2章 お嬢様の心模様は晴れ時々涙 3

「女の最高値が二十七歳だったら、二十八の私はどうしたらいいの? もうあとは下るしかないの?」

 ゆかり先生は教室に入ってくるなりヒステリックだった。どうやら、昨日は昔のドラマの再放送を見て感化されたらしい。

「あぁ、答えないでいいわ。あなたたちには未来があるから聞いても明るい将来像しか出てこないわよね。私もそうだったわ。でもね、覚えておいて。あななたちのピークは今よ。あぁ、けど、こんなこと言われてもピンとこないわよね。私もそうだったわ。今の話は忘れてちょうだい。で、話は変わりますけど、今日も転校生がいま~す」

 ゆかり先生は無理にでもテンションを上げ、半ば自棄に叫んでいた。おかげで、こちらのテンションはだだ下がりだ。

「今日も女の子なんですよ。さっき職員室でお会いましたけど、綺麗な子でした。男子は嬉しいでしょうね。このクラスの女子のレベルはほんと高いですね。もちろん先生も含めてですよ。……なんですか、みなさん? そのお前が平均値を上げてるのは年齢だけだろみたいな眼は。若いのが無条件でいいわけではないんですよ。なんですか。なんなんですか? 出会いの場に行って、高校教師ってだけで寄ってくると思ったら生徒のことばっかり聞いてきて。そんなに若いのがいいんですか? 最高値を過ぎた女はもうダメなんですか?」

 ゆかり先生は生徒の視線に勝手に被害妄想し、一人で勝手に怒っては落ちる涙を堪えている。生徒たちはいつものことに慣れているが、大人の情緒不安定は大変だと心から思う。

「もう入ってもよろしいでしょうか?」

 ゆかり先生の紹介を受ける前に、一人の少女が教室へと入ってくる。

 綺麗な少女の言葉に嘘はなく、落ち着いた雰囲気の美しい少女、略して美少女だった。

 しかし、その容姿よりも生徒の目を引いたのは、学校指定の制服を着ず、頭の上にはホワイトブリム、ネクタイの代わりに大きなリボンタイ、黒いロングスカートに白いエプロンを身につけた姿だった。

 非日常の空間でしか見たことのない姿に、クラスのあちらこちらからはメイドさんだ、メイドさんだと聞こえてくる。

「はい、は~い。みなさん、静かにして下さいね。では、自己紹介してもらえますか?」

 ゆかり先生は軽いハイテンションに戻し、新しいクラスメートに話を振る。少女もその要求に応じた。

「ワタクシ、湊川小雨と申します。そちらにおられます、三宮つかさ様の侍女をしております。スリーサイズは上から89・52・84。今現在、恋人はいません。それ以外は秘密です」

 小雨の自己紹介中の数字に男子はざわつき、それ以上のことを質問する前にじっと小雨のことを凝視していた。

 小雨はゆかり先生に目配せを送ると、担任はにこりと笑い、転校生との交流タイムを終えようとする。

「それじゃ、みんな仲良くするのよ~。若くて綺麗だからっていじめたりしたらダメだぞ!」

 そんなことをするのはあんただけだ。という気持ちを生徒たちは心の内だけに留め、新しいクラスメートを特に男子生徒は歓迎していた。

「今は空いている場所がないから、湊川さんは一番後ろの席に座ってもらえるかな?」

「わかりました」

 小雨はすんなりと頷き、指定された自分の席へと向かう。途中、新の横になったところで、一度立ち止まり、「新様、これからよろしくお願いしますね」と耳元で囁いた。

 新は急なことにドギマギと「あ、あぁ」とだけ答える。彼女はただ顔見知りの人物に挨拶しただけだ。それを意識する方がおかしいんだ。新は自分に言い聞かせるが、挨拶された瞬間、小雨の無表情が一瞬崩れ、これからの生活に期待するほのかな笑顔を浮かべていた気がした。

 しかし、その笑顔はそんな優しいものではないとすぐに知る。

「な、なにしてるのよー!」

 しかし、その行動を目ざとく見つけた少女が一人。それに呼応するように、男子からは「またあいつか」「バナナの皮で足を滑らし、豆腐の角で死ねばいい」「俺、地獄少女に手紙を書いてお願いしようかな?」などといった恨みつらみが聞こえる。

