2章 お嬢様の心模様は晴れ時々涙 2

 午前七時。携帯のアラームが鳴る前につかさは自力で目を覚ました。

 寝起きは良い方なのか、布団の中でまどろむこともせずに、身体を起こし、伸びをしながら眠気を覚ます。

 昨日ははしゃぎすぎたせいか。新しい場所、新しい寝具であったが、ぐっすりと眠れた。

「さて、どうしようか」

 身支度を整えてもまだ時間がある。余裕を持った行動は淑女の嗜みだ。

「しょうがない。新でも起こしにいくか」

 手持無沙汰は面白くないと、つかさは軽く身だしなみを整えて自分の部屋を出た。昨日までとは違い、朝が楽しいと感じることを不思議に思わないほど、今に集中していた。

 足取り軽く、新の部屋へ向かうと、ノックもせずに部屋の中へ押し掛ける。

 新はまだ眠っていた。アラームが鳴った形跡もないところを見るに、普段からこの時間はまだ寝ているのだろう。その寝顔はどこか優しく愛くるしい。つかさは、ずっとその顔を見ていられるとも思ったが、新を早く起こして、話をしたいという欲求が勝った。

「おはよう」

「………」

「おはよう」

「………」

 つかさが声をかけても新はなんの反応も示さない。もう一度、今度は少し声量を上げて呼びかけるが、新は一言うめきながら寝返りを打つだけで意識を取り戻すことはなかった。

「さて、どうしようか。夫を起こすのも妻の役目と聞いていたが、これ以上時間を無駄にするのももったいない。かと言って、これ以上の大声は淑女である僕にとっては難しい」

 つかさは腕組みをしながら考える。

「仕方ないか」

 思い立ったように近くに立てかけられている一冊の辞書を引っ張り出し、新の腹上に、「えい!」と勢いよく投げおろした。

「ぐげぇ」

 ズシンという音と同時にカエルを潰したような声が響く。

「おはよう」

「………」

 新も目を覚ましたが、つかさの挨拶を返すことはできない。いきなりの激痛にまだうずくまって、声なき声を上げている。

「まだ起きないか。仕方がない」

 挨拶も反応もないことを面白く思わず、つかさは転がっている辞書を拾いなおして、もう一度頭上に持ち上げる。

「ちょ、ちょっと、待て!」

 不穏な気配を察知し、新はつかさの方こそ向けなかったが、手のひらを向けて、声を振り絞りなんとか次の動きを制する。

「ようやく起きたか、この寝ぼすけめ」

 新は悶絶した表情のまま口の端を釣り上げて満足気な笑みを浮かべる許婚を見上げた。

「お前、起こし方がおかしいよ」

 つかさの非常識な起こし方に文句を言うが、相手は「僕に甘い想像を期待するなよ。それに痛みを伴うのは新にとって、むしろご褒美なんだろ?」と、へんな性癖を押し付けられてしまった。

「そんなわけあるか。あ~ぁ、いい夢見てたんだけどな」

「ほう、それはどんな夢だ?」

「なんか、水着姿の女の子とイチャイチャする夢。なぜか、セピア色だったけど、それはそれでよかった」

「なんだ、だったら、僕を見るがいい。夢の中に現れる極上の美少女以上の存在が目の前に三次元でいるぞ」

 自分以外の女の子の話はおもしろくなかったが、夢の中にまで嫉妬はしない。つかさはいつもの装飾華美な衣装のスカートを押さえながらひらりと一回転し、自分の美しさを相手に見せる。新はぼーっとその姿を見ていた。

 急に目を覚まされたといっても、まだ寝起きに違いない。普段は数度のアラームで徐々に意識を覚醒させる新は今も夢と現実がごちゃごちゃしていたのか、つかさの全身を眺め見た後、「俺、やっぱ、胸が大きい方が好きだな」なんて、失言をかましてしまう。

