1章 許嫁ができました

 今日の教室はどこか弛緩した空気が流れていた。

 理由は単純だ。

「今日、このクラスに転校生が来るみたいだぞ」

「らしいな。しかも、どこか有名な社長令嬢で、ものすごい美人らしい」

「楽しみだなぁ」

 耳をすませば聞こえてくるクラスメートの雑談。新しい仲間、それが美少女と噂されれていればいやが応でも期待は高まる。それは担任の板宿ゆかりが教室に入ってきても、ソワソワが収まらないどころか、ざわめきはよりいっそう強くなった。

「はいはーい、みなさーん、静かにしてくださいね~!」

 アラサーの担任は軽く注意をしながらも、生徒の気持ちを理解しているのか、「さて、みなさんも知っていると思いますが、今日はこのクラスに新しいお友だちがやってきます」と、本題を口にする。いよいよの瞬間に教室内の好奇心もよりいっそう高まった。

「ではでは~、三宮さん。入って下さい」

 担任の声に反応して、三宮と呼ばれた少女が扉を開けて入ってくる。

 黒々としたショートスカートにフワフワしているブラウス。黒と白の二色しかないがその対比が映えるいわゆるゴスロリファッションに身を固めた小柄な女生徒が、堂々とした歩みで教壇の前に立ち、にこりと笑う。

「うおーーー!」

 制服着用の校則はどうした。ちょっと身体つきが幼すぎないか? なんてことはどうでもよく、お人形さんのように小さく整った顔立ちと長く真っ直ぐな黒髪。美少女と呼んでなんら違わぬ容姿に男子はおろか、女子までもが「カワイイー!」との歓声をあげる。ちょっと綺麗だけな女の子であれば、反感を買うこともあるだろうが、彼女のように自分よりも優れた容姿、綺麗というよりも圧倒的に可愛いと言うべき体躯であればいかなる女子も寛容なものだった。

 少女は自分に向けられる歓声に気を良くしているのか、「クキキッ」というその容姿には似合わない独特の笑い声と小悪魔的な笑みを浮かべた。

 それでも、そんな仕草も可愛らしく見える。クラスメート全員が一瞬でチャームの魔法にかかる中、「どうしてなんだよ」と、長田新だけは頭を抱えていた。

 こんな気持ちになっている理由の発端は昨日にさかのぼる。

 新がいつものように学校から家に帰ると、珍しく父親に呼ばれた。制服のまま、たっぷりと二十人は入る大広間に向かうと、そこには父親の二葉が和装姿で待っていた。

「今日はお前に大事な話がある」

 普段はおどけた調子で人の話もろくに聞かないような男が、似合わない神妙な顔つきで話し始めた。

 この表情は以前に一度だけ見たことがある。さすがに、姿勢を正して、親父の前に座り、次の言葉を待った。

 二葉は新の瞳を直視しながら「お前ももう十六になった。そろそろ将来のことを考えてもいい時期だろう」と、ゆっくり話し始める。

「……将来」

 その言葉を反芻してしまう。もし、クラスメートと将来について話しても、漠然と進学か就職か、あるいは途方もない夢を語るとかまだ実感ないふわふわした会話になるだろう。新だって、できることなら先送りにしたい話題でもある。

