六合目 日本酒を知ろう
いつも通りの日々、それもいいだろう。誘われるままに、流れるままに日々を過ごすことが悪いとは思わない。けれど、自分は知ってしまった。巻き込まれたとしても、自分が動けばいつもの日々も新鮮に映るということを。今度は自分が巻き込む番であることを。
そのためにはするべきことがあった。
巧は純米大吟醸酒『冷の雅』の瓶を手に取り、ラベルの醸造元を確認し、カバンへと入れる。今日は講義もあるが、そんなものより大事なものがある。
電車を乗り継ぐこと四回。出発してから三時間以上かけて、巧は目的地の最寄り駅まで到着した。
無人駅の改札を通り抜けると、眼前にはのどかな自然が広がる。ここでササは生まれたのかと、思わず感慨に耽ってしまう。
スマートフォンを片手に目的地に向けて歩くこと三十分、お世辞にも綺麗な、近代的なものではないが、年季の入った造り酒屋が見えてきた。
カバンの中から四合瓶を取り出し、ラベルに書かれてある住所を確認し、現在地の住所と照らし合わせる。場所は間違いないが、巧はその蔵へ入ることを躊躇してしまう。
軒先には古ぼけたビールのポスター。もちろん、今と違い右から読まなければいけない代物に、立てつけの悪いガラス張りの引き戸の奥にはかすかであるが、日本酒と思われる瓶が並んでいる。
もちろん、今日が定休日の可能性もあるが、それにしても人の気配がない。巧は恐る恐る引き戸に手をかけるが、なかなか開いてはくれない。ガタガタとけたたましい音がなる。見様によっては完全な不審者であろう。
「おい、なにしてんだ?」
不意を突かれて後ろから声をかけられたので、巧はビクンッとしてしまう。
振り向くと、そこには頭に白いタオルを巻き、作務衣を着た初老の男が佇んでいる。この造り酒屋に関係する人物だろうか。
「あ、あの……」と、巧は声をかけようとするが、自分よりも一回りは大きい、目元のつりあがった強面の男に睨まれては、雰囲気に呑まれ、言葉が続かないのも無理はない。
怪訝な表情で巧を見ていた男であったが、その手にある四合瓶を見つけると、ギロリと目を見開き、表情を崩す。
「おう、そいつはうちの商品じゃねぇか」
ただの酒蔵巡りでなく、目的を持ってここに来たことを喜んだ。
「どうしたんだ、それ?」
「あ、ええっとですね。これは父が成人の祝いに送ってくれて、飲んでみたらおいしかったんで、どうせなら作っているところを見てみようと思って」
しどろもどろであったが、なんとか用件を伝えることはできた。
「そうなんか。いいよ、いいよ、見学してけ。俺が案内してやる」
男は自分の作ったものをおいしいと言われ喜び、引き戸を一度ガンッと蹴りつけてから開けた。
これが正しい入り方なのかもしれないが、一般人には到底むりだろう。そんなことをぼんやり思いながら、巧は男の後についていく。
店内には吟醸酒、純米酒から、梅酒、ゆず酒、甘酒といったものまで幅広く、乱雑に陳列されている。値段も、巧でも買える手軽なものから、一万円を超える高級品まで取り揃えてあった。
『冷の雅』はどれだろうと、まじまじ商品を見ていると、「興味津々って顔だな。兄ちゃんが持ってきたもんには負けるが、どれか試飲してみるか?」と、男は巧の返事を待たずに、適当な一本を手に取り、お猪口へと注いでいく。
「おい、飲んでみな」
強引でありながら、あまりにも自然な流れに巧も「ありがとうございます」と言って、お猪口を受け取った。
「どうだい?」
「おいしいです」
「そりゃ、よかった」
巧の反応を見て、男はほっと息を吐いた。その反応はどこか懐かしく、巧も思わず笑う。
「けど、あれだな。兄ちゃんみたいな若い奴にうまいと言われると嬉しいもんだな」
男は「じゃ、俺も頂くわ」と、仕事中であろうにも関わらず酒を飲む。
「やっぱうまいなぁ」
「あはは、はは」
男は立て続けに二杯、三杯と飲んでいく。巧はただ苦笑いしかできない。
「それにしても兄ちゃんみてえな若い奴が見学に来るなんてほんと久しぶりだ。そりゃ、昔はひっきりなしとはいわねぇが、けっこうきてたんだけどな。特に俺の若い頃なんて、この辺りももっと活気があったもんだけどよ」
