四合目 飲み会サークルを作ろう 6

「あはは、楽しいなぁ」

 ほんとにからかいがいがある。ササは先ほどのやり取りを思い出し笑いしていた。

「けど、もうちょっと気をきかせて欲しいですね」

 普段はシャワーでお風呂を済ますのか、浴槽の中は空であった。

「お風呂はゆっくりとリラックスする場所ですのに」

 軽く浴槽を掃除してからお湯を張る。蛇口から勢いよくお湯が流れ出る風景を所在なく見ていた。

「あはは、楽しい、……な」

 もう一度呟く。しかし、今度の呟きは思わず口をついたものではない。それはどこか自問を、確認を含んでいた。

「でも、私がこんなに楽しんでいてもいいのかな?」

 自分はこの世を満喫するために顕現したわけではない。むしろ、初めは今の世を、自分を、自分たちを蔑ろにする今の状況を憎んでいたはずだ。そして、その状況を変える強い意志を持っていた。

 けれど、自分はまだなにもしていない。成していない。やったことと言えば、数人に日本酒を勧めただけ。自分の趣味を相手にも知ってもらう一般人と変わりない、小さい、小さすぎる範囲での活動。それだけしか、まだしていない、いや、他の人、数日前の自分からしても、そんなのなにもしていないと糾弾してしまいそうな毎日を楽しいと思っている。

「……よくないよね」

 そんな自分を許してはいけない、許されない。

「でも」

 ササは一つ間をおいて、自分の中のいくつかの意見を自分の耳に聞かせるように話し始める。

「たった一人でできることは限られているし、この時代に私のことを絶対に必要とされてもいない。だったら、私を必要としてくれる人に尽くすべきじゃ」

 そんな考えを振り払うように、ササは頭を大きく左右に振った。

「それも大事ですけど、やっぱり今の状況は」

 好ましくない。

 ササだってわかっているが、気持ちだけが先走っている。

 自分ならこの状況を変えられる。思い上がりにも似たこの感情をササは疑わずにいられなかったし、今でもそれはできると信じている。

 今日だって、範囲こそとても小さいが、日本酒の魅力はきちんと伝えることができた。放っておいてももてはやされる時代は終わり、ライバルはたくさんいる。それでも、もう一度ブームに、そして、日常の風景に戻る日がくると信じている。

 だがしかし。

 そのためには絶え間ない時を、ひたすら生きていかなければならない。自分たちの願いを第一に自分の願いは二の次に。

「どうしましょう」

 考えても答えはでない。

「どちらにしろ、巧さんにはもっと私の良さを知ってもらわないといけないですね」

 お風呂がたまったところで、ササは一つの方向性を決めた。


「巧さん、巧さん。今日はちょっと趣向を凝らして酒風呂を用意してみました」

 お風呂から上がってくるなり、ササは巧に伝える。

「お前、勝手なことするなよ」

 けれど、巧はあまり喜んでいない。

「なにを言ってるんですか。浴槽の汚れ具合から見て、巧さん、あんまりお風呂に浸かっていませんよね? お風呂はシャワーだけよりも、きちんと湯船に浸かった方が疲れも取れるんですよ。それに、今回はなんと酒風呂です。酒風呂は普通のお風呂に入るよりも血液促進、保温保湿、なにより美肌効果とメリットだらけのお風呂なんです。温かいうちに入って下さいね」