 ただ、長田新に関しては他と少し事情が違う。

 長田家と言えば、この地区では名の知れた旧家でもある。今時珍しいだだっぴろいだけの日本家屋に住んでいるだけでも周囲の友人からは感嘆されてしまう。

 今では、特に地区の代表者というわけでもないのだが、昔の当主がさぞ立派な人物だったのだろう。周辺の住民は長田家の人々の進路をわが子のことのように気になっている。

 普通なら、今さら家のことを考えて将来を決めるなんてことは古臭い考えだと糾弾でもしそうになるが、新にはそう言っていられない理由がある。

「もちろん、考えてはいるさ。ただ、どこに進むのが一番いいのかは見えていないけどさ」

 正直に、今の想いを吐露したが、二葉は「いやいや、そんな重い話をしようってわけじゃない」と、表情を崩す。

「お前、恋人なんていなかったよな?」

「はっ?」

 思いもよらない質問に、間の抜けた反応をしてしまう。

「で、どうなんだ? 付き合っている子はいるのか? 気になる女子はいるのか?」

「いるわけないだろ。それに、俺は女子とは付き合わない」

「なに、かっこつけてんだよ。付き合わないんじゃなくて、付き合えないんだろ。お前の体質的に」

「うるさいな。それはおいおい改善していくよ」

 さっきまでの真面目な雰囲気はなんだったのか。二葉にはやっぱり、もうなにも期待しないほうがいいのかもしれないと改めて思った。

「だから、俺がお前に許嫁を与えてやろう」

「なにを言っているんだ?」

 いきなりの話題に頭の中の整理は追いつかない。

「今日から女の子が一人、この家にやってくる。俺は空気を読んで、これから世界一周してくるから、優しくしてやれよ」

「いや、いきなりそんなことを言われてもだな」

「じゃ、そういうことで」

 二葉は言いたいことだけ言って、すぐさま立ち上がると、和服を脱いだ。その下は、軽装に身を包まれており、荷物も持たずに障子を空けて出て行こうとする。

「ちょ、待てよ!」

「わ~はっはっは、あとのことは任せたぞ」

 二葉は嵐のように、困惑だけを残して出て行った。

「……どうすりゃいいんだよ」

 二葉の放浪癖は今に始まったことではないので、家のことは妹の凜と一緒であればなにも問題はない。問題があるとすれば、許嫁という言葉の方か。

「今、僕のことを考えていてくれたのかな?」

 不意に横から声を掛けられる。

「クキキッ、まぬけな顔だな。あまり僕には相応しくない」

 そこには、思わず視線を下げてしまうほどの小さな少女がしたり顔で立っていた。

「おいおい、いくら僕が美しすぎるからといって、見とれてばかりでなくなにか言ってくれないか? きみの父親から聞いていただろ、このタイミングで僕が登場するのは偶然じゃない。僕がきみにとって何者なのか、鳥以下の記憶力とショート寸前の思考回路でなければわかるはずだ」

 わざわざ回りくどい言い方で、少女は値踏みするように新を見ている。黒色で基調された短いスカートを膝上でヒラヒラさせながらこちらの言葉を待っているようだったが、まだこの状況を飲み込むための時間が欲しかった。

「……お前が俺の許嫁か?」

「そうだ、僕は三宮かさ。今日からきみの、長田新の婚約者だ。で、だ。そんなことより、僕の胸を触ってみないかい?」

 つかさと名乗った少女は、新の右手首を掴むと、おもむろに自分の胸を触らせた。

 かなり控えめな胸元であるが、女の子特有の柔らかさを手の平に感じる。その瞬間、少女の口元にはニヤリと禍々しい邪悪なカーブを描いた笑みが浮かぶ。

『既成事実完了。これで、この能力は僕らのもの』

 その瞬間、彼女の思考が新の脳内に流れ込んできた。

 彼女は新が有する長田家の隠された秘密を知っているようだった。

 久しぶりの感覚に、電気ショックでも流れたような感覚に陥る。早く離れようとしたが、それは彼女が許さずに、彼女の思考は続けざまに流れ込んできた。

『僕はその能力を得るためにここに来た。だって、僕にはそれだけの価値しかないからね』

 それは表情とは裏腹にとても悲しげな声色だった。

『だから、利用できるものは利用させてもらう』

 思考はどんどん流れ込んでくるが、だからといって、女性の胸部を長々と触っているわけにはいかない。一瞬で意識が飛びそうになるが、それに耐え、掴まれた手を振り払い、「ち、痴女か!」と、叫ぶ。

「そ、そんなのではないわ! 愚か者め!」

 つかさも自分の行為に羞恥心はあるのか、努めたすまし顔が崩れ、頬を紅潮させて反論する。

「お、お前の能力が本当かどうか知りたかっただけだ。喜べ、僕の胸に触るなんてことは恐れ多いことなんだ。お前は運がいいんだぞ」

「いや、そんなぺたんこに触れても」

 つかさの胸元を見つめ、本音がこぼれる。

 女の子の夢や希望に触れられたことは素直に嬉しいと思うが、どうせならもっと大きなもの、夢や希望が溢れ出ているモノに触りたかった。

 口をついてしまった言葉に、つかさは殺意を込めた視線で反応し、「お前、嫌い。僕も完璧聖人じゃないんだから欠点くらいある。けど、僕には欠点など補って余りある魅力があるんだ。それに、……僕の胸はこれからきっと成長する。きっと、きっと成長するんだ」と、ぶつぶつ呟き始める。

「大丈夫か?」

「まぁ、いい」

 つかさの視線から殺意は消えたが、「それより僕らはこれから夫婦になるんだ。僕はこれからきみのことを新と呼ぶ。新も僕のことはつかさと呼ぶと良い」と、尊大な態度は崩さない。