お猪口片手に、男は巧が見学に来たことがよほど嬉しかったのか、自分の思い出話を話し始める。巧は男の話に耳を傾けた。
何十年も前の話になるが、男はここで杜氏の職についた。初めて男が蔵に足を踏み入れた時には、多くの仲間がいたが、時代の流れには逆らえない。効率化できるところは機械を導入し、清酒の需要も下がってくれば、必然的に人員も減らされる。周囲には後継者問題も交じって、蔵を閉めるところも多い。
それでも、まだまだ人の勘に頼るべき部分も多く、職人たちは自分の仕事に誇りを持っているのか、あの頃を懐かしんでも、よかったと嘆くことはない。自分たちがいい酒を作り、それを喜んでいてくれる人がいればいいんだと、男は巧に語りかけた。男に刻まれた皺には歴史を感じられるが、クシャっと笑う顔は少年のように純粋であった。
「でも、なんで杜氏になろうと思ったんですか?」
巧は聞いた。
「それ以外の選択肢がなかったからだな」
男は言った。それは巧が聞きたかった夢のある言葉ではなかった。
「都会に行きたくても外に出るための金もねぇ。しんどいし、怒鳴られまくりだけども、俺には、いや、金のない町の男たちにはこの仕事しかなかったんだな」
「それなら、なんで杜氏を続けてるんですか?」
惰性でここまできているのか。そんな男が作ったのか。先ほどの言葉は本心ではなかったのか。
ササが生まれ出るほどの理由を確認するために巧は聞いた。
「そりゃ、親父の背中に憧れたからだよ」
あっけらかんとした口調で男は答える。
「怒鳴られることも多かったし、喧嘩もよくした。けどな、仕事しているその背中は男の俺が見てもかっこよかったんだよ」
杯に入るお酒を飲み干し、男は懐かしそうに話し始めた。
「初めは成り行きだったかもしんねぇ、やらされてただけだったかもしんねぇし、辞めようと思ったことなんざ、数えきれねぇ。けどな、親父の背中を見ているうちに、いつしか本気になってたんだ」
男は笑っていた。
「ただ、その親父も俺たちが一人前になる前に死んじまった。急にいなくなりやがってと嘆いたし、俺たちの心にぽっかりと穴が開いちまった。そして、店をたたもうとも思った」
どこかの誰かと似ている境遇に巧も背筋を伸ばして、聞き入ってしまう。
「でもよ、親父だって好きでいなくなったわけじゃねぇんだって気づいてよ。あの人のためになにをしたらいいってない頭で考えたら、やっぱ意思を引き継ぐしかないんだ。って、決めたはいいが、そこからはさらなる苦労の連続よ。一流の職人がいなくなり、いるのはひよっこの木偶だけだ。一口飲んで捨てられたこともあるし、樽一斗を完全に潰しちまったこともある。それでも、親父の意思を引き継いで試行錯誤してできたんが、兄ちゃんが持ってる『冷の雅』だ」
この瓶には男の意思が、熱意が込められていた。
「……これと同じものって、ないですよね?」
失礼を承知で尋ねる。男も神妙な面持ちの巧がなにを求めているのかはわかった。
「それと同じ規格の商品はある。別に一本一本オリジナルってわけじゃねぇからな。けど、兄ちゃんが求めているのはないと言うべきだろうな。去年仕込んだもので同じ商品でも味が違うのはその年の米のでき、気候環境、俺の技術が変わるんだから当然だ。それに、同じ仕込をしたものでも、詰める時の環境、飲む時の状態によって味は変わる。俺は最高のものを作っている自負はあるし、優劣をつけるつもりはねぇが、違いはある。だから、兄ちゃんが求めるものはもうここには、もうどこにもないと言った方がいいだろう」
「そうですか」
ないと言われたが、あまり気落ちすることはなかった。ある程度予想はしていたのだろう。
「すまねぇな」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」
「代わりといっちゃ、怒られちまうが、これをやるよ」
話を聞いてくれたお礼だと一本のお酒を手渡す。
「こいつも俺の傑作の一つだ」
「いえ、もらえませんよ」
「遠慮すんな。若いんならもっと図々しくなれ。それと兄ちゃん、まだ時間あんならあっこ行ってみろよ」