「はい、は~い! みなさん、静かにして下さいね~。静かにしないと、次の席替えで強制的に特別席にしますよ~」

 負のざわめきが教室内を侵食しようかというところで、ゆかりは魔法の一言を口にする。その言葉で室内は瞬時に静かになる。それほど特別席には全員が座りたくなかった。

 誰が好んで教卓の横に備え付けられている無人の机に座りたいと思うか。先生のアシスタントのような場所にたった一人。居眠りすることも、携帯をいじることも、宿題を書き写すことも、誰かと手紙を交換することもできないその場所は罰ゲーム以外のなにものでもない。その席に座るだけで学校生活の六割は損しているとも言われている。けれど、そんな場所はよほどのことがなければ解放されないが、ゆかりはことあるごとに、その席に誰かを指名する。それゆえに、脅迫には持ってこいだった。

「みんな良い子です。それでは、次の席替え時に特別席は長田兄ということで、授業を始めます」

「ちょ、ちょっと、なんで!」

「みんなの総意です。なにより、私の前で恋愛の匂いはさせないでいただきたい」

「………」

 納得はいかないが、ここで自分が引き下がれば話は一段落つく。新は自分の気持ちを殺して、次の言葉を飲み込んだ。


「新、お昼を食べに行きましょう」

 今日も昼休みになるなり、つかさが声をかけてくる。昨日と違うところは話し方くらいか。

「いや、俺は」

「いいから、行くんです!」

 あまり乗り気のない新をつかさは強引に引っ張る。

「では、食堂に参りましょう」

 つかさが動き出すのを見て、小雨は話しかけてきたクラスメートを断ってから近づいてくる。

「小雨は来なくていいですよ。クラスの皆さんと話していて下さい」

「ワタクシはお嬢様の侍女です。お嬢様のそばにいるのが仕事です。ですから、お嬢様の動向は常に気にかけています。ワタクシがかまってくれないからって、そんなに拗ねないでください」

 つかさはなにも言わない。新からも手を離し、不機嫌を押し殺している。

「お前、どうしたんだよ?」

 小雨を過剰に意識しているつかさを新は心配しているが、当の本人は「どうもしてない」と、突っぱねる。

「小雨さんもお前を心配してるんだろ? そんなに邪険にしてやるなよ」

「新も小雨が大事なのか?」

 つかさは新を見上げて聞いた。新までそんなことを言うのかと思った。

 いつもそう。いつもみんなは小雨だけを認め、自分のことを気にしている演技をしていた。今日だってそうだ。自分が人慣れしないで新としか話せない中、小雨はすぐにクラスに溶け込んだ。無表情だからか、本人があまり楽しんでいるようには見えないが、彼女の周囲は笑顔で溢れている。

 新しいもの好きの高校生。昨日は自分に話しかけてきたクラスメートも、今は会話して楽しい、見て保養される小雨に注目は移っていた。

 今もそうだ。新を困らせているのは僕で、それをなだめているのが小雨。そんな視線をクラスメートから感じてしまう。

「お嬢様はお優しい方ですから、そんな被害妄想をする必要はありませんよ。新様だって、お嬢様のことを心配しているからこその言葉です」

「うるさい! もういい、僕は一人で食事をする」

 小雨のせいじゃないのはわかっている。今だって、小雨は僕の心配をして、言葉をかけてくれているのも知っている。

「待って下さい、お嬢様。ここで外に行ってはいけません。お館様の言いつけをお忘れですか?」

 けれど、小雨は自分と同じくらい仕事のことも大事に思っている。つかさは小雨が自分のことをどう思っているのか、本心を知りたいようで、知りたくなかった。

「仕事と私、どっちが大事なの?」と聞けば、「両方」と小雨は答えるだろう。そして、言葉通り、どちらも同じだけの愛と責任を持って接してくれるだろう。

 だけれども、自分を想ってくれているからこそ仕事を大事にするのか、仕事が重要だからこそ自分を大事に想ってくれているのかを知りたいのは自分のわがままだと知っていながらも考えずにはいられない。

「今、ここで教室から出ていって、誰の得になりますか。正直なところ、今日のお二人を見ていると夫婦どころか、友人にも見えません」

 小雨は昼休みまでの客観的事実を述べる。休み時間も、授業中もつかさは話しかけるタイミングがわからないのか、新と距離をとっているように見えた。あまりに軽はずみな行動は賞されたものではないが、もっと積極的にならなければ、周囲に認められない。体育の移動時間や、凛による新の連れ出しがあったとしても、つかさの行動は小雨にとって物足りないものだった。

「だって、ぼ、私は」

 つかさは泣き言を言いたくなった。今まで自分から他人に話しかけたことなんてない。昨日は無理をしていたなんて弱音を吐けるわけもなく、小雨の、知人のいる前で昨日のような行動をとって幻滅されないかも不安だった。

 ここで、今の率直な気持ち、不安を吐き出せば、どれほど肩の荷が楽になるだろう。けれど、そんなことをしても自分が幸せになれないことは知っている。今、肩の荷が下りても、その荷物はより重くなって、また背負わなければいけないことも知っていた。

「もっとべったりして下さい。お嬢様は新様を骨抜きにしないといけないんです。幸い今は凛様がおりません。こういうチャンスはモノにしないといけませんよ」

 つかさは覚悟を決めた。小雨も少しくらいの積極性は許容すると言ってくれている。

 そうだ、僕はなんのためにここにいるんだ?

