1章 許嫁ができました 2

「兄さん、兄さん。起きて下さい」

 新の朝は妹の凛に起こされて始まる。フローリングの上で放置されていたせいか、身体の節々が強張っており、どこか喉の調子も悪い。

「着替えもしないでそんなところで寝てると風邪を引きますよ」

 誰のせいだよ、と、文句の一つも言いたくなるが、普段家のことを任せているため強くは言えない。

「そういえば、あいつはどうしたんだ?」

 新は伸びをしながら、一人の少女のことを凛に聞いた瞬間に、その場の空気が凍りつく。

「兄さんは、誰のことを言っているんですか~? この家には私たちしかいませんよ~」

「そ、そうか」

 凛の機嫌を損ねないために、新はそれ以上の言及を避けた。どうやら、つかさはいったん自分の家に戻ったようだった。

 その事実に、新もほっと一息吐く。朝からドタバタとするのは嫌だ。昨日の出来事が夢であればいいのにというのは都合がよすぎるが、今日くらいは安穏な一日を過ごせると思っていた。

 それなのに、あぁ、それなのに。

 唯一の安全地帯と高をくくっていた。同い年、あれだけ目的を遂行することに積極的な少女がどうして同じクラスに転入してくるといった王道の展開を予想しなかったか。

 目の前には自分の日常を壊しに来た少女がクラスメートに大歓迎されて立っている。その笑顔が策略めいたものに見えるのはおそらく自分だけだろう。

 文字通りの美少女に湧きたつ男子、お人形のように愛くるしい少女に黄色い悲鳴を上げる女子。頭を抱える新と視線で人を殺せそうなほどに睨みつけている凛。

「はい、みなさん。静かにして下さいね。では、三宮さん、自己紹介お願いします」

 担任の板宿ゆかりは騒がしい教室内の一瞬の息継ぎを見計らって、次のプログラムへと移行する。ただ騒ぐだけでホームルームを終わらせてはいけない。さすがの年の功。伊達にアラサーと呼ばれていない。いや、本人の前でそういうことを言おうものならアイアンクローで脳天を握りつぶされるのがオチであるが。

 つかさはクラスメートに対しにっこりとほほ笑む。教室内はアイドルに魅了された崇拝者よろしく、彼女の声を聞こうと思わず息を飲んで静かになる。

「僕の名前は三宮つかさ。三宮グループの令嬢であり、今日からきみたちのクラスメートだ。僕と同じ空気を吸えることに感謝するがいい。よろしく頼むよ」

 つかさの高圧的な物言いに新はクラスメートの反応がどうか不安を覚えたが、その心配は杞憂に終わる。

「強気っ子キターーー!」

「つかさタン、かわいいよ、ハァハァ」

「見た目幼女の女の子に罵られるとかむしろご褒美です」

 男子はその、どこか愛情の向け方がおかしいが歓迎ムード。

「三宮ってあの三宮? すごい、友だちにならなきゃ」

「なんてテンプレなお嬢様なの、下につかなきゃ」

「クァイィ! 蝋で固めて、私だけのお人形にしたい」

 女子は三宮という冠にさらなるトキメキを覚える。若干、危険な子がいないでもないが、このクラスはそういうクラスだったなと、新は苦笑する。

「けど、下手なことは言わないでくれよ」

 このままなにごともなくホームルームが終わって欲しいという、新の神への祈りは、残念ながらものの二秒で潰された。

「では、三宮さんの席は」

「僕の席は新の横にして欲しい。なんといっても、僕と新は許婚同士だから一緒にいないといけないんだ」

 隠す気はないらしい。もともと、隠し通せるとは思っていないが、神様、少しくらいは俺の言うことを聞いてくれても罰は当たらないよ。とか、考えたせいか? そのせいか?