 巧は話半分に聞きながら「あぁ」と、相づちを打つ。

「あ、あと、最後に水を抜いて、シャワーで浴槽を洗い流して下さい」

「めんどうだな」

 後ろから声をかけられ、思わず愚痴る。

「なにを言っているんですか。そのひと手間で得られる効果を考えたら」

「わかった、わかったから」

 巧は小言を制して、足早に浴室へ向かった。

「では、私も始めましょうか」

 そして、彼女は彼女でサプライズを起こそうと準備を始める。


「お前の段取りには舌をまくよ」

 お風呂から上がった巧の前には、小料理が三品ほど並び、ご丁寧にも、お猪口ととっくりも用意されていた。

「だって、巧さんも日本酒を買っていたでしょ?」

「そうだな」

「野菜やお魚は当然ですけど、お酒などのし好品もできることなら買ってすぐに頂くというのが理想なんですよ」

「それは開封後ってことじゃないのか? だったら、今からよりも、家飲みとかやる時の方が時間を置かずに飲み切れて、おいしく飲めるんじゃないのか?」

「そうなんですけど。もう、こんな綺麗な女性が一緒に晩酌どうですか。なんて聞いてきたら、二つ返事で喜ぶのが殿方ではないのですか? そんなこと言う人、嫌いです」

「ははっ、悪い悪い」

 本心ではまったく嫌ではない。巧は朗らかに笑って、きちんとササの対面に座る。その素直な態度にササの表情も緩んだ。

「では、今から飲んで頂くのはこれです」

 ササが取り出したのは、巧が本日購入したものではなく、自分の化身でもある『冷の雅』だった。

「そ、それって」

 巧も思わず瓶を指さして言葉に詰まる。

「この数日で巧さんも少しは頑張っているみたいですから、ご褒美として最高級の日本酒を口にして頂こうかなと思いまして」

「でも、それの中身がなくなったら、お前は消えるんじゃないのか?」

「もちろん、全部飲んでもらうわけではありませんよ」

「けど、それなら俺が買ってきたやつでもいいんじゃないのか? 味はおいしいっていうのはお店で飲んで知っているわけだし」

「私でない他のお酒ばっかり飲まれるのは、ちょっと、ほんの少しだけですけど、嫌なんですぅ」

「なんで嫌なんだ?」

「気づかないならいいですぅ。さ、今からは私を頂いてもらいますからね」

 ササのふくれっ面の意味が巧はまったくわからないが、言われるままにお酌を受ける。

「ありがとう」

 注がれたグラスに口をつけようとすると、「あの、私もよろしいですか?」と、ササが遠慮がちにグラスを手に取る。

「えぇと、なにを」

 その意図に気づかない巧ではないが、過去の惨劇を思い出すに、気づかないふりをする。

「だから、私も、巧さんと一緒にお酒を頂きたいんです!」

 けれど、それで諦めるササではない。巧が露骨に嫌な顔を見せても「大丈夫です。前の失態は、私以外のアルコールを体内に取り込んでしまい、異常をきたしてしまいましたが、今回は私の化身を頂くのですから問題はありません」と、自信を持って答えた。

「お前はややこしい設定が多いなぁ」

「設定なんて言わないで下さい。というより、話を逸らさないで下さい」

 ササは語尾を強めて、「私も一緒に飲みたいんです」と、言うので、巧も観念して、ササのグラスにお酒を注いだ。

「ありがとうございます。では、乾杯しましょうか」

「そうだな」

「では、今日という一日を楽しく終えるために」

『かんぱ~い』

 二人の二次会がようやく始まり、お互いにグラスに口をつける。

 その瞬間、甘い香りが鼻孔をくすぐり、口の中には幸せが広がる。それは一気にグラスを傾けるのではなく、ゆっくりと下の上で味わいたくなるものだった。

「………」

「………」

「あの、どうですか?」

 一息ついたところで、ササが恐る恐る問いかける。

「なにが?」

「お酒の味のことです」

「ん? あぁ、おいしいよ」

 たった一言、特に感情が込められているようにも見えない言い方にササは唇を尖らせた。

「それだけですか?」

「え、いや、おいしいよ」

 巧はなぜササの背後に怒気が見え隠れしているのか、わからない。ササも巧の語彙力のなさはわかっていることではあるが、それでもその反応が物足りないと思うのは仕方のないことだろう。

「もっと他にないですか? ほら、味に深みがあるとか、喉を通る時はサラリとしているとか、フルーツのような甘い香りがするとか、澄んだ小川のような透明感とか、肌がきれいだねとか、可愛いとか」

 最後の方はなにに対しての褒め言葉か首を捻るところだが、ササは他愛ない一言だけで自分を表現されたくはなかった。

「いいじゃないか、おいしい、おいしくない。それだけの感想でも」

「そうです、そうなんですけど、このお酒に関してはもっと情熱的にロマンチックに、愛を囁くように表現してもらわないと、嫌なんです」

「面倒だな」

 思わず口を吐く一言にササが噛みつく。アルコールが入ったせいか、以前ほどではないが、多少はテンションが高くなっている。

「これくらいで面倒なんて言っていたら、すぐに彼女に愛想つかされちゃいますよ」

「俺は大丈夫だよ、きっと」

 彼女なんていたことないが、楽観的に答える。想像の中では、シミュレートの中では完璧なんだ。あとはそれを実践するだけでいい。

「そうでしょうか? 今だって、たった一言で感想を終わらせようとしていましたし。男同士ならそれでいいかもしれませんが、女の子、ましてや、彼女にはついでの一言。余計なものでなく、思いやりの一言は付け加えないといけませんよ」