男はそういって、一枚の地図を渡した。目的地には養老の滝と書いてある。
どうやら、むかしむかし、その土地に年老いた父をいたわり、大切にしている木こりがいたらしい。ある日、木こりが薪を採りに山に入ると、岩間から酒の香りがただよってきたようで、木こりは香りに導かれて歩き進めていくと、落差三十メートル、幅四メートルの立派な滝が眼前に現れました。香りはその滝から発生しているようで、木こりは不思議に思い、一口舐めてみますと、酒の味がしました。木こりは喜んでその水をひょうたんにつめて持ち帰り、老父に飲ませますと、老父はこの上もない良い酒だと言って喜び、そして、不思議なことに、酒を飲んだ老父の病は回復し、若々しくなったという古い伝説があるらしい。
今でもそこは観光の名所とされている。
巧は手に持った空の瓶を見つめながら、その場所でお別れを済まそうと、男に感謝し、店を出た。
店を出て十分ほどで山道に入り、そこからはゆるやかな坂を三十分ほどかけて歩いていく。
目的地へ近づくにつれて、せせらぎの音は次第にゴォーーという爆音へと変わっていく。けれど、その音は決して、うるさい、心地悪いものではなく、どこか落ち着く自然なものだった。
「………」
目の前に現れた圧倒的な水量に、巧は見入ってしまう。数分ほど見とれた後に、巧は水しぶきが飛びかかるほど近づき、自然の迫力を間近で感じた。
伝説ではこの水がすべて酒だったと言われていが、それも納得できるほどに、勢いよく流れ落ちる水からは生命を感じた。
巧は空の四合瓶にそっと、水を汲み、なおも滝を見つめていた。
「………」
「………」
いつまでもここに居られるような気がしたが、そういうわけにもいかない。巧は周囲を散策し始めると、すぐに小さな祠が祀られていることに気付く。そこには説明を受けた伝説の内容も記され、祠の前にはおあつらえ向きにお供えのできるスペースが設けられていた。
「ちょうどいいか」
巧はそのスペースにそっと四合瓶を置く。
「これで、本当にお別れだな」
目をつむり、二拍手をしてからそのままの姿で無心になる。
夢のように楽しい日々だった。夢が醒めてから落胆はしたが、ようやく立ち直ることもできそうだ。
「………」
きちんと儀式を済ませようとしている巧の耳になにか聞こえたような気がしたが、巧はそのまま祠の前に立っている。
「…か……で」
滝の音に紛れて、なにか聞こえてくる。ここには自分一人しかいないはずなのに、自分でない誰かの声が聞こえてくる。
「か…て……お…だ……い!」
なにを言いたいのかはわからないが、途切れ途切れになる声は恐怖を与えてくる。
「どうかやすらかに成仏してください」
強く目を瞑り、無心とは程遠いが、強い想いで祈る。けれど、巧の願いとは裏腹に、声はよりはっきりと聞こえてきた。
「勝手にお別れなんてしないで下さい!」
背中越しにはっきりと伝えられた聞き覚えのある声。
もう一度、聞きたいと願っていたが、もう二度と聞くことはないと覚悟していた。
「もう、なんでまた巧さんの前に現れないといけないんですか」
巧は振り返られずにいた。あまりのことに信じられない。まだ自分は夢を見ているのだろうか。
「ちょっと、聞いてるんですか?」
後ろから足音が近づいてくる。けれど、そこにはさきほどの恐怖心なるものは一切ない。巧は苦笑いを浮かべ、振り向こうとすると、それよりも先に声の主は巧の耳を引っ張り、大声で叫んだ。
「勝手に私たちとお別れなんてしないで下さい!」
あまりの声量に鼓膜が破れるのではないかと思った。巧は引っ張る指を振りほどき、耳を押さえながら、「お前が言うなよ」と相手の姿を確認して文句を言う。
そこには不機嫌そうにむくれている一人の女性。腕を組み、そっぽを向きながらも声をかけられることに期待している着物姿の女の子が立っていた。
「私はいいんです。けど、巧さんはダメです」
身勝手な言い分、続けて彼女は「平日の昼間からこんなところまで来るなんて大学生は暇なんですね」と、言い、表情を険しくしてから、「それに、私、言いましたよね? 私たちのことをよろしくお願いしますねって。言いましたよね?」と詰問してくる。