「………」

 つかさはにっこり笑っていた。

「へ~、そうなんだ~。新くんは胸の大きな女性が好みなんだ~」

「いや、今のは俺の本音じゃなくてだな」

 訂正なんてもう遅い。ワナワナと怒りに震えたつかさは「永久に寝てしまえ!」と、思い切り振りかぶって辞書を投げつけてきた。


 つかさをなだめるのに少々時間がかかってしまった。

「僕はまだ怒ってるんだからな」

「わかってるよ。だから、何度も謝ってるだろ」

「ふん、誠意を感じないよ、誠意が」

 つかさの怒りはなおも落ち着かないが、二人でリビングに向かうと、つかさの意識は強制的に別の方向へ向けさせられた。

 そこには一人のメイドさんがいた。今では一度くらいはどこかで見たことのあるロングスカートのエプロンドレスに身を包んだ、見間違いようのない、可愛らしいメイドさん。

 真っ白なクロスの敷かれたダイニングテーブルに、食器を並べる仕草もこれぞメイドさんというもの。

 そのメイドさんは低血圧なのか、どこか眠たげな顔で、こちらに気づくと「……おはようございます」と、その顔に違わぬぼうっとした声で挨拶をしてきた。

 メイドさんの肌は病弱なほどに青白く、どこかゆっくりとした動作もあいまって不健康そうに見える。あどけなさは残るが整った顔立ちに、あまりジロジロとは見られない。理由は簡単で、その少女のプロポーションが目のやり場に困るほど、刺激があったからである。

「ど、どうして、君がここにいるんだ!」

 少女のことをつかさは見知っているらしい。そして、つかさも彼女がこの場にいるのが不思議だったようで、表情もどこか余裕がなくなっていた。

「おはようございます、お嬢様。どうしてと聞かれましたら、お館様の命によってと答えるしかありません」

 彼女はこくびを傾げながらつかさの質問に答えた。

「お父様の?」

 その単語につかさの血の気は引く。「僕は間違ったことをしていない」「僕は失敗していない」とこちらが心配になるほど呪詛のように同じ言葉を繰り返し呟く。

「お、おい。大丈夫か?」

「あ、あぁ。……大丈夫だ」

 まったく大丈夫そうには見えないが、本人の言葉を新はくみ取るしかない。

「はじめまして、長田新様。自己紹介が遅れて申し訳ございません。ワタクシ、三宮つかさ様のお世話をしております湊川小雨と申します。以後、お見知りおきを」

 小雨と名乗るメイドはつかさの心配はせずに、表情を変えず新に自己紹介をしてから一礼した。

「あ、あの。湊川さんはどうしてここに?」

 三宮のお嬢様ならお付きの者くらいいるとは思っていたが、いざ目の前に現れられると、つかさと同様になぜ? と、聞きたくなってしまう。

「新様? あなた様はお嬢様の婚約者。ワタクシのことは気軽に小雨とお呼び下さい。それに、ワタクシ、自分の名字はあまり好きではありませんので」

 自分はこの家のお客さんではない、使用人であるのだから、気兼ねなく以下の態度を求める。それは小雨にとって、質問を答えるより優先すべきことだった。

「わかりました。小雨さんはどうしてここに? 俺にもわかるように、経緯と現状を教えて欲しいんだけど」

 こんなところで、女性を名前で呼ぶなんてことはできないなど言えない。こういう手合いは簡潔に要件を話させないといけないことを新は知っていた。

 しかし、小雨と新が呼んだ瞬間につかさは小さく「えっ?」と問いかけるが、新は取り合わない。

 小雨も自分の立場が決まれば、家主の質問に答えないわけにはいかなかった。

「お嬢様は一人でも身の回りことはできますが、それでも三宮家のご令嬢。お館様はお嬢様を心配し、侍女であるワタクシも長田家へ赴くようにと仰いました」

「そんな過保護な」

「お嬢様は三宮の肩書を背負っています。その恩恵に与ろうと、どこで善からぬ人間がお嬢様を狙っているかわかりません。間違いが起こってからでは遅いというお館様の親心です。もっとも、お嬢様と新様は夫婦ですから、間違いの二つや三つは起こしてもらってかまいません。もちろん、お嬢様を泣かすような間違いは許しませんけど」

 無表情の割によく話すメイドだ。新はこれ以上厄介者を家の中に入れたくはなかったが、小雨の行動に思わぬ人物がストップをかける。

「心配の必要はありません。私も法律上、結婚できる年齢になりました。もう、小雨に面倒を見てもらわなくても、私は一人でいられます。それは、あなたも先ほど認めてくれましたよね?」