「俺はお前のことなんてなにも知らない。だから、そんななれなれしくもできない」

 相手の態度に、新の口調も少しだけ強くなった。

「つれないことを言わないで欲しいな。もし、新と僕が昔に出会っていようものなら、僕はとても落ち込んでしまうんだぞ」

「そんな偶然あるわけないだろ」

「……やっぱり、覚えてないか」

 つかさは小さな身体をさらに小さくシュンとさせる。

「えっ? もしかして」

 どこの誰とも知らない子を許婚にするはずはない。もしかすると、自分が忘れているだけで小さい頃に二人は出会っていたのだろうか。

「まぁ、僕らは今日が初対面で間違いないけどね」

 少女は悲しげだった表情が明らかに嘘だったかというように、ペロリと舌を出す。

「少しは運命を期待させろよ」

「小さい頃の約束なんてマンガやゲーム内での話だ。実際にあるはずはない。新は夢見がちな奴なのか?」

 つかさの物言いには新もさすがにカチンときた。

「許婚もねーよ」

「そんなことはない。古いだけが取り柄の家、位の欲しい新興家にとっては今でも日常的な仕来りだ」

「俺らみたいな普通の家同士には必要ないことだろ」

「ふっ」

 つかさは嘲りの笑いを浮かべる。

「長田の家が普通の家だと? 笑わせるな。それに僕は三宮つかさ。三宮グループの令嬢と言えば、無知な新にもわかるかな?」

 新もその名前には思わず聞き返しそうになる。二葉もとんでもない奴を送ってきたものだ。

 三宮グループといえば戦後復興に端を発す新興財閥として日本有数の企業に成長している。現代史の教科書にも登場してくる名前を知らない日本人は少ないだろう。

 彼女の横柄な態度もそれに起因しているのだろうか。

「僕らは普通の家の子供じゃないんだ。将来どころか、恋愛一つとっても制約があるのは仕方がないとわかっているんじゃないかい?」

 新は返す言葉がない。普通の恋愛なんて夢であることは誰でもない、新自身が一番よくわかっていた。

「そんなお嬢様がどうしてこんな家柄を選んだんだ? いっちゃなんだが、うちは古いことは古いがなにもない家だぞ。そんな相手を選ぶなんて、偉い奴は考えることがわからないな。もしかして、ダーツででも決めたのか?」

 すでに彼女の態度から自分に白羽の矢がたった予測はできるが、自分からぼろを出す必要はない。

「なんだ、謙遜か? 自分が狙われる理由くらい検討はつくんじゃないか?」

 つかさは意地の悪い笑みを浮かべる。

「たしかに、僕のような家が、長田程度の家柄で釣りあうはずがない。けれど、新には、いや、長田の家には、家柄を超越する力があるんだろ?」

 その言葉に新の目つきが厳しくなった。相手は確信している。けれど、自分の持っている不思議な力はほとんどの人間は知らないはずだった。

「………」

「黙るなよ。そんな態度をとられたら、僕だってスマホをいじりだしちゃうぞ」

「俺の能力をどこで知った」

「やっと、話してくれたか。けど、僕だって新が思っているほど、全部を知ってるわけじゃない。むしろ、まだ半信半疑だったりするわけなんだ」

「俺の質問に答えろ」

 もう隠すことはできない。だったら、相手にはこの秘密を黙ってもらうように話し合う方が賢明だ。

「ふふっ、今度は急かすのかい? まぁ、いい。この話はきみの、新の父親から聞いた話だよ。あの人は相手の左手だから、ただ握手するだけでよかったのかな? 新は他人の右胸を触ると人の思考を読み取れるんだったかな?」

 つかさは自分の胸に手を当てて、回想する。さきほどの行動も突飛なものでなく、事実を確認したかったからだった。

「あいつ。人には散々そのことは誰にも話すなと言っておきながら」

「さぁ、どうだい? さっきので僕の心の中は視えたかい?」

 新の怒りを無視して、つかさは嬉々として聞いてくる。けれど、自分で言った通り、二葉の話を完全には信用してないのだろう。だからこそ、確認が必要だった。

 このままごまかすこともできなくはないが、人の心を視ておいて、嘘をつくなんてことを新ができるはずもない。

「これで既成事実完了。これでこの能力は僕らのもの。僕はその能力を得るためにここに来た。だって、僕にはそれだけの価値しかないからね。だから、利用できるものは利用させてもらう。そんなところか? お前の本音を聞かせてもらったよ」