「だから、俺はここに来たんじゃないか」
巧は決して、決別するためにここまできたわけではない。むしろ、自分がどうするかを決めるために来たわけだ。
「ふ~ん。で、どうするか決まったんですか?」
彼女は聞いてくる。不安が半分、期待が半分といったところだろうか。
「あぁ。俺はあのサークルを続けるよ。きっかけはなんであれ、もしかしたら、騙されて担ぎ上げられただけかもしれないけど、朝陽も伊之助もいい奴だからな。どういう未来になるかはわからないけど、楽しい未来になりそうだから、活動を続けてみるよ」
巧ははっきりと続けるという意思表示をした。毎日が同じで退屈しかけていたところに刺激を与えてくれたのはササだった。けれど、ササがいなくなったからといって、また元の退屈な日々に戻す必要もなければ、充実な日々は自分から動いても過ごすことができると思うようになっていた。
「けど」
ここまでは自分がどうするか自分の意志で決めた。ただ、今は目の前にササがいる。
「やっぱり、ササと一緒だと、楽しいし、嬉しいかな」
この場限りの再会かもしれない。これは夢で、目が覚めたらまたササは消えてしまっているかもしれない。未練がましいとわかっていても、お願いせずにはいられない。
「えぇ、いいですよ。また一緒に日本酒の良さを広めましょう」
返ってきたのは、呆気ないほど軽い了承の言葉。
「私もなんで、この世に再び顕現できたのかはわかりません。けれど、最初に見たのは巧さんが私と、いえ、私たちとお別れしようとしている姿でした。それを見て、私がどれだけショックだったか、どれだけ腹が立ったかわかってないでしょう」
「だから、それは違うって」
「本当ですか? かっこつけようとしていませんか? あれから何日経っているのかはわかりませんが、私の最後のお願いを聞いてくれたのなら、わざわざこんなところまで決意しにくる必要はないんじゃないですか?」
自分がいなくなってから、巧がどういう生活を送っていたのかは知らない。けれど、自分のことを気にかけていただろうとは容易に想像がつく。それは嬉しいことだけれども、だからといって、自分たちとの縁を考え直すようなことになって欲しくはなかった。
「それは」
「どうせ、あれから日本酒も飲んでくれてないんでしょ?」
事実を指摘され、巧は黙る。ただ、自分だけが悪いわけじゃない。
「ササだって勝手に消えただろ。俺だって、ショックだったんだよ」
相手にだって、非はあるはずだ。
「そ、それは……」
そこを指摘されては困る。他の日本酒をおいしそうに飲む姿に嫉妬し、巧に自分のすべてを飲みほしてもらいたい。面と向かって言うのは恥ずかしいから、悪いと思いながらも酔わせてなんて、あの時言えなかったことを、こんな場所でとてもじゃないが言えるわけがない。
「だって、巧さんが私のすべてを飲みほしてしまったからじゃないですか。酔って、私がダメです、ダメですって言っても、聞いてくれなかったですし。もう、どれだけ私のこと好きなんですか」
「そ、そうだったっけ?」
酔っていたから覚えていないのだろうか。もし、そうなら、自分のせいなのを勝手に腐って、朝陽にも迷惑かけて。
どれだけバカな男だよ。
「でも、酔い潰したのは私ですから、私が悪い部分もありますよね。ごめんなさい」
「いや、それなら俺こそ」
「はい、ストップです」
ササは謝罪の堂々巡りになるのを止めさせた。事実、巧が酒を飲みほしたから自分は消えた。本当はあの日でなく、あの日は少しだけ自分を飲んでもらって、自分のおいしさを感じてもらうだけのつもりだったのだが、巧があまりにもおいしそうにお酒を飲み、グラスを空けるので、ついつい自分もそれに応えてしまった。
「もう終わったことなんていいじゃないですか。それに、次に私が消える時、役目を果たした時はきちんと巧さんに挨拶をします」
ササにとっても、自分がいなくなったことでショックを受ける巧は少し意外だった。優しい男であるけれど、もう少し冷めた人だと思っていた。
「絶対だぞ」
