五合目 悲しい時には日本酒を飲もう 2

 いつもと変わりない、まぶしい太陽が部屋の中を照らしている。巧は急に意識が覚醒し、ビクンッと、身体を大きく波打たせたせいで、ベッドから転げ落ちてしまった。

「アイタタタ」

 目頭を擦りながら、巧は夢の内容を思い出す。

 ササとは昨日の寝る直前まで一緒にいた。これからも一緒に頑張ろうと巧は思っていたが、彼女は違っていたのか。

 嘘だと信じたかったが、部屋の光景を確認すると嫌な予感しかしない。

 夜遅くまで飲みに興じ、つまみも食べていた。片づけないまま眠ったはずなのだが、部屋の中は綺麗になっている。

 目についてしまったのは、テーブルの上に置かれている、空になった四合瓶。

 これがどういうことか、考えなくてもわかることだが、認めたくはなかった。

「まだだ」

 巧は裸足のままで部屋の外に出ると隣の部屋のドアを開ける。幸いにも鍵は開いていたが、部屋の中は閑散としており、人がいた気配すらしない。

 夢の通り、彼女は自分からさよならしたのだろう。いつかはくるかもと考えなかったわけではない。けれど、今ではないはずだった。

「どういうことだよ!」

 やり場のない感情を吐き出すように大声で怒鳴った。隣人のこともお構いなしに、叫び、床を叩く。

「………」

 けれど、そんなことをしたところでなにか変わるはずもない。黙るだけで静寂になる室内は自分以外がいないことを如実に表している。

 なんでだよ。

 どうしてだよ。

 どうでもよくなったのかよ。

 俺に押し付けるのは無責任だろ。

 文句を並べたところで、なにも返ってこない。夢や幻で片づけられればどれだけ楽か。頭の中では負の感情がぐるぐると渦巻いてくるが、それも時間が解決してくれた。

「………」

 そうだよ。あんなものは夢や幻。友人に話したところで、一笑されて終わるだろう。

「……普通の生活に戻るだけだろ」

 自分に言い聞かせた。


 巧はいつも通り、一限目の講義に出席するため、大学へと向かう。けれど、講義の内容はまったく頭に入らず、時間だけを浪費していた。

 講師の話を右から左へ聞き流し、講義が終わると、出席表だけ提出し、次の教室へ移動しようとする。

「おはよう、昨日はお疲れさま」

 教室を出ようとしたところで、朝陽に声をかえられる。

「………」

 けれど、今日の巧は誰とも話したくはなかった。だからといって、放っておいてくれる朝陽ではない。

「そういえば、今日はササさんと一緒じゃないの?」

 お留守番か、それともどこかに出かけているのか。この数日、ずっと一緒にいた少女の動向はできることなら知っておきたかった。

「………」

 巧は黙る。彼女のことは忘れようとしているが、なかったことにはできない。自分だけでなく、自分の周囲も彼女のことを覚えている。

「ねぇ、どうしたの?」

 黙っているわけにはいかないようだ。巧は呟くように「あいつなら帰ったよ」と伝えた。

「は?」

 当然ながら、朝陽の頭上には?が浮かぶ。「どういうこと?」と、聞かれても巧にだってわからない。

「だから、いなくなったんだよ」

「どこに?」

「……俺だって、知りたいよ」

「なにかしたの?」

「………」

 理由を追及されてもただ困るだけだった。どう言えば、相手を、なにより自分を納得させられるのだろう。

「ねぇ、ササさんはどこにいったの? 巧はそれでいいの?」

「………」

「なにか手掛かりとかないの? あたしは昨日が最後だなんて思いたくないよ」

「………」

「ねぇ、なにか言ってよ」

「……もう、どうでもいいじゃないか」

 朝陽の追及に巧は吐き捨てるように言葉を呟く。

 バシンッ!