 異能の力を実際に目の当りにして、彼女がどう反応するのか。新は恐れる。

「気味悪いだろ」

 自嘲気味に呟いた。怖がられる前に予防線を張るが、「……すごい。すごいことだ。あぁ、なんというか、うん、すごいことだ」と、こぼれ出る素直な感想。新にとっては意外な反応だった。

 それでも、つかさも驚いてばかりはいられない。すぐに表情を引き締め、「単刀直入に言えば、僕たちはその心を読める能力が欲しい。そのために僕は新の許婚となったんだ。さぁ、結婚しよう。すぐに結婚しよう」と、打算と本音を隠さずに言葉を続けた。

 この能力を受け入れてくれるようだが、だからと言って、新はすぐに「はい」とは言えない。

「お前はそれで納得するのか? その、親が勝手に決めたことだろ」

「??? お父様がいったことは絶対だ。僕の意思なんてどうでもいい」

 自分たちの意思を考えない政略結婚をつかさはまるで他人事のように話す。そこに自分の気持ちはなにもない。

「でも、安心して欲しい。新が望む、新が理想とする婚約者に僕はなろう。新にとっても悪い話ではないはずだ? それとも、僕みたいな女の子じゃ不満なのか?」

 つかさは科を作る仕草で新に近づく。しかし、慣れていない仕草なのか、その動きはどこかぎこちない。

「いや、そんな、ことは」

 演技だとはわかっている。相手は自分を利用するだけだともわかっている。幼さ残る身体つき、色気とは程遠いけれども、見とれるほどの美少女には違いない。つかさは新の反応に気を良くしたのか、さらに距離を詰めていく。

「残念だけど、僕はもちろん、新にだって拒否権はないんだよ。それに新が拒否するなら無理やりにでも関係を持って責任をとって貰うしかないな」

「ち、近づくな!」

 女の子特有の甘い香りが鼻孔をくすぐる距離まで近づかれ、新は自分を突き放すようにつかさから離れた。その恐れ方はただ単に女の子に慣れていないだけには見えないが、つかさは自分が魅力的すぎるからだと、新の反応が拒絶であることに気づかない。

「どうした。うぶなねんねでもあるまいし」

 つかさは自分を意識してくれたのが嬉しいのか、にやつく表情を抑えられない。

「うるさいな。俺は女に近づかれるのが嫌なんだよ」

「一匹狼きどりか? 今の時代、そんなのは流行らないぞ」

「違う。女に長く触られると緊張しすぎて、意識が遠のき、貧血になって倒れてしまうからだ」

「余計情けないぞ」

「仕方ないだろ」

 つかさはその言葉を聞いて癖なのか独特の「クキキッ」と笑い声をあげながら、新に身体を預ける。

「そんな面白いことを聞いたら、からかうしかないじゃないか」

「だから近寄るな!」

 ほんとうに嫌なことであるのか、体質か、条件反射か、新は少し強めの力で近寄るつかさを払ってしまった。反撃は予期していなかったのか、つかさはバランスを崩し、後ろに倒れそうになる。

「危ない」

 女性が苦手といっても、そこは紳士。誰かが危険に遭遇しようものなら自分のことなど省みず助けようとする。しかし、相手の重力に引っ張られ、きちんと支えることができず、新もバランスを崩した。

「………」

「………」

 つかさが下で新が上。新がつかさを押し倒すような格好になってしまい、つかさは床にぶつかった衝撃も忘れるほどに恥ずかしくなってきたのか、先ほどまでの威勢は消えて、しおらしくなってしまう。

