4章 それぞれの決意と、それぞれの想いと

 その日はどんよりとした空だった。肌にまとわりつく湿気が鬱陶しい。お世辞にも、清々しい朝だとは言えない。

 昨日はなかなか眠れなかった。

 源一郎の態度は決して褒められたものではない。そのせいでつかさは落ち込んでしまっていた。

 けれど、相手の本心を知ってしまった。二人の間に想いのすれ違いがあることを知ってしまった。

 けれど、どうやってつかさにその想いを知ってもらうか、方法がわからない。あそこまで意固地になってしまったのなら、お互いに素直にはなれないであろうことは新が一番知っている。

 だからこそ、間に自分が入らなければいけないのだが。

 そればかり考えていたせいで、寝覚めはよくない。新は寝ぼけ眼を擦りながら、「おはよう」とリビングに入っていった。

 すでに凛は起きており、新に気づくと挨拶をしてくる。

「おはようございます、お兄様」

 にこにこにこにこ、いつも他人に見せる外面の良さとは違う、心地いい笑顔で新を迎えた。

「朝から調子いいな、どうかしたのか?」

 今日はなにかのイベントがあったかなと、考えながら、新は伸びをしながら聞いた。

「わかります? あの女、三宮つかさとか言ってましたっけ? が実家に帰られました」

 凛はパチパチパチと、拍手をしながら新に告げた。

「え、なんだって?」

 新は筋を伸ばし、固まった状態で聞き返す。

「もう、聞こえなかったんですか? 三宮つかさとかいう不法滞在者が、実家に帰ったんですよ。これで、この家には私と兄さんの二人。ちょっとドキドキ、少しハラハラしちゃいますね」

「………」

 凛の言葉を聞いて、新は慌ててリビングを飛び出し、つかさの部屋へ向かう。女性の部屋にノックもしないで入るのは無礼だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 部屋の中は、昨日の姿のままだった。しかし、主の姿だけがない。

「今日の明け前に出て行きましたよ」

 絶句している新に対し、後ろからついてきていた凛が説明した。

「どうして?」

「さぁ? 兄さんの精神に悪影響を与えるような愚か者の考えが私にわかるわけないじゃないですか」

「お前は知ってたのか?」

「いいえ。荷物をまとめているちょっとした音で目が覚めただけですよ。私もそこで初めて知りました」

「……なにか言ってたか?」

「やけに気にするんですね。思わず妬けてしまいます」

 新の心配が癇に障るのか、凛は頬をぷくりと膨らませて拗ねる。

「納得できないだけだ」

 凛は邪魔ものがいなくなり、少しでも新にかまってもらえることを期待していたが、そうはさせてもらえない状況だとも知っていた。凛は仕方がないと思いながら、新に宛てられた一枚の手紙を渡す。

「これは?」

「さぁ。ただ、兄さんに、とだけ言われましたから」

「それ以外には?」

「いいえ、なにも」

 嘘ではない。つかさは凛に対し、手紙一枚を渡しただけだ。だから、去り際の笑顔が、無理しているようにしかみえなかったこと、その表情がここから離れたくないこと、新のことがほんとに好きになってしまったことが凛には見てとれたが、伝える必要はない。

 新は凛から受け取った手紙に目を通す。そこには、「僕のことは忘れて下さい。お幸せに」と女の子らしい文字が書かれていただけだった。何度も、何度も、文面を確認してもそれ以上の文字はない。

「あのバカロリータが!」

 新は手紙を握り潰して肩を震わせる。黙って出ていったこと。それが最良の選択と思ったこと。なにより、自分がなにもできなかったことに対して新は本気で怒っていた。

 新が誰かに対して、感情をむき出しにするのを凛は久しぶりに見た。

「もう、なにをいっても無駄なんでしょうね」

 凛は呟く。こうなっては自分がなにを言っても止まらない。それで止まるようでは自分の大好きな兄、長田新でない。

 凛にはわかっている。

 今から新はつかさに会いに行く。凛はそれを止めることはできない。自分が新のことを大好きで、いくらつかさのことは放っておけばいいと思っていても、新がそうしたいというのなら自分は手伝うだけ。新が自分のことをどう思っていようが、構わない。自分が新の役に立ち、自分が新を好きでいさせてもらえるならば、それでかまわなかった。

「凛、俺はちょっと出てくる」

 予想通りの行動をとる新が凛はおかしかった。さすが、長田新。自分が大好きすぎる兄だった。

「兄さん」

 慌てて家を飛び出そうとする新を凛が呼びとめる。

「どこにいくんですか?」

 凛はわかりきっていることを聞く。

「あいつの家に決まってるだろ」

 新もきちんと答えた。

「あの子の家は普通の一般家庭とは違うんですよ。今日会いにいってすぐに会えるとは限りません」

「それくらいどうとでもなる」

 新はなんの根拠もないが、自信を持って答える。凛にはもう新にかける言葉はなかった。

 新はいても立ってもいられず、Tシャツに短パンというラフな格好で家を飛び出す。

「………」

 静かになった室内に凛は一人立つ。新はいつまでたってもまっすぐだ。いつの時も、人はそのまっすぐな優しさに救われる。

 けれど、今回はタイミングが悪い。新がただ会いにいっても空振りするだろう。あんな別れ方をしたんだ、会ってくれると思える方がおかしい。それ以前に、新は彼女の家さえ知らない。

 今回こそ、新の優しさが無意味になるかもしれない。そうなった時、新はどうなるだろうか。

 凛は携帯電話を取り出して、アドレス帳を開く。

 新に辛い顔なんてさせない。新の前にある壁を壊すのが自分の役目。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る