六合目 日本酒を知ろう 2
電車を乗り継いで家に帰り着いたときには、すでにどっぷりと日は暮れていた。
「懐かしいですね」
部屋の中に入ると、ササはポツリと呟く。
「そんな懐かしむほど離れてもないだろ」
口ではそう言いながら、ササがいなくなってから数日も経っていないけれども、巧も同じ気持ちを持った。
「そうですか? でも、私はもうこの場所には戻るつもりがなかったので、感慨深いです」
ササはしみじみと一歩一歩進み、置かれた座布団に座ると、「さ、今日は夜通し飲み合いましょうね」と巧を促す。
「そうだな」
巧も帰って早々かよと、苦笑しながら対面に座る。
「でも、今日はそんなに遅くまでは付き合わないからな」
時計の針は二十二時を超えていた。明日は一限目から講義がある。必修科目であるから、出席しなければならないのだが、それよりも、朝陽と伊之助にササが帰ってきたことを直接話そうと思っていた。だからこそ、遅くまで飲みすぎて、翌日に寝坊するなんて間抜けなことはしたくなかった。
「あら? なんでですか? もしかして、あまりに酔ってしまうと私を襲ってしまいそうになるからですか?」
「そ、そんなわけあるか」
ササの指摘に思わず、巧の声は上ずってしまう。今さらであるが、時間は深夜、一人暮らしの男の家に女の子と二人。字面だけ見れば、とてもとても、ムフフムフフな状況であるが、残念ながら、巧に状況をうまく対応するスキルはなかった。
「もしかして、巧さんってフェミニストだったりします?」
「別にそういうわけじゃない」
「そうですか? でも、女の子には優しくしてくれていますよね」
「そんなことはないさ」
朝陽に取った行動を思い出し、ふと自嘲的な笑みを浮かべてしまう。そのことを知らないササにとっては首を傾げてしまう反応であるが、彼女はこの話題を終わらせることはなかった。
「でも、彼女さんはいないんですよね。過去にも、そして、未来にも」
「み、未来はわからないだろ」
そんな悲しい未来は否定したい。けど、大丈夫とも楽観してはいけない。
「まぁ、巧さんなら大丈夫でしょう」
「そ、そうか?」
根拠のない言葉であるが、ササのようなそこらのモデルよりも可愛らしい女性に言われて悪い気はしない。それが、お世辞だったとしても、少しくらいの自信はつけてもいいだろう。
「もしかして、私のこと見てました? 見惚れてました?」
二人きりなので、当然と言えば当然だが、自分を見ている巧に頬に人差し指を当てて聞いた。
「でも、ダメですよ。まぁ、私が魅力的すぎるので仕方ないですけど、勘違いはしないでくださいね。いくら、私でも巧さんに襲われたら抵抗できません」
「そんなことするわけないだろ」
事実であるが、面と向かって言われると、恥ずかしい。けれども、ササは相手の言葉に聞く耳持たず、キャーキャーと一人可愛らしい悲鳴を上げている。存外、子供っぽさを見せる精霊に「ちょっとは自分の容姿も気にしろよ」と、呟かずにはいられない。
「あら、私は自分の容姿をわかっている上で巧さんをからかっているんですよ」
「たちが悪い奴だ。そんなことを言うなら、俺はもう手伝いなんてしてやんねーぞ」
冗談のつもりで言ったことだが、ササはテーブルを叩いて立ち上がると、「それはダメですし、私は嫌です。誰がなんと言おうと、私は巧さんの近くにいますからね!」と、相手の眼を真剣に覗き込み、決意表明をする。その力強い言葉に巧は思わず黙り込んでしまった。
「あ、愛の告白ではないですよ」
自分の言ったことに恥ずかしくなったのか、ササはゆっくりと座りなおす。巧も「わ、わかってるよ」と、ドキドキしそうな心を落ち着かせる。
「あなたのことなんか、ぜんぜん好きじゃないんだからね!」
ササは自分の言葉をごまかすために、冗談めかしながら頬を膨らませながら、赤く染める。
「なんだよ、それ」
「最近、流行っていると聞きましたので」
「そんなのは誰も求めていない」
冷静な口調で返してしまう。狙い通り、すでに相手の心拍は平常に戻っている。
「そうですか」と、ササは腕を組み、考えているフリをしてから、生気を失った虚ろな目を巧に向ける。