 当然、新もあまりの態勢に身動きができず、視線も移動できない。

「……あ、あんまりジロジロ見るなよ。僕だって経験豊富ってわけでもないんだから恥ずかしいんだぞ」

 花の女子高生の蜜の匂いまで感じ取れるほど近くによってしまっては、免疫のない男の子が硬直してしまうのもむりはない。つかさの言葉も耳に入らず、新はなおも動けない。

 そのせいで、もう一人の住人が帰ってきたことに、誰も、まったく気づけなかった。

「たっだいま~。兄さん、今日からパパが旅行にいくみたいだから二人っきりだ、ね?」

 勝手に家に入るのも、身内は許される。新の妹、長田凛はいつもと変わらない足取りで家に戻ってきたが、家の中には普段と違う風景が広がっていた。

 少女は二度ほど瞬きをしてから、目を擦る。もう一度瞼を開いても同じ光景が目の前に広がっている。

「質問、自分の兄が私たちの家に女の子を連れ込み、あまつさえその女の子を押し倒しているのを見てしまった妹の私はどうしたらいいの?」

 少女の小芝居が始まった。演技は上手くないが、一人自問する姿はどこか可愛らしい。

「答え、殺っちゃえばいいんじゃないかな?」

 普段の落ち着いた雰囲気を崩さず、目の前の出来事に対して、少女は客観的に判決を下した。

「だよねぇ~」

 自分の中の知恵袋の回答を聞いて、少女はにこりと笑い、行動に移す。その手にはどこから出したのか、鉄パイプ。

「あ、あの、凛さん?」

「兄さんが私以外の女の子にやらしいことなんてするはずないもんね~」

 凛は新の制止も聞かず、極上の笑みを浮かべながら、握りしめた鉄パイプを躊躇なく振りおろしてきた。

「ひゃ~」

 今まで出たことのないまぬけな高い声を出しながら、凛の一撃をなんとかよける。

「あれあれ~? 悪いことをしたら、きちんと罰を受けないといけないんだよ~。だいじょうぶ~、ちょっと痛い目見るだけだから~、ちょっと六文銭持って川を渡るだけだから~」

「いや、それまずいやつだろ」

「だいじょうぶ~、兄さんは私の中でずっと生き続けるから~」

 口元こそ笑みを浮かべながら楽しそうに言葉を発するが目はちっとも笑っていないどころか、表情に生気が感じられない。

「落ち着け、いや、あの、落ち着いて下さい」

「それなら~、きちんと事情を説明して~、謝罪して下さい~」

「説明する。きちんと謝る」

 新の懇願に凛はようやく振り上げた鉄パイプをゆっくりと下ろして新を見つめる。

 しかし、その瞳は底なし沼のように混濁した黒色を湛えている。

「で、兄さん。この方は?」

 凛は、いつのまにやら危険地帯から避難していたつかさを指差す。座布団の上でお茶をすするその姿は優雅ではあるが、ゴスロリ姿がまったく和の空間と調和していない。

 つかさは「もう終わったか?」と、二人のやりとりにはいたって無関心だったが、きちんと宣言しておかなければならないと、立ち上がる。

「僕は三宮つかさ、三宮グループの令嬢にして、新の許婚だ。今日から僕もこの家に住むことになる。よろしく頼むよ、妹さん」

 つかさはことさらに妹という部分を強調した。凛はつかさの自己紹介も態度もどうでもよかったが、そこに、気になる単語があったのか、「兄さん?」と呟きながら、ゆらりゆらりともう一度鉄パイプを振り上げる。

「いや、相手の言うことじゃなく、お兄ちゃんの言葉を聞いて欲しいな」

「そうですね、証拠でもなければそんな口約束は簡単に反故できますからね」

 兄の言うことが白と言えば白。それはわかっているのだが、それでも、凛は動揺しているのか、無理に自分の感情を抑えようとしているように見えた。

「クキキッ、証拠というか、婚姻届でも見せれば納得はしてくれるかな?」

 つかさは無駄に多いポケットの中から一枚の紙を取り出す。そこには必要事項はおろか実印も押されており、新との婚約は事実であることが見て取れる。

「これはどういうことなんですか、お兄様?」

 手には鉄パイプ、背後には殺気を纏い、目元と口元に軽い笑みを浮かべ、凛は新に詰め寄る。

「知らない。俺はなにも知らない!」

「ほんとうですか?」

「ほんとうです!」

 自分もなにも知らないのだから仕方がない。願わくば、凛と一緒になってつかさを問い詰めたかった。

「では、その婚姻届はなんなのでしょうか?」

「よく見ろ。それは俺の字じゃないだろ。きっと、親父が勝手にしたことだ」

 凛は婚姻届を一瞥した。いくら気が動転していたとはいえ、新のことで自分が間違ってしまうとは情けない。だからといって、この問題が解決したわけではないので、凛は「たしかに」と呟いてから、もう一度新に向かい合う。

「では、兄さんに許婚っていうのは、この電波女が勝手に言っているだけなんですね?」

「そうそう」

 凛の前で直立不動の姿勢を保つ新。この場を進展させるには、彼女の話が必要だった。

「やれやれ、しょうがない。少しくらいはこの経緯について話した方がよさそうだな」

 つかさはゴリ押しの展開を諦め、二人にことの顛末を話しはじめる。

「たしかに、この婚約話は二人とも寝耳に水だっただろう。けれど、そんなもの関係ない。長田の能力を知ったお父様が、その能力に興味を持ち、新の父親に働きかけ、承諾を得た。僕と新は今日が初対面だけれども、お父様の命令は絶対だ」