 投げやりな言葉に朝陽は思わず手が出てしまう。

 あまりに急な攻撃に、巧も一瞬、目が点になるが、「なにすんだよ」と、すぐに明確な怒りを込めて相手を睨んだ。

 しかし、相手は一歩も引かない。「なんなのよ、その態度」と、より強い口調で言い返してくる。

「だから、どうでもいいだろ。朝陽には関係ない」

「関係なくない!」

 もしかしたら、踏み込んではいけない、踏み込まれたくない話題なのかもしれない。知らないでいいことも、知ってはいけないことも世の中には多く存在する。それでも、どんなに話したくないことでも、どんなに些細なことでも巧に関することであれば知っておきたい。曖昧なまま終わらせたくないという、若さゆえの勢いを朝陽は持っていた。

「………」

 相手の本気に、巧は黙るしかない。

「ちゃんと、話してよ」

「………」

 答えに窮する。出てきたのは「ほんとうにわからないんだよ」という、言葉だけ。

 昨日の夜にお酒を飲んだ。起きたらササがいなくなった。ただ、それだけ。

「そうなんだ」

 巧自身も戸惑っている。それがわかったことで朝陽は「その、ぶったりしてごめん」と謝った。

「いや、いいよ。俺こそ、気が立ってたみたいだ」

 朝陽と話をすることで、巧も気持ちが落ち着いた。

「俺、次の教室に向かうから」

「え、あ、うん」

 自分の行動を反省しているのか、朝陽はどこか気落ちしていた。

「そうだ。今日、ご飯でも食べに行くか?」

 元気づけようと、巧は声をかける。

「え? 今日?」

「そう、今日。予定あるなら別にいいけど」

「予定ない。まったくない、フリーだよ」

 突然の誘いに、最初はきょとんとしてしまったが、相手の気持ちが変わらないうちに慌てて返事をする。

「じゃ、決まりだ」

「それって、二人で?」

 朝陽は確認する。昼休みに食堂で、講義の後に朝陽が誘って、二人で夜ご飯を食べることはあったが、巧から誘われたのは初めてだった。

「他も誘うか? 伊之助とか」

「ううん、いらない。二人がいい」

「そうか」

 朝陽の言葉にも、巧は一言返すだけで、「場所や時間はあとでメールするよ」とだけ言った。

「うん、わかった。あとでね」

 巧に手を振り、姿が見えなくなると、朝陽は「二人でご飯か~」と、思わず顔もにやける。

「家に帰って、着替えてきた方がいいかな?」

 自分の格好を見直し、胸をワクワク躍らせる。巧の誘いに、それ以外の事柄は頭の隅からも追いやられたのは、仕方のないことだろう。


 五限目の講義が終わり、二人は大学で落ち合い歩き始める。朝に会った時と服装を変えているにもかかわらずなにも言ってくれない巧に少しムッとしたが、それでも、まだ嬉しさの方が優っている。

 行くあては決めていなかったが、あまり騒がしい雰囲気にもなりたくなかったので、飲食街から一本外れた通りに入り、目についた居酒屋へ入る。

 そこは掘りごたつ式のテーブル席が二つとカウンター席が十ほどの個人が経営しているこじんまりとしたところだった。

 二人はカウンターに通され、「生ビール二つ」と、ドリンクの注文をした。

 すぐに飲み物とお通しが二人の前に運ばれてくる。

「なら、乾杯しようか」

「そうだね」

 こうやってカンパイするのは今までにも何回かあるが、二人きりというのは初めてかもしれない。

『カンパイ!』

 朝陽はどこか緊張しているのか、声が上ずった。けれど、巧はなにも気づかずに、ジョッキを煽り、アルコールを体内へ入れていく。

「なにか、頼もうか」

「そ、そうだね」

 二人はお品書きを見ながら、焼き鳥の盛り合わせや鳥皮ポン酢、野菜スティックなどをてきとうに頼んでいく。

 巧は料理を頼むと同時にもう一杯ビールを頼み、焼き鳥が運ばれてきた時には、さらにもう一杯、飲み物を追加した。

 大丈夫かな?

