三合目 日本酒を広めよう 3
「おはようございます」
今日はササが巧を起こしに来ていた。
「おはようございます」
けれど、朝陽のように手馴れていないのか、巧は一度寝返りを打つだけで起きる感じはしない。
「どうしましょうか? あまり大声を出すのもはしたないですし、かといって、寝顔を愛でるほど、巧さんの顔は可愛らしくないですし」
ササはぶつぶつ言いながら、部屋の中のある一点を見つめ、思いつく。
机の上に放り出されている広辞苑を手に取ると、巧の腹上めがけて「えいっ!」と勢いよく放り投げた。
ズシンッという音とともに「ぐげぇ」とカエルを潰したような声が響く。
「起きましたか?」
問いかけに対する反応はない。巧は丸くなってただうめいていた。
「まだですか?」
ササは転がっている辞書を拾いなおして、もう一度頭上に持ち上げる。
「ちょ、ちょっと待て!」
次の攻撃を受ける前に巧はお腹を押さえながら制す。
「おはようございます」
彼女は辞書を振り上げたまま、にこやかに挨拶をしてくる。
「……おはよう」
けれど、幸せな朝の時間を壊しに来た相手に対して、同じようににこやかな挨拶ななんてできない。
「あれれ? 巧さんって低血圧なんですか? 朝はもっと元気よくいかないといけませんよ」
「あんな起こし方で明るくいけるわけないだろ」
「そんなの、声をかけてもなんの反応もなかったんですから、仕方がないじゃないですか」
ササは非難の視線にもまったく悪びれる様子もなく、むしろ寝起きの悪い巧に原因を向ける。
「それなら、もう少し、起こし方をだな」
「声はかけました~。私の声の最大ボリュームでかけました~。でも、巧さんは起きてくれませんでした~」
それを言われると辛い。大学生になり、ついつい二度寝や目覚めが鈍いことが増えたのは事実だ。理由は単純なもので就寝、起床時間が不規則になったからだろう。
「それでももう少し起こし方を考えてくれよ」
「あれ? 痛いのはむしろご褒美じゃないんですか? 私は至極の表情を受かべていると思って、何回でも、起きるまで続けるつもりでしたよ」
「苦悶だよ。あの悲鳴と表情を至極と感じるなら、お前の感性は大したもんだよ」
「エヘヘ~」
はにかんでいるササを見ながら、思わず「褒めてなーい!」と声を張り上げてしまう。
「わかってますよ。それなら、次からはきちんとキスして起こしてあげますね」
そういって、ササはニタニタしながら、巧の方へすり寄った。
「起きるのはお姫様、起こすのは王子様というのが相場なので、役割的には逆なんですけど」
「え、おい」
巧はされるがままにササの接近を許す。
「なんてね」
息遣いさえ感じられる距離。思わず、巧が目を瞑ってしまったところで、ササは巧から距離をとった。巧は硬直したまま、心拍数だけが速く動き続ける。
「ほら、これではっきりと目は覚めましたよね?」
「あー、起きたよ。けど、まだ時間が早くないか?」
憮然とした気持ちを悟られないように、巧は視線を時計に見やった。時計の針は九時を指しているが、今日の講義は二限目から。通学時間が五分の下宿生にとってはまだ身支度の時間を差し引いても一時間はは時間的余裕があった。
「なんでですか? 今日は私をダイガク? ってところに案内してくれるんですよね? だったら、早めに準備していきましょうよ」
「……そんな約束、してないが」
「そんな嫌そうな顔しないで下さいよ」
容易にトラブルが想像できてしまう巧に、ササは渋い顔をする。
「それに、これは約束ではありません、命令です。私の使命は日本酒の良さを多くの人に伝えること。昨日みたいに家の中で情報収集もたまにならいいですが、基本はフィールドワークの方が重要です」
ササのやる気に巧は腕を組んで考える。このままでは無理やり部屋に残れと言っても、聞く耳は持たないだろう。監督責任なんてないのだが、自分の知らないところで問題を起こされるよりは、一緒に行動した方が、安心のような気がする。
「よし、わかった。けど、目立つような行動は控えろよ」
幸いにも、大学の構内には、常時、軍服やセーラー服姿の男女が少なからずはいる。一人くらい、和服の部外者がいても注意なんてされないだろう。
「はい、はーい。もっちろんですよ」
その軽い返事がより不安をあおったが、別行動するよりは幾分ましなはずだった。
と、考えていた自分の甘さを家を出るなり嘆いた。
大学へ向かう五分の間にも、無数の視線が二人に向けられた。いや、実際には男性の多くがササに惚けた視線を向け、巧にはしがない嫉妬が向けられる。そして、二人が大学構内に入っていくと、今まで学内では見たことのない見目麗しき少女に男子学生は巧を気にせず、こぞって声をかけてくる。
「何学部?」
「どっか、サークル入ってるの?」
「きみ、可愛いね」
繋がりを持つための軽すぎるジャブを、ササはアララ、ウフフと良い顔をしながら流し、「ご主人様助けてください」と巧の背中に隠れた。
『なんなんだ、この男は。この子の、なんなんだ』
視線だけで、相手がなにを言いたいのかわかってしまう。
「早く行くぞ」