「それだけで?」

「??? 不思議なことを言う。それで十分じゃないか。僕はお父様が言ったことなら、なにも考えずに首を縦に振るぞ」

 つかさは首を傾げる。いきさつもなにもない説明であることに本人だけが気づいていない。そんなもので、納得できるわけがない。

「お前の価値観を人に押し付けるなよ」

「日本一の大富豪の命令なんだ。王様ゲームよりも絶対だ。それに、新の父親の許可も得ている。未成年が婚約する上で一番面倒なことはクリアした」

「前提条件の二人の気持ちは皆無じゃないか!」

「それは後づけでもまったく問題ないよ。危惧していたのは、単純に新の好みじゃないとか言われたらどうしようかということだったが、それはいらぬ心配のようだしな。まぁ、僕は美しいから、そんなことで悩んだのもバカらしかったな」

 つかさの瞳が新を捉える。見とれるほどの容姿は確かなのだが、それを認めたくないのか新は顔を背けた。

「クキキッ、そんな動揺して、かわいいじゃないか」

 けれど、相手には意識していることはバレバレ。

「そ、それに、俺はお前のことなんてなんも知らない。そんな奴といきなり許嫁なんて、納得できるわけないだろ」

「そうだな。僕らはお互いのことをなにも知らない。けれど、それは時間が解決してくれるはずだ。それに、最初に言っただろ? 今は新の好みを知らないだけだが、僕は新の望む女性像を具現化しよう。お互いを知らないなんて些細な問題はすぐに解決される」

 つかさは事の次第に理解も納得もしている。しかし、それが本心だとは、新にはどうしても見えなかった。

「いや、それでもそんなすぐに結論付けなくてもいいじゃないか。いくらなんでも急すぎる」

「恋愛なんていつも唐突なものだろ? それとも新は相手のことをなんでも知ってからでないと恋ができないのか? そんなもの、家族や幼馴染とでも難しいぞ」

 目の前の少女と結ばれる理由はないのだが、結ばれない理由もない。だからこそ、新はなにを言えばいいのか、悩んでしまう。

「それとも、僕と結婚するのがほんとに嫌なのか?」

 つかさは切なげな表情で新を見上げてくる。

「僕って、そんなに魅力がないのかな? 気丈に振る舞っているように見えるかもしれないけど、僕だって女の子なんだ。極度の緊張とテレ隠しからこんな態度を取っているだけで、内心はガラスのハートなんだぞ」

 自分を否定するような対応につかさは目に涙を浮かべる。新はその場でオロオロするだけでなにもできない。つかさは新が硬直状態であるのをいいことに、涙を引っ込め、音もない静かなステップで新との距離を詰める。

 新は心臓だけがドクドクと勢いよく動いているが、身体の神経はてこでも動かない。つかさと自分の距離がゼロ距離になっても、金縛りは解けない。

 つかさはつま先を立てて、自分の唇を新の唇へ近づけ、自分の初めてをあげようとした。

「なにしてるんですか~?」

 しかし、それは間に入った凛の右手によって阻まれる。

 想像していた感触との違いに気づき、つかさはすぐに唇を離し、新からも距離を取った。

「……なにするんだよ」

 汚らわしいものに触れてしまったかのように、つかさはハンカチで唇を拭い、凛を睨んで、思わず舌打ちをしてしまう。

「兄さん、隙がありすぎですよ」

 つかさの視線を気にすることなく、凛は兄の対応に文句を言う。

「す、すみません」

 自分はまったく悪くないはずだけれど、妹の威圧には逆らえない。

「まったく。兄さんはもう少し、女性との耐性をつけた方がいいですよ。まぁ、私にも原因があるわけなんで強くは言えないですけど。……でも、もし、兄さんが異性に興味があるなら私が責任持って相手になるし」

 凛は最後、ゴニョゴニョと、赤面しながら呟く。

「え? なんだって?」

「なんでもないです~」

 もちろん、その声が相手に届くことはない。凛もわかっているのか、残念がるが怒った演技をする程度に留めた。二人の日常的な雰囲気をつかさは面白くないと感じ、「なにするんだ。人の恋路を邪魔するからには馬に蹴られる覚悟があるんだろうね」と、文句を言う。