「フフッ、絶対ですね」
「約束破ったら、俺はもう日本酒なんて飲まないぞ」
「あら、大丈夫ですよ。今回は日にちが短かったから残念な結果になりましたけど、次は私がいなくてもお酒を求めるように変えて見せますから」
「こえーよ」
「覚悟していてくださいね。では」
ササは一歩前にでて、巧の前で右手を差し出す。
「改めて、これからもよろしくお願いしますね」
「あぁ、よろしく」
巧も握手を返し、にっこりと笑いあった。
「でも、不思議ですね。滝の水を入れただけで、中身がお酒に変わるなんて」
ササは空になったはずの瓶を手に取り首を傾げた。
「え、それって中身変わってるの?」
「当たり前です。そうでなければ、私がここにいるはずがありません」
「でも、どうして」
杜氏が同じ酒は造れないと言っていたことを思い出す。しかも、瓶に入れたのはただの水だ。
「さぁ、奇跡なんじゃないですか。ここは伝説の滝ですから、そのくらいのことが起きても不思議ではありません」
「そういうもんなのか?」
「そう思わないと説明できません」
「なら、中身が減れば、ここに来れば補充できるんだな」
「そんな単純なことではないと思いますが」
杜氏の熱意とササの未練、なにより巧の想いが成せたものだとは言わなかった。
「でも、そうですね。伝説では、このお酒は時の帝も褒めるほどだったみたいですし、高貴で優美な私にピッタリです」
「そうだな」
「もう、なんでそんな軽い反応なんですか。もっと仰々しくしてくださいよ」
「なんて言えばいいんだよ」
「そこは『顕現したササの美しさは世界の一大美女に祀り上げられてもおかしくはないから、対価には伝説にも出てくるようなお酒じゃないと釣り合わないよな』って、言うべきです。もう一度やり直しますよ。いいですか?」
ササはコホンッと咳払いをして、「私にピッタリです」と問うてくる。
「顕現した……、って言えるか!」
「もう、恥ずかしがり屋さんですね」
ササはクスクスっと笑い、その姿を見た、巧は「よかったよ、お前が変わってなくて」と呟いた。
「そうですか?」
自分がどういう気持ちで今、この場所にいるのかわかってないんだろうなぁ。でも、相手がそう思っているならと、ササはいつもの言葉を巧に向ける。
「さ、今日は私たちの再会を祝して、帰って飲みましょうね」
「やっぱり変わってないな」
また騒がしい日々が始まる。けれど、巧にとってその騒がしさは心地いいモノだった。
帰り道、酒造蔵の前には杜氏の男が立っていた。
「お、兄ちゃん。滝は見れたかよ。って、そのべっぴんさんは誰だい?」
男は先ほどまでいなかった巧の連れ添っている女性が気になった。
「はじめまして。私、木元巧さんの友人でササと申します」
巧が紹介するよりも前に、ササは男の前に進み出て挨拶をする。
「やるな、にいちゃん」
男は親指を立てて、巧の積極性を褒める。
「そんなんじゃないですよ」
照れ笑いを浮かべながら、巧は男を見据えた。
この人がいなければ、ササが生まれることもなかった。この人の技術と情熱が頂点を極めているからこそ、ササと出会えた。改めて、男に感謝しなければならない。
「兄ちゃん、どうしたんだい?」
自分の顔をじっと見つめられ、男は聞く。
「いえ、なんでもありません。あの、その、ありがとうございます」
「なにがだ?」
男は巧の考えが読めるはずもなく、首を傾げる。なにもしていないのに、いきなり感謝されれば仕方がないだろう。
三人はしばし、談笑し、巧は気持ちばかりであるが、男の進める一本の清酒を購入した。
「あの、また来てもいいですか?」
「おう、いつでも遊びに来な」
「はい、ありがとうございます」と、二人は深々とお辞儀をし、ササは「これからもおいしいお酒を作っていって下さい」とお願いをする。
「任しときな」という男の言葉がササはなにより嬉しかった。
二人は、店を出てから数十歩は無言のままだった。どこか影のある表情を浮かべるササに巧は「もっと話さなくてもよかったのか?」と、聞いた。
「どうしてですか?」
「あの人はお前の親みたいなものだろ?」
