまいました。好きになった人が自分のせいで不幸になってしまうのは耐えられない。だから、私は決断しました」

 源一郎は頷くが、つかさの話はそれで終わりではなかった。

「でも、もう一度新に会ってわかりました。私は新と一緒にいたい。だから、決めました」

 つかさは一呼吸置いて、まっすぐと、初めて源一郎と向き合った。

「僕は長田新に嫁ぎます。他人の幸せより、自分の幸せを優先させて頂きます」

「自分の好きにすればいい」

 婿を貰うのではなく、嫁に行く。その決断を源一郎は認めた。

「怒らないのですか?」

 投げやりでもない、あまりにも簡単な了承に勇気を出して自分のワガママを言ったつかさの方が呆気にとられる。

「どうしてだ? 自分の意志を持って行動する者を止める権利は私にはない。けれど、一つ言っておく。私の考える通りに足をすすめるならば、私が責任を持つが、自分の想いを尊重するのならば、責任は自分で取れ」

「わかっています」

 つかさの厳粛な顔つきに、源一郎は思わず笑みがこぼれる。初めて見るかもしれない表情につかさの方が驚いた。

「話はそれだけか? それならもうこの家にいる必要はないな。その代わり、小雨はつけておく。お前はまだ三宮の令嬢なんだ。なにかあると私にも被害が被る」

 放っておくと言った割には侍女までつけて気にしている。意外と娘に対して甘いのかもしれない。

 源一郎は部屋を出る時に、新に向かって「娘のことを大事にしてくれ」と頼んだ。

「わかりました」

 新がそう答えた瞬間に源一郎はほくそ笑む。もしかしたら、これが相手の狙いだったのかもしれない。

 彼は初めからこうなるように仕向けていたのではないか? 自分たちは稀代の経営者に上手く回されていただけではないか? そんな疑念も生じたが、横にいる少女の横顔をみるにつけ、そんなことはどうでもいいかと思ってしまう。

「つかさ、一緒に帰ろうか」

 つかさは頷く。そして、足を進める前に新との繋いだ手を離して、新の正面に向き直る。

「その前にもう一度、ちゃんと言葉で伝えるね」

 にこりと笑う美貌に新は見とれてしまう。

「僕が新と出会えたのは偶然じゃない。けれど、そこに僕の意志はなかった。初めて新の家の敷居をまたぐのは怖かったし、不安だった。でも、今からまた新の家にいきたいのは、ちゃんと……。うん、ちゃんと、新のことが好きになったからなんだ」

 まっすぐな瞳が新を捉える。

「新を好きになって。……これから、もっと新を好きになれそうな僕の意志。これだけは大切にしたいし、諦めたくない」

 新は思わずつかさから顔を背ける。女の子から面と向かってここまで好きと言われたのは初めてのような気がして、つかさを直視できない。

 その反応につかさは満足したのか、笑みを浮かべて自分の人差し指と中指を新の唇に触れさせる。

 あまりのことに新はつかさから距離を取ると、つかさは「カクゴしとけよ!」と極上笑顔で宣戦布告する。

「お、お手柔らかに頼むよ」

 自分の行動の結果だが、このまま二人で家に帰るのはちょっと怖いかもしれないと思う新であった。

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