「……あなたと一緒にいられないのなら、あなたを殺して、……私も死ぬ」
どこから出したのか、右手にカッター、左手にスタンガンを手にしている。
「こえーよ」
「でも、最近流行ってるって」
「ヤンデレはリアルの世界に持ち出してはいけません」
「どうしてですか?」
フフッ、フフフフフッ、と、ササは凶器を巧ののど元に突き付けながら、聞いてくる。
「犯罪、犯罪だから」
「もう、わがままですね。こんな体験、お金を払わないとできませんよ」
「お金をもらってもしたくねーよ」
「さ、こんなことしていたら、時間なくなってしまいますね。早く、お酒を飲みましょう」
そう言って、ササは杜氏がオススメしてきたお酒をテーブルに取り出す。
「お前が脱線させたんだろ」
「気にしない、気にしないでいいですよ」
「けど、あれだな。こんなに毎日飲んでたら、アルコール中毒ってやつになりそうだな」
晩酌の準備を進めるササを見ながら、巧は呟く。
「大丈夫ですよ。アルコール中毒っていうのは、ちょっとやそっと飲み続けたくらいでなるようなものではありませんから。巧さんにはせいぜい、お酒を飲まないと、幻覚が見えたり、震えが止まらなくなったりするまで私に、言い間違えました、お酒に溺れてもらえればいいですから」
「十分、末期症状じゃないか!」
「さ、気にしないで飲みましょう」
そんな言葉を聞いた後でも、グラスを受け取ってしまうのは、巧の優しさだろうか。楽しい時間が帰ってきたと、ササもふと笑みがこぼれる。
「本当は自分以外のお酒をオススメするのは嫌なんですけど、このお酒も私のお父さんが作ってくれたものですから、私の姉妹みたいですしね」
「なんだ、やきもちか?」
「そうです、ね。いくら妹とはいえ、やきもちしてしまいます」
素直に認めたことに、巧は拍子抜けした。
「だから、巧さんは私の気持ちを考えて、浮気とかは絶対にしないでくださいね」
「浮気ってなんだよ」
「それは、他のお酒を飲むことですよ。ビールやチューハイ、ワインに焼酎。日本酒でも、私以外のというのは、本当は嫌なんですけど、百歩譲って、許してあげます」
「それは無理だろ」
「約束ですよ」
「いや、だから」
「わかりましたね?」
「もし、破ったら?」
「その時は……」
ササはにっこりと微笑みながら、「フフフフフッ」と、声を漏らす。見惚れてしまうほどに輝いている笑みであったが、瞳の奥には狂気が宿っている。
巧は息を飲むが、相手は「さ、気にせずに私のお父さんが作ったお酒を飲みましょう」と、話を進める。
「日本酒は飲んでもらいたいです。特に巧さんにはいっぱい飲んでもらいたいです。でも、また私をすべて飲んでもらって消えるわけにはいきませんからね。あんな奇跡がまた起こるなんて都合のいい考えも持たない方がいいでしょうし」
ササは言葉を紡ぎながらも、グラスにお酒を注ぎ、準備を進める。そして、湿っぽい話はここで終わりと決めたのか、「だから、私でなくても、日本酒だけは黙認してあげます。巧さんは私の寛容さに感謝して下さいね」と、茶目っ気たっぷりに言いながら、グラスを巧に手渡す。
「さ、あの人が勧めてくれたお酒を早速いただきましょう」
準備が整うと、二人は再会を祝してカンパイする。
「味はどうですか?」
巧が一口飲み終えたのを確認すると、ササは感想を聞く。
「うん? おいしいよ」
「それは、私よりもですか?」
「どうだろう。そんなに飲みなれてないから、わからないかな。でも、どっちも味があっておいしいのは違いないと思うよ」
巧の感想にササは頬を膨らませ、「そこは私の方が断然おいしいよなんて気の利いた一言を言うべきです」と、ぶつぶつ文句を言う。
「巧さんのそういうバカ正直なところを嫌いではないですが、もう少し女の子が求めているものを言っても罰は当たらないですよ」
「そういうものか?」
「そういうものです! それに、いくらお父さんが作ったお酒だったとしても、私の気持ちを少しくらいは汲んでくれてもいいのに」
「なんか、言ったか?」