 朝陽が心配してしまうほどだったが、ペースが速いことを除いては、巧に大きな変化はない。

 あの講義はどうだの、次のテストはどうだの、伊之助がまたなにか企画しているだの、大学に関することが話題の中心となり、時間は過ぎていく。

 けれど、楽しい時間は長くは続かない。

「次、なに、頼もうかな」

 朝陽もお酒の力を借りて、初めのような緊張感はなくなっていた。

「あんまり、むりするなよ」

「しないよ。けど、巧はあんまりお酒を飲む子って好きじゃなかったりするかな?」

 朝陽は今さらながら確認する。これで嫌いと言われたらどうしようかとも思ったが、「いや。そんなことないし、楽しく飲めるならいくら飲んでもいいくらいだ」という言葉に安堵する。

「それに朝陽と飲むのは楽しいし、好きだよ」

「そ、そうなんだ」

 思いもよらない言葉に頬が火照るのを感じ、「あ、そうだ。日本酒、頼んでみよっか」と、朝陽はごまかそうとするが、そのキーワードに巧の表情は一瞬強張る。

「好きにしたらいいんじゃないのか?」

 自分でも驚くほどに冷めた声音だったが、相手は気づかない。

「巧も飲むでしょ?」

「俺はいい。いらないよ」

「そうなの。なんで?」

「どうでもいいだろ」

「そう。あたしは頼むね」

 朝陽の前に冷酒グラスが置かれる。一口だけ飲むと、思わず、「けど、ササさんって、いったいなんだったんだろうね?」と避けていた話題が口をついてしまう。

「さあな」

 それでも巧は素っ気ない態度。さすがの朝陽も意識的にこの話題を避けているのに気づかされる。

「………」

「………」

「そういえばさ」

 朝陽は言葉を選んで、話題を変える。ササがいなくなって、巧も気落ちしている。この時はそう思った。

「ねぇ、聞いてる?」

「あぁ、聞いてるよ」

 けれど、時間が経っても、巧は終始上の空で生返事を繰り返し、淡々とアルコールを仰ぐが、頑なに日本酒だけは頼まない。その拗ねた子供のような態度に朝陽はイライラし始めていた。

 その原因はわかっている。自分から不機嫌にさせるようなことを口にしてしまったが、だからといって、あたしを蔑ろにしていい理由にはならない。いや、どんな理由があっても巧に蔑ろにされるのは我慢ならなかった。