 当然、許婚という響きにクラスメートは全員色めき立つ。

「どういうことだ、あの新に許婚だと?」

 一瞬で歓喜の空気が怒気に変わり、男子は新に向けた嫉妬を隠そうともしない。

「あの、愛と勇気だけが友だちで、それゆえにパンパンな丸顔にしか興味のない新に許婚だと?」

「あの、ボールは友だちで、それゆえに、お腹パンパンの雪だるま体型にしか欲情できない新に許婚だと?」

「おい、俺に変な設定をつけるな」

 今まで黙っていた新もさすがに、自分に火の粉が飛んでこようものなら、叫ばずにはいられない。

「新も僕と同じロリコンだったのか。ちくしょう、これじゃ、僕のクラスでのアイデンティティがなくなるじゃないか。けど、不思議だな、悔しいはずなのに、同じ友が身近にいるってことで嬉しい気持ちにもなってくるよ」

「俺はロリコンじゃない。涙を浮かべながら、いい笑顔を向けるな。俺は、そうじゃない」

「僕はちっちゃくない。ただの美少女だ」

 身体の幼さを指摘された時にだけ、つかさはむきになって反論する。しかし、女性の平均身長よりも頭一つ分小さいつかさの背伸びする姿に女子は「カワイーーー!」と、より、愛玩動物として愛でる視線を向ける。

「学園のアイドル、夢にまで見た妹だけでなく、同い年の幼女にまで手にかけるとは。……嫉妬で人が殺せるならばお前はもう死んでいる」

 普段から、凛という妹と一緒にいることで、嫉妬は向けられるが、やはり慣れるものではない。新はなんとか視線を逸らそうとした時に、タイミングよく、つかさが声を出して注目を集めた。

「だから、僕は幼くない。可愛いよりも綺麗な美少女なんだ」

 そういって、つかさは新の元に近づき、新をぎゅっと抱きしめる。急な出来事に新も「お、おい、なにするんだにょ」思わずどぎまぎしてしまった。

「ほらみろ、新は僕の魅力にメロメロじゃないか。新がロリコンでないのなら、動揺するのはおかしいはずだ」

 むきになるところも子供っぽさを強調させているのだが、それをつかさはわかっていない。そして、つかさの行動は、新の望むものではなく、男子の嫉妬を加速させただけだった。

「新も僕のこと、好きだろ? ほら、うんって言ってくれよ」

 新に抱きついたままイチャイチャとした会話を交わす。衆人の前でもお構いなしの行動に、青少年たちの嫉妬も爆発しそうになる。その感情は一人の代表者が大きな声で代弁した。

「私の前でいちゃいちゃするな~!」

 のほほんとした雰囲気だったゆかりが、教卓をバンバン叩きながら、急に癇癪を起こす。

「三宮さんは教卓の前に座って下さい」

 ゆかりに睨まれたつかさも思わず新から距離を取る。

「でも、僕は新の横の席がいいと」

「なにかいいましたか? 学生の本分は勉強です。恋愛なんかにうつつを抜かしていてはいけません」

「僕は三宮の」

「この教室内では私が法律です。私の前で、イロコイでとろけた表情をすることは許しませんよ」

「でも」

「………」

 つかさが文句を言おうにも、無言の圧力を受ける。

「………」

「………」

 その瞳からは強い意志を感じられた。

「………」

「……わかりました」

 ゆかりの有無を言わさぬ重圧に、さすがのつかさもおとなしく引き下がざるをえない。

「あのね、ゆかりちゃんは彼氏がいないから、あんまり目の前で幸せオーラ出さない方がいいよ」

 溜息をつきながら、渋々指定された席に座ると、隣に座る少女がそっとつかさに耳打ちしてくれた。

「そうなんだ。綺麗な先生なのになんでだろう」

 見た目は悪くない。自分の芯もきちんと持って、礼儀知らずな感じもしない。教師という安定職業なのだから、相手に困るようには思えないが。

「それはね、ゆかりちゃんは」

 言いかけたところで、つかさでもたじろくほどの圧力の矛先が変わった。その先を言わせまいという強い意志がある。

「あ、あのね」

 それでも少女は言葉を続けようとするが、向けられる圧力は時間とともに増していく。

「……なんでもないよ」

 最後には消え入りそうなほどに力ない声で話を切る。

 つかさも追及することはしない。理由を知れないことはまったく残念ではなかった。

「では、すべての幸せそうな男女の家が欠陥住宅であればいいと願いながら今日の連絡事項を伝えます」

 あぁ、たしかにちょっと残念だな。

 つかさだけでなく、クラス全員がそう思った。

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