 つかさは小雨の申し出を退ける。しかし、その話し言葉は昨日から新が見ていたものとはどこか違っていた。

「それはできません」

「どうしてですか? 私の言うことが聞けないのですか?」

「ワタクシはお館様の命により、お嬢様に仕えるように言われています。なので、お館様の言いつけより優先しないといけなくなってしまうようなお嬢様の命令は聞けません」

「そうなんですか。どうしても、私のいうことは聞けないのですか?」

 つかさは厳しい表情に変わった。ずっと一緒にいた、いつも近くにいてくれた少女の話し方が自分と同じほどに気にくわない。

「内容によります」

「それなら、私のところに来た、本当の目的はなんですか?」

「お嬢様が新様と上手くやっているかどうか、お嬢様が新様を上手く操縦できるかどうかを確認してこいと命を受けています」

「それは言えるのね」

「言うなとは言われていませんので」

 小雨は平坦な口調で重要なことを言う。

「安心して下さい。私と新はラブラブです。これで、満足ですよね?」

「そんな言葉を信じてワタクシが帰ると思いますか?」

「……このわからずやめ」

 つかさは誰にも聞こえないように舌打ちをする。そして、新に近づき、そっと耳打ちをした。

「お願いだ。まだ慣れていないと思うが、今日だけは僕に合わせて欲しい」

「どういうことなんだよ」

「……お願いだ」

 切羽詰まるつかさの声に新はなにも言わずに味方することを決めた。

「大丈夫ですよ。俺たちは仲良くやっています」

 新は笑顔で小雨に話しかけるが、「とてもそうとは見えません」と訝しがられる。ヒソヒソと会話した後の言葉では当然の反応だろう。

「少なくとも、仲良く抱き合ってキスくらいはして頂かないと」

「キ、キス!」

 小雨の言葉につかさの方が大きく反応してしまう。すぐにはっとなり、口元を引き締めるも、まるで絵の具で塗ったと錯覚するほど、頬が一瞬で真っ赤になれば、なにも隠せていない。

 小雨はにやりともせず、小馬鹿にもせず、淡々と話を続けた。

「若い二人ですから、それくらいは造作もないことでしょう。さっ、早く、ちゅっちゅ、ちゅっちゅしてみてください」

「そ、そんな軽々しくできるわけない、です。私たちは昨日、一昨日会ったばかりだし、初めては大切な人としたいし」

 昨日とはまったく違う、オロオロとしたつかさ。昨日は自分から新にモーションをかけたが、知人の前では思うところがあるらしい。その態度の変化に新もどう対応すればいいのか迷ってしまう。

「おかしなことを言いますね。昨日会ったばかりでもお二人は夫婦のはず。キスもまだなのは意外でしたが、お嬢様にとって、新様は大切な人であるはずです」

「そ、それはそうだけど」

「それなら問題ないはずです」

「……わ、わかった」

 小雨の言葉につかさは意を決し、新に顔を近づける。

「お、おいちょっと待てよ」

「ごめん、事故だと思え」

 つかさの強引な行動を止めようとするが、相手の切実過ぎる表情に、強く拒否はできない。

 もう少しでお互いの初めてが成立する、と同時に新の意識が朦朧としてきた時、「なんか騒がしいんですけど。もしかして泥棒猫がなんかしてきた」と、朝一番にしても元気すぎる声で、凛はリビングへと駆け足で、突入してきた。

「なにしてるんですか?」

 抱き合っているように見える二人に対し、凛は一段と冷えた視線を向けてくれたおかげで、新は本能で危険を察知し、すばやくつかさを引き離した。

「や、やぁ」

 ぎこちない仕草で右手を挙げるが、そんなことではまったくなにも解決はしない。

「こんな朝から、二人はなにをしようとしていたんですかぁ?」

 凛の敵意ははっきりとつかさに向いていた。凛がつかさに詰め寄ろうと一歩近づいたところで小雨が間に割って入る。

「はじめまして」

「あなた、誰?」

 凛は見ず知らずの少女を睨みつける。相手にどう思われようが、凛の優先順位はあの時から変わっていない。

「ワタクシは三宮つかさ様の侍女、湊川小雨と申します。気軽に小雨とでもお呼び下さい」

「じ、じじょ? 次女? 妹さん?」

「あなたが考えてる漢字とは違いますよ。メイドと言えば理解できますか?」

「う、うるさいわね。わかってたわよ」

 間違いを指摘され、凛の顔は紅潮する。先ほどまでの鋭利な怒気はなりを潜め、新はほっと一安心したのも束の間、「凛さんはもう少し賢くなるべきです。私の妹になるのならなおさらです」