 つかさは父親からの言いつけを思い出す。このままでは父親の言いつけも満足にこなせないとレッテルを貼られ、用無しの自分では、三宮でなければ、小雨も自分から離れてしまうかもしれない。

「わ、わかりました」

 つかさは本から得た知識を総動員して、新の腕に自分の身体全身を融合させるように抱きついた。

「お、おい!」

 いきなりの行動に新も面くらい、男子は羨ましい光景に呪詛を唱える。

「お願いです。ずっと、このままでいて下さい」

 つかさの切実な懇願に新も手を振りほどけない。その優しさもつかさの気持ちを不安定にさせる一つの要因であることに誰も気づかない。

「嫌なんですか? 私のこと嫌いなんですか?」

 抱きつかれた新の表情が困惑であることにつかさも気が気でない。

「いや、そういう問題じゃなくてさ」

 相手の不安を打ち消そうと、新は笑みを作るが、人の機微に聡いのは自分だけではない。つかさだって、社交の場で大人たちの策略の中を生きているのだ。一高校生の作り笑顔など見抜けないはずがなかった。

 やっぱり、僕のことが嫌いなんだ。けど、僕には失敗なんて許されない。

 つかさは一人で悩み、これからどうすればいいのかがわからない。

「そうです、お嬢様。お嬢様の洗濯板を押しつけられるのもマニアな新様にとっては極上のご褒美です。それに、お嬢様のお人形を超える美しい顔を近づけられれば新様はイチコロです」

 小雨のとんちんかんなアドバイスをつかさは正直に聞いた。

 もっと新に近づけばいいのか。どのくらい? 顔がひっつくくらい近く? これ以上強く抱きしめる?

 つかさは恥ずかしさよりも、使命感の方が先に来ている。今は、自分の未知の世界に飛び込むことも辞さない気分になっている。

「あ、新」

「お前、そんなに近づくな」

 新はつかさを振りほどけない。それをつかさは自分を好きでいるからだと決めつけた。

「私たちは夫婦なんです」

「お前がなんでそのことに固執してるかはわからないけどな、そんな辛そうな顔をするな。お前はもっと堂々としていた方がいい」

 自分が今、どんな表情をしているのかを自分ではまったくわからない。けれど、今の自分が辛そうなんて、間違っても誰かにいわれるのはごめんだった。それでも、文句は言わない。必死で誰もが見とれる百万ドルの笑みを作った。

 けれど、新にはどうしてもつかさが笑っているようには見えない。

 悪いことだとはわかっているが、新は自分の手の平をそっとつかさの胸に当てた。

「ヒャッ」

 相手の突飛な行動につかさも驚くがそんなことで密着を解いてはいけない。

 ――僕はこうすることしかできないんだ。僕が僕でいるためには新に選ばれなければ意味がないんだ。

 新の脳内には切実すぎるつかさの思考が流れ込んでくる。と同時に二葉に言われたことを思い出す。

 つかさは自分の意志で自分に近づいたわけではない。ただ、それ以外に選ぶ道がない、選択肢がないという状態なんだと思う。けれど、それを不幸だとは思っていない。どんなことであろうと、自分が幸せと思えば幸せなんだと考えているようだった。

 俺にしかできないことかもな。

 決意したけれども、新の意識は限界に近づいていた。

「お前の笑顔を見せてくれよ」

 そう言うので精いっぱいだった。華奢な身体から伝わる冷ややかなその体温。女の子特有の鼻孔をくすぐる甘い香り。意識はそこでプツンと切れ、力なくつかさにもたれかかる。

「え、ちょ」

 男の子の体重をつかさは支えることができず、新がつかさを地面に押し倒す格好になってしまった。

「え? どうしたの? ちょ、ちょっとほんとにどうしたの!」

 つかさはあまりの展開に慌てる。男子に押し倒されたからではない。新の意識が急になくなってしまったからだ。

「あらあら、昼間から大胆なことですね」

「そ、そんなこと言ってないで、早く、新を保健室に!」

 なにも知らない小雨はその光景に微笑むが、つかさの表情からは切実さが消え、ただ慌てふためいていた。

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