 つかさの言葉に、凛は攻撃的な冷気を隠そうともしない。

「勝手に押しかけて、勝手なこと言って、勝手な結論を出さないで欲しいですね。通報されないだけ、ありがたいと思って下さい」

「妹のくせに姉に意見するのか?」

「あなたの妹になんてなった覚えはないわよ」

「不服だが、君の姉になることはもう決定事項だ。姉の機嫌は取っておく方がいいぞ」

「はいはい、怪電波を受信してないでさっさと自分の家に帰って下さい」

「何度も言っている。僕は今日からこの家に住むんだ」

 女同士のせいか、二人の言い合いはヒートアップしていた。

「この家にあなたの寝る場所も布団もありません」

「僕は新と一緒に寝るから布団は一つで構わないぞ」

「そ、そんなの私が認めるわけないでしょ」

「君がダメでも新が認めればなんの問題もないだろ」

「問題ありです!」

「新だって、僕と寝ることにまんざらではないだろ?」

 急に話を振られて、うっかりと具体的な情景を想像し顔を真っ赤にしていた新は凛に「なに、顔を、赤く、してるん、ですか~?」とジト目で睨まれてしまう。

「いや、これは」

「クキキッ。僕みたいな美少女に好かれて困る男なんていないだろ」

 新の反応に、つかさは得意げに身体を反った。

 凛はムーっと頬を膨らませ、「そんなにこの胸なしがいいの?」と凛の同年の女の子にしては慎ましやかな部分を指差した。

「む、胸は関係ないだろ。それに僕はまだ成長期だから心配いらないんだ」

 つかさは語気を強めてツンとする。本人は隠しているつもりだが、気にしていることは一目了然だ。

「今で無理なら望み薄じゃないかしら」

 凛は腕を組み、そこまで大きくはない胸を持ち上げる。それでも、持ち上げるものさえないつかさにとって、それは挑発以外のなにものでもなかった。

 ワナワナと肩を震わすつかさに対して、凛はさらにもう一言、「兄さんって、巨乳好きだもんね?」とつかさには聞き捨てならないセリフ。

 つかさは今までの気丈な態度はどこへやら、「新はそんなに胸が大きい方がいいのか?」と目尻に今度は小細工なくうっすらと涙を溜め、上目遣いで尋ねてくる。

「い、いや、そんなことないぞ。どっちもちゃんと、きちんとそれぞれの良さがある、というより、お前はなにを根拠にそんなことを言っているんだ」

「本棚左上の隙間裏さんは正直に教えてくれましたよ~。今時、紙媒体で隠すほうが安全かもしれないですが、私の眼はごまかせません。正直、私としては妹モノに手を出して欲しいんですけど、ロリロリ系のものはなかったので、良しとします」

 誰にも知られていないと、新だけが思っている秘密をあっさり暴露され、すぐに動揺する。その姿が、凛の言葉が嘘ではないと簡単に立証された。

 凛は勝ち誇った表情でつかさを見下ろす。ただし、つかさも言われっぱなしで終わるはずがなかった。

「お前だって、そんなに大きくないじゃないか」

「そうですねぇ。でも、私で小さければ、あなたのそれはなに? 夢や希望というなら、なんて慎ましやかなものなんでしょうね」

 ただの文句であるなら、凛は取り合わない。すでに主導権は自分が得ていると思った。

「そうさ。僕の夢はお嫁さん。どんな女の子でも願う小さな小さな夢さ」

 つかさは凛の言葉尻から反撃を試みる。

「わ、私だってそうだもん」

「そうかもね。君ならお嫁さんくらい簡単になれるだろう。でも、君が望む相手は、君にとっては少しばかり大きな夢にあたってしまうんだろうね」

 凛の反応を見ていればわかる。そして、本人が、なによりその願いは叶わない、叶ってはいけないとわかっていることも。

「………」

 相手からの思いがけない言葉の反撃に凛の得意気な表情も崩れる。

 勝った。つかさは相手の反応に満足し、改めて新に向かい直って決意表明をする。

「僕は新のお嫁さんになる。だから、新の要求にはなんでも応えよう。自分で言ってしまうけど、僕は容姿端麗で文武両道の才色兼備、パーフェクトな女性なんだ。だけど、どんなに優れた人間もすべてが完ぺきじゃない。僕だって、人より劣っている部分はいくつかある。ステータスという人もいるだろうけど、コンプレックスにも思う。だ、だから、今は物足りないかもしれないけど、これでも夢や希望を感じさせられる膨らみはあるわけで、これから新の頑張りとか、共同作業によっては成長することもあるわけだから、新の望むプレイが、なるべくのことには応えるつもりではあるけれど、物理的にできないこともあるわけで、新が胸の大きい人が好みで、どれだけそういうのに固執していようともそこだけをとって、僕を拒否しないで欲しい」