 なんて、つかさが凛を挑発してしまっては、凛の怒りはぶり返す。

「あんたの妹になんてならないわよ。絶対にこの話はなかったことにするんだから」

「それは不可能ですよ。お父様の決定は絶対です」

「それになんなの? そのしゃべり方。気持ち悪いわよ」

 新も気になっていたことを凛はズバりとついた。それに動揺したのはつかさ。

「わ、私はいつもの話し方です。おかしなことを言わないで下さい」

「なんで猫かぶってるのよ。知合いの前ではいい子ちゃんなわけ?」

「私は常に、誰の前でも完璧な淑女です。そんな中傷は止めて下さい」

 つかさの動揺を見逃さず、「お嬢様?」と、小雨は呼びかける。

「あ、あのですね。凛さんが言っているのはなにかの間違いで、私は、ちゃんと、していましたよ」

 言い訳じみた物言いにつかさは失敗したと思う。これは大人しく言われるままにしようとつかさは相手の言葉を待った。

「お嬢様?」

「……はい。なんでしょう」

 息を飲む。こんなことがお父様に知られては。

「ワタクシは喜んでいるのです」

 能面のまま、抑揚なき声ではまったく実感が伝わらないが、つかさの心配は杞憂であった。

「お嬢様が会話をなさっていることにワタクシは驚いているのです。お屋敷にいた時はお人形のように動かず、話さずであったお嬢様がきちんと人と会話をなさっているなんて。あの無気力、無関心、無責任、無感情、無感動のお嬢様が人と会話をなされているなんて喜ばしい限りです」

 小雨の言葉は馬鹿にしているようにしか思えない。つかさは「僕はそんな駄目人間じゃない」と、小さく文句を言う。

「ですが、お嬢様。どうでもいい方に対しては、砕けようが、高圧的な態度を取ろうが構いませんが、普段からそういう話し方をなさっていると、とっさの時に困ります。お嬢様は演技があまりお上手ではないので、いつかぼろが出てしまいます。お嬢様の一挙手一頭足はすぐさま三宮の評価に繋がりますので、気をつけてください」

「わかっています。私はお父様の求める三宮になります。だから、安心して私のことは放っておいてもらえないでしょうか」

「それはできません。ワタクシはお嬢様のメイドです。つかず離れず、今日からは同じクラスで勉学中もご一緒させて頂きます」

「えっ、同い年だったの?」

 落ち着いた物腰から、年は離れていないにしても、先輩に当たる人かと思った。年下に見える同い年のつかさと一緒にいるのもそう感じた理由の一つであるが、新が思わず口をついた言葉を小雨は見逃してくれない。

「なんですか? 同い年にみえませんか? 十七歳(笑)とでもいいたいのですか?」

 過去に失礼な間違いでもあったのだろうか、禁句でも言われたかのように、小雨は失言した新に詰め寄り、理由を求める。

「いえ、なんでもありませんよ。そういや、もう、学校に行かないといけない時間じゃないか。俺は先に出発しておくよ」

 白々しい演技であったが、こういう時は話題と場所を変えるしかないことを新は知っている。

「あ、私も行きます」

 つかさもタイミングよく、その提案に便乗し、先に家を出る新を追いかけた。

「ま、待ってよ」

 つかさの声が聞こえて、新は一度立ち止まる。彼女が追いついたのを確認してからもう一度歩きだす。

「あ、あのですね」

 歯切れ悪く話を切りだそうとするつかさを新は制して、「俺の前ではいつもの話し方でいいよ。そっちの方がお前らしい」と、告げた。

 いきなりのことに、少女は立ち止まってしまう。胸のドキドキが増したのは、小走りしてきたからではないだろう。

「……そうか、……ありがとう」

 つかさは恥ずかしくて面と向かっての感謝は言えなかったが、嬉しそうに新を追いかけた。

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