巧は二口目を頂いていたので、ササの言葉を聞き逃す。
「死んでしまえばいいのに」
「おいおい、なに物騒なこと言ってるんだよ」
「鈍感なのか知らないですけど、そういう人の気持ちとかにはもう少し敏感になった方がいいですよ」
「別に誰も困らないだろ」
「そんなことないですよ。巧さんが色恋にも興味を持ってもらわないと可哀想な方もいらっしゃいますよ」
「そんな奴いないだろ」
巧は思い返しても心当たりがなかった。もし、そういう異性がいれば、現在進行中な灰色の青春も違った形になっていたはずだ。
「あ、私じゃないですよ」
視線を向けられ、ササは胸の前でバッテンを作る。
「でも、巧さんが日本酒の良さを周囲に広めることができれば好きになってもいいですよ」
「よーし。って、そんなことでやる気を出すわけないだろ」
「どうしてですか? こんな美少女に好かれるかもしれないんですよ。大枚はたいてでも頑張るべきです」
「言ってろよ」
しかし、ついつい日本酒のおかわりをしている自分に気が付き、「……なんか、お前にいいように使われそうだ」と、呟くと、口にしたお酒もどこか苦味が増したように感じる。
「失礼ですね。まるで私が計算高い女みたいに言わないで下さい」
「違うのか?」
「当たり前です。こんな純真無垢で可憐な女の子はいないですよ」
立ち上がって胸を張るササに「ははははは、面白い冗談言うんだな」と、巧にしては珍しく声を上げて笑う。
「こんな美少女捕まえて失礼ですね」
ササも文句は言うが、その口調はどこか楽しそう。
「はいはい、美少女なのはわかりました。けど、今日は早く帰れよ」
巧は携帯で時間を確認すると、時刻はすでに二十三時を回っていた。楽しい時間はもっと続けたいが、一日中歩き回ったところでお酒が入ったせいか、いつもより早く眠気が襲ってくる。
「そうですね。でも、終電がなくなったら泊めてもらうしかありませんよ」
「お前の家は横にあるだろうが」
「まだ、残してくれてるんですね」
帰る場所はもうないと思っていたササにとって、その事実は胸に響く。
「私、帰ってきてよかったんですね」
「当たり前だろ」
自分は必要とされている。必要とされなくなることを恐れるササにとってはその言葉はなにより嬉しかった。
「私、早く家に帰ります」
「お、おう、そうか」
「でも、もう少し飲みましょう。短い時間でお酒に溺れて下さいね」
そう言って、ササは巧のグラスにお酒を並々に注ぐ。
「それはやだよ」
「巧さんの意思は考慮しませんから!」
他愛ない話しだけだったかもしれないが、楽しい時間はすぎていく。
「起きてますかぁ?」
ペースを上げたのが災いしたのか、巧はテーブルに突っ伏して眠ってしまっている。
「よく眠る人ですね」
考えてみれば、この男は自分よりも早く眠るくせに、起きるのは自分よりも後だ。
「なんか、献身的な若奥様みたいですね。……なんて、私が思うようになるなんて」
ササは自分の一言に思わず苦笑した。精霊である自分がこんな考えを持つとは思わなかった。
「やっぱり私はわがままですね。今よりももっと幸せになりたいと思っているとか」
ぐっすり眠っている相手を見やった。
「丹念込めて作られたモノには魂が宿ると言われますけど、それが実体として現れることは少ないんですよ。私たちが主人と認めなければ、姿は現しません。しかも、二度目となればなおさらです。巧さんはこのすごさがわかってないかもしれないですけど、私はすっごくに期待しますからね」
彼女の独白はさらに続く。
「一度はあなたの前から消えたのに、あなたは私を連れ戻した。どれくらいの時間が私にあるのかはわからないですけど、もう黙っていなくなったりはしません」
そして、最後にとびっきりの笑顔で「そのかわり、覚悟していて下さいね」と囁いた。
巧は思わず「う、う~ん」と、身震いしている。
「では、おやすみなさい」
言いたいことを伝え、今日という日を感慨深く想いながら自分のために用意された家に戻っていく。
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