「巧、やっぱり今日はいつもと違うよ」

「……そんなことない。いつもと一緒だ。いや、いつも通りになったんだ」

「そんなことないよ。だって、今日はあんまり笑ってない。あたしといても楽しくないの?」

 朝陽は聞いた。ストレートに聞いた。

「楽しいさ」

 巧は飲みかけのグラスを置き、きちんと朝陽を見て、ぎこちない笑みを浮かべた。けれど、自分が見たいのはそんな表情じゃない。自分が好きになったのはそんな男じゃない。

「こういう時は悩みとかあるなら吐き出す方がいいよ。あたしでよければ話は聞くしさ」

「悩みなんてないさ。強いてあげるなら、来週のレポートで何をテーマにしようかなくらいだな」

「そ、う、なんだ。レポートって細井先生のコーポレートガバナンスについて実例を用いて説明しなさいってやつだっけ?」

 朝陽はきちんと巧の話を拾う。けれど、相手は「あぁ」という返事だけで話を繋げる気がない。

「ねぇ」

「あぁ、聞いてるよ」

「………」

 相手もアルコールを飲んでいる。酔っていては会話も成り立たないことはよくあると聞くが、今はそうじゃない。

 深夜三時のファミレスのようなだらけた空気がそこにある。服も変え、楽しみに参加した自分の気持ちを踏みにじられた気がした。

「………」

「………」

「………」

 こちらから話しかけなければ、会話もしてくれない。どこか上の空なのはいなくなった女の子のことでも考えているのだろうか。

 だったら。

「ねぇ、ササさんってさ」

「そいつの話題はもういいだろ」

 はっきりとした否定の言葉。けれど、巧の嫌がることはしないでおこうと決める朝陽もこの態度にはイライラが沸点に到達する。

「なんで、そんなこと言うのよ」

「お前こそ、なんでいなくなった奴のこと気にするんだよ」

「気にしてるのは巧の方じゃん」

「そんなことない」

「だったら、もっとあたしを見てよ。そんな心にもない言葉をあたしに言わないでよ。そんなんじゃ、楽しめない。あたしだけはしゃいでバカみたいじゃん」

「………」

 朝陽の紡ぐ言葉に巧はなにも言い返せなくなる。

「なんのためにあたしを誘ったのよ」

 一人が嫌だった。ぬくもりが欲しかったとは言えない。そして、相手が朝陽でないといけないわけじゃなかったことは口にしてはいけない。

「どうせ急に一人になったのが嫌だったんでしょ。巧は常に誰かと一緒にいようとするもんね。それは、付き合いがいいからじゃなく、ただ一人が嫌だからだもんね」

 けれど、相手にはばれていた。無言でいることは朝陽の言葉を肯定してしまうのだが、たとえ言葉が口をついたとしても言い訳にしかならない。

「でも、ここ最近の巧はとても楽しそうだった。それはササさんのおかげだよね」

「………」

「だからって、話題にするのも嫌なんて子供染みてるよ」

 朝陽の声は次第にか細く震えてきた。

「あたしだけ? 今日のことを楽しみにしてたのって、あたしだけなの? 巧は? 巧はそうじゃなかったの?」

「楽しみにしてたよ」

 あたしを想っての優しすぎる嘘。

「そんなことない。巧は一緒にいられるなら誰でもいいとか思ったはずだよ。それでも、あたしを誘ったのはなんでなのよ」

「それは朝陽が誘いやすかったから、かな」

「なんであたしが誘いやすいか、わかる?」

「……朝陽が優しいからかな」

 とんちんかんな答えに、朝陽は溜め息を漏らし、こぼれるように「気づいてよ。あたしの気持ちにも、……なにより、自分の気持ちにも」と呟いた。

 その言葉ははっきりと巧の耳にも届く。

「わかってるよ」

「わかってないから言ってるんじゃん」

 それっきり、二人は黙り込む。どれくらいかの時間が経って、おもむろに朝陽が「あたし、もう帰るね」と席を立つ。

「わかった」

 もちろん巧は席を立たない。女の子を一人で帰すことになったとしても、この場面、朝陽と一緒に外に出るわけにはいかなかった。

「なにかあったら、手伝うから」

「ありがとう」

「サークルはまだ続けるよね」

「………」

 この問いには答えられない。彼女がいなければこのサークルを続ける意味はないと思うが、朝陽と伊之助を巻き込んだ責任はある。

「次、会う時には答えを聞かせてね」

「わかってる。伊之助にもきちんと話をしないといけないしな」

「そうじゃないよ。バーカ」

 期待した答えは当分聞けそうにない。けれど、巧の真面目な表情に朝陽はほっと胸をなでおろす。


 悪いことをしてしまった。

 朝陽が店を出て行ってから、後悔の念が押し寄せる。悩むなら自分ひとりで悩めばいい。意地を張るなら、誰にも迷惑をかけてはいけない。

 そんなことが大人になったのにできていない自分に腹が立つ。

「兄ちゃん」

 巧の表情に思うところがあったのか、今まで黙って料理をしていた店主が調理の手は止めず、カウンター越しに声をかけてきた。

「後悔すんなとは言わねぇ。俺もこんな仕事してりゃ、いろんな奴を見てきたし、酒を飲んでりゃ、言い合いで喧嘩もするだろう。見せたくない、知りたくもない醜態をさらすこともあんだろう。そうなる可能性があるのが酒だ。だからって、そんなことがあっても気にせず、後悔もしねえ奴はただの馬鹿だけどな」

 いきなりの言葉であるが、巧は耳を傾ける。

「でもな、後悔を後悔で終わらせる奴も馬鹿だ。そういう失敗があったから、もう酒は飲まねぇ。利口なのかもしんねぇが、それは俺にしちゃあ、もったいねぇ生き方だ」

 店主は淡々と、巧に対してではあるが、あくまで独り言のように言葉を紡ぐ。

「兄ちゃんはどうする? 今の後悔をそのまんまにしとくのか? そんじゃだめだ。後悔だけで終わらしちゃいけねぇ」

「そうですね」

 店主の言葉に、決意のためにやるべきことが見えた気がした。

「後悔や失敗なんて恐れんな。なにより、酒は楽しく飲みやがれ」

 最後の言葉はどこかで誰かが言っていたのと同じだった。

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