五合目 悲しい時には日本酒を飲もう
頭の中に誰かが話しかけてくる。
『巧さん、巧さん』
誰かが自分のことを呼んでいる。相手の姿は見えず、巧は耳だけしか傾けることができない。
『こうして話しかけるのは二度目ですね。あの時も私が一方的に話すだけで、巧さんは反応してくれませんでした』
声の主は少しだけトーンを下げるが、すぐにパッと明るい口調に戻る。
『でも、今はこの方がいいですね。あなたの顔を見ながらだと、また未練を持ってしまいそうなので、先に謝っておきます。ごめんなさい』
巧は姿の見えない相手を確認しようとするが、瞼は開かず、ただ、暗闇の中で相手の声だけを聞く。
『でも、私は巧さんのおかげで、無事、自分の幸福を成就することができました。ありがとうございます』
彼女はなぜ、今さら自分に謝ったり、感謝したりするのだろう。不安な気持ちが巧を襲う。
『それから日本酒は好きになってもらえましたか? もちろん、好きになりましたよね? だって、最高の日本酒を飲んで、あんなにいい笑顔でおいしいっていってくれたんですもん、嫌いになるはずがありませんよね』
次の言葉を聞きたくない。起きろ、すぐ近くにいる彼女の手を掴んで、次の言葉を言わすな。
どれだけ強く念じても、身体は動いてくれないし、重い瞼は開かない。
『私がいなくなっても、これからも日本酒を、私たちのことをよろしくお願いしますね。私の想いを引き継ぐんですから、中途半端なことはしないで下さい。これは、絶対の約束ですよ』
待ってくれ。そこで言葉を終えてくれ、最後まで話を聞きたくない。けれど、巧の願いは届かず、彼女の独白は終わりへと向かう。
『さようなら』
短い一言を言い終わると、意識は遠のいた。
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