 さらに、巧への小言は続く。

「それに、巧さんは異性に慣れてないじゃないですか。私がちょっと距離を詰めるだけで緊張して、普段よりも口数が少なくなる気がしますし」

「そんなことないさ」

「では、私と一夜限りの疑似恋愛でもしてみますか?」

 ササはそう言って、テーブルを挟んで向かい側から、巧の隣へと移動すると、「どうです? 平常心でいられますか?」と、蠱惑的な笑みを浮かべながら聞いてくる。

「当然だろ」

 口ではそう言っても、無意識に、不自然に彼女から視線を外してしまう。

「そんなぁ。私ではダメなんですか?」

 これが演技だとわかっていても、彼女も自分の魅力を自覚して、からかっているだけだとわかっていても、彼女と触れ合える位置にいるだけでドキドキは止まらない。これは慣れていないせいとか、そういうのではない。彼女が魅力的すぎるのが悪いのだ。自分は悪くない。

「………」

「はい、終わりです」

 ササは巧の顔が赤くなったのを見て満足したのか、隣の位置からもとの対面へ戻る。彼女が離れたのを、残念がってしまったのは仕方のないこと。けれど、成人しても、その単純さが変わらないことに少しだけ悲しくなる。

「ふふっ、巧さんは面白いですね」

「からかうなよ」

 相手に翻弄されるのは楽しいものではない。が、彼女の笑い顔を見ていると、不思議と楽しい気持ちで上書きされてしまう。

「それに巧さんにも自覚が出てきたみたいですからね」

 ササが嬉しそうにしているのは一緒にお酒を飲んでいるからだけではない。ここ数日、巧はササに付き合って宴席に参加してくれている。なにより、今日はサークルを作り、自分と一緒に活動してくれるようになった。

「そうか?」

 けれど、巧自身はまったく、なにも自覚はしていない。ただ、ササに巻き込まれているだけだと思っている。

「そうですよ。それに、巧さんにはこれから日本酒の良さをもっともっといろんな人に伝えていってもらいたいんですから」

「けど、俺一人じゃなにもできないぞ」

「そんなことはありません! 巧さんは一人でも立派に日本酒のことを、素晴らしさを伝えていけます」

 断定されたきつい口調に、その場を支配していたふわふわした空気というものが変わる。

「どうしたんだよ」

 思わず聞いてしまった。まだまだ自分は日本酒のことを知らなすぎる。一人でなにかしようにも一人でちびちび飲むしかできないだろう。それに、日本酒を飲むのはササがいるからというのが巧の本心だった。ササが勧めてくれるから、ササが頑張っているから自分も手伝おう。

 自分の行動原理はそれだけだった。なのに、彼女の物言いから一つの考えが脳裏をよぎってしまう。

「お前、もしかしていなくなんの?」

 彼女からは使命は聞いたが、期限は伝えられていない。妖精という言葉から、永遠を生きられるものだと勝手に想像していたが、あまり時間はないのかもしれない。

「そういうことではありません。これから先もずっと二人で同じところに向かうのは難しいはずですから、そんな情けないことを言われるのは困るということです」

「そうか」

 巧は安心し、グラスのお酒を空ける。そして、ササもすかさず、お酒を注いだために、巧は彼女の表情を確認することはできなかった。

「だから、他人ごとにしないでくださいね」

 彼女の笑顔で、場も再度朗らかになっていく。巧は流れるままにお酒を飲んでいった。

「……楽しい日だ」

 不意にそんな言葉が口をつく。ササは「それはお酒のおかげですよ」と、彼に答えた。そして、「それに、巧さんだからとも言えますね」と、彼に聞こえないように言葉を続ける。

 ストレスの発散方法はという問いに、アルコールと言うのは割と上位に来る答えだ。けれど、きちんとストレス発散するには、アルコールの量は適度でなければならず、度を越してしまえば次の日に影響を与え、活力どころか、やる気さえも削いでしまうもろ刃の剣。楽しくお酒を飲み終え、次の日も体調良く生活するのは、簡単なようで難しいとササは知っていた。

「ありがとうな」

 巧の言葉に、ササはキョトンとなり、「どうしたんですか?」と聞いてしまう。

「いや、ササと出会ってから最近楽しくてさ。まさか自分がサークルを作るようになったりするとは思えなかったし」

 数日前の自分からは想像もしていなかった今に巧は感謝している。

「だから、こういう時にしか言えないかもしれないから。ありがとう」

 巧は照れているのかぶっきらぼうに言い放つ。

 ササもくすくす笑い、「私も楽しいです。ありがとうございます」と、続けた。

 けれど、「……私は巧さんと出会えて本当によかったです」という言葉は強く想っても、口には出さない。

「もう一杯飲みましょう。そして、明日からもサークル活動頑張って下さいね」

 いつも以上に飲みやすく感じる日本酒に、今までにない心地よさに浸りながら、巧の幸福な時間は過ぎていく。

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