 恥ずかしいのか、途中からは顔を赤らめながら、ところどころしどろもどろに早口になりながらも言いきった。

「わ、私だって」

 そのわずかな時間の隙間に凛も割って入ってくる。相手がそんなことまで言うなら自分だって。

「に、兄さんの望みならどんな形でも叶えてあげるよ。……っていうか、兄さんがそういう関係を望んでくれるのをずっと待ってるんだけど」

 過激になるつかさの言葉に、凛も負けてられないと声を張り上げる。しかし、肝心な言葉は羞恥心からか、自分にしか聞こえないほどボリュームが下がった。

「お、おい。自分がなにを言っているのかわかってるのか?」

 新はいきなりの宣言になおも心が揺れ動かされていた。平常心に戻りたいが、少女たちの言葉は少年にとって過激すぎる。

「わかってるさ。新がどんな人でも僕は新の望むことには応えよう。たとえば、僕を裸にひんむいて、そこから首輪とニーソックス、靴下、膝当てと手袋を装着させ、昼の公園をこれは犬ですと言い張って他の飼い主と談笑しながら散歩したいということだって、非常に不本意で恥ずかしいことだけど、新がどうしてもというなら僕は従わざるを得ない」

「そんなこと望むわけないだろ!」

 自分をあらぬ変態に仕立てられそうになり新は平静に戻らざるを得ず、自分にはそんな願望はないと全速力で否定する。

「それに、なんで素直に裸にしないんだよ」

「地面に接する部分は怪我をしないよう、守ってあげようとしたんだろうな」

「優しいな、俺! しかも、なんで人目のある昼なんだよ」

「夜だと寒いから風邪をひいてしまうかもしれないだろ」

「鬼畜のくせに優しいな、俺!」

「最後の良心なんだろう。鬼畜のくせに」

「そもそも俺は鬼畜じゃない! 普通だ」

「文句が多いな。そんなに言うなら、新はどんなシチュエーションが好みなんだい?」

「そうだな」

 つかさに尋ねられ、「たとえば、たとえばの話だぞ」と、注釈しながら、新は今まで妄想してきたシチュエーションの一つを話し出す。

「場所は放課後の教室。俺は彼女と二人っきりなんだ。最初はお互い無言なんだけど、ふとした瞬間に手と手があたっちゃうんだ。初めは二人とも恥ずかしがるんだけど、やっぱり触れあいたいって気持ちが抑えられないのか、手と手は恋人つなぎで重なり、どちらともなく二人は抱き合うんだ。周りには誰もいない二人だけの時間。けれど、彼女は寂しいのなんて呟くんだ。俺は彼女の寂しさを埋めようとそっと彼女の唇に自分の唇を合わせると、彼女はびっくりしながらもより強く俺を抱きしめ返してくれるんだ。彼女は熱い吐息を零しながら、もっとと求めてくるんだけど、風でドアが軋んだだけの僅かな物音にも敏感にビクンって震えるんだ。俺は彼女を安心させるために、大丈夫、この世界には俺たち二人しかいないよなんて言うと今度は彼女の方からキスをしてくるんだ。そして、顔を真っ赤にしながら、恥ずかしいなんて言いながら俺に迫ってくるんだ。ここで、一番重要なポイントは、この彼女が恥ずかしがりやなのに積極的でもある矛盾めいた魅力がいいわけで、ん?」

 新は自分で語りながら、「うわぁ」とやや引き気味な反応に遅ればせながら気づく。夢中になって語ってしまったことを後悔するが後の祭り。

「だ、大丈夫だ。新が過度の妄想癖であっても僕は受け入れよう」

 つかさの口の端は引きつっており、無理にフォローしているのが見て取れる。新は健全な男子高校生の脳内を少しばかり公開しただけであるが、そんなものは同年代の女子にしてみればいかがわしいだけであり、うかつに見せてはいけなかった。

 なにより、実の妹もいる前で自分はなにを言っているんだと、凛の方を見てみると、拳を握りしめながらワナワナと震えている。

「あ、あのな。これは違うんだ」

「に、兄さんのヘンタイ!」

 弁明の余地もなく、凛は再びどこからか取りだした鉄パイプで力一杯殴打した。

「でも、恥ずかしながらも積極的なのがいいなら、私はぴったりかも」

 なんて、呟きが薄れゆく意識の中で聞こえてくるが、もう自分の好みなんて話さないぞと、堅く誓う新だった。

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