「みたいではありません。あの方は私の親です」
「だったら、時間はあるわけだしさ、もっと話したいことを話していてもよかったんだぞ」
「そんなわけにはいきません」
「どうしてだよ?」
「私があなたの娘ですといきなり伝えて、信じてもらえますでしょうか?」
「いや、もっと他の話題でいいだろ」
「無理ですよ。これでも、すんごく我慢してたんですから。もう少しでも話していたら、私はあなたの醸造した日本酒に宿った精霊なんですなんて言い出しかねませんでした」
その言葉を聞いて、相手はどう思うだろうか。「おぉ、そうか」と言われるよりも、気味悪がれるのがオチではなかろうか。
「みんながみんな巧さんのようにお人よしの単純者ではないですからね」
「失礼だな」
「いえいえ、褒めてるんですよ。巧さんも疑っていましたけど、それでもわりとすぐに受け入れてくれてたじゃないですか。そんな人、たぶん少ないです。だから、もし、親でもあるあの人に存在を認めてもらえなければ、私、立ち直れません。そんなに精神も強くありませんから」
「そうかな。あの人なら大丈夫だろ。すっげぇ厳しそうな人だけど、いい人だったじゃないか。言いたいことがあるなら、今からでも遅くない。戻るか?」
巧の自然と出る優しさに、ササはプッと吹き出してしまう。
「大丈夫ですよ。それに、今日が今生の別れってわけでもないですし、また会いに来ますから」
「いや、それでも、言える時に伝えておかないと。お前は勝手に消えるという前科があるからな」
「そうですか? それなら」
ササは「えいっ」と巧の腕に抱きついた。
「えっ、ちょ、なに?」
あまりにも急な行動に動揺は隠せない。
「私、巧さん好きですよ」
「な、なに言ってるんだよ」
「言える時だから言いました。それに、私のお父さんも私たちのこと恋人同士みたいに見ていたじゃないですか」
「あれは、あの人の勘違いだろ。いいから、離れてくれ」
「いいじゃないですか。それに、巧さんもこんな美少女に密着されて嫌な気はしないでしょ?」
そうなのだ。口では嫌だと言いながらも、強く拒否はできない。それをわかってやっているのが、彼女の憎たらしいところ。
「しないけれども、卑怯だぞ」
「なにがですか?」
「そんなことしなくても俺はきちんと手伝ってやるから」
「どういうことです?」
「こういう打算的な言動や行動しなくてもいいってことだよ」
「失礼ですね。私がそんな裏があるように見えますか?」
ササはムッとしながら手をほどき、巧に真意を聞く。
「今までの行動から考えれば当然だろ。それに、ササの好意は最初に見たのが俺だっただけで、いわば刷り込みみたいなもんだろ」
「ふ~ん、そう思うんですかぁ」
ササはこめかみをぴくぴくとさせながら、この男はバカなんじゃないかと思う。そのいい笑顔が癇に障り、ゲシゲシと、巧のつま先を狙って力一杯踏んづけた。
「くぎゅ!」
あまりの痛さに、巧は声なき声を絞り出して、「どうしたんだよ」と聞く。
「なんでもありませ~ん。乙女の純情を信用しないおバカさんにお仕置きしただけですぅ」
ササは三歩離れて振りかえり、可愛くアッカンベーをした。
「でも、ほんとぅに感謝してるんですよ。出会ったのはもしかしたら、たまたまだったかもしれませんが、それでも、巧さんは私に優しくしてくれてますし、もう一度、使命を全うするようにとこの世界に導いてくれました。だから、私は頑張りますよ。私を作ってくれたお父さんのためにも」
「なら、今度は勝手に消えたりするなよ」
「わかってますって。その代わり、巧さんもずっと私の手伝いをして下さいね」
「わかったよ」
巧は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
「そのかわり!」
ササは澄み切った笑顔で、巧の眼前にびしっと指先を突きつける。
「私以外に現を抜かしたりしたら許しませんよ」
笑顔の裏が怖い。ウフフフフという笑い声とともに巧は聞こえないふりをした。
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