「はい、はーい!」
巧は群がる男どもを避けながら、足早に教室へと向かう。
可愛すぎる彼女に和服のコスプレをさせて、ご主人様と呼ばせている憎いやつ。と、巧の知らないところで、自身の噂が広がっていった。
いつもより、二十分ほど早く到着するだけで、二百人は入る教室もまだ閑散としていた。巧は目立つのを避けようと、なるべく後ろの席を陣取り、ササはそれについていく。
「あまり目立つなよ」
席に座るなり、巧はササに注意をするが、相手はなんのことかわからずに首を傾げる。
その反応も当然だろう。ササはただ歩いているだけで、特になにもしていない。お前が綺麗すぎるから目立つんだなんて騒いでも「そんなの、どうしようもない」と、言われるしかないだろう。
だから、それはどうでもいい。けれど、一点、巧には直してもらいところがあった。
「ほら、俺の呼び方とか」
「いけませんでしたか? 殿方はあーいう呼び方が喜ぶと言っていたのですが」
嫌なわけがない。そう叫んでしまおうかと、思ったが、ここは心を鬼にして、「嫌なわけではないけれど、あんまり呼ばれている人は少ないし、注目されるのは本意じゃないから止めてほしい」と伝える。
「なら、お兄ちゃんとかの方がよかったですか?」
「………!」
その言葉に、頭の先からつま先まで、一本の電流が走った。
「お兄ちゃん?」
「ぐあっ!」
その反応が面白かったのか、「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」と楽しそうに呼んでくる。
これはこれで楽しいひと時だったのだが。
「なにしてるの?」
二人のやり取りは、一人の少女の冷たい声音によって、終了された。
「はい。巧さんがどうしても俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれとしつこくて。私はこんな場所では嫌だと言ったんですけど」
ササは泣きまねを入れながら、あくまで巧が悪いと朝陽に説明する。
「お、おい。それだと、俺がそういう趣味の男になってしまうじゃないか」
「でも、ご主人様は止めてくれっていうのに、お兄ちゃんはなにも言わなかったですよね?」
「そ、そりゃ、言葉のインパクトにビックリはしたけれども、恥ずかしいことに変わりはないし、なにより、俺が言わせているみたいなことを言うのはよせ」
「え~、いいじゃないですか」
ササはなおも巧をからかうが、面白くないといった表情で二人を見ている少女が一人いた。
「ずいぶんと仲が良いのね?」
先ほどよりも棘のある言い方で朝陽はどちらにでもなく声をかける。
「そうですね。巧さんを起こして、一緒に家を出るくらいには仲良くなりました」
「へ~」
楽しそうな声音のササと非難めいた声音の朝陽。
「お前はなにを言ってるんだよ。それより、いつもは前の席で講義を受けるのに、珍しいな」
巧は不穏な空気を感じて、話題を変えようとするが、「なに? 巧の姿が見えたから話しかけにきたことがそんなにいけなかった?」と、さらに朝陽の機嫌を損ねてしまう。
「そ、そんなことないよ。俺も朝陽の顔を朝から見られて元気になったよ」
明るい笑みを浮かべ、適当な相づちを巧は打っただけだが、言われた方は「な、なに、言うのよ。バッカじゃないの」と、口調が早口になっていた。
「そ、それより。ササさんも講義に出席するの?」
「そうなんだ。外に出たいとうるさくてさ。だったら、一人にさせるよりも一緒にいる方がトラブルも防ぎやすいだろ?」
「そういうことなんだ」
朝陽は特になにもない理由にほっとした。二人の姿が見えて、どういうことだと思ったのは内緒だ。
「けど、朝から知らん男に声をかけられたり、嫌な視線向けられたり、散々だよ。なぁ、なんか、いいアイデアないかな?」
そんなことは露知らず、巧は朝陽に先ほどの出来事を話す。
「そうね」
朝陽はササの姿を見やる。正直な話、今もササを中心ではあるだろうがこちらに視線を感じるのはたしかだ。お兄ちゃんなんて騒いでいたせいもあるだろうが、原因はササにあると思った。
「まず、服装を変えてみたらいいんじゃない?」
「服か」
朝陽の提案に巧は思案した。たしかに、ササの和服姿は注意されるものではないし、昔は普段着であったが、現代ではむしろ不自然であり、違和感があり、注目してしまうものだろう。だからといって、洋服姿のササを想像したらどうだろう。スカート、ジーンズ、ワンピース、清楚系、露出系、いろいろと想像しても、最終、声をかけられる回数、注目の視線は変わらないような気がした。
単純にササはそこにいるだけで中心なのだ、だったら、もうそのままでいいやと思うと同時に、巧には別の疑問が生まれた。
ササと出会ってまだ数日であるが、今着ている服以外は見たことがない。
より、注視してみる。
服にシミやしわはない。汚れている印象もなければ、臭ってもいない。問題ないのかもしれないが、やっぱり汚くないか?
「なにか、失礼なことを考えていますね?」
ササは巧の自分に向ける視線に不純なモノを感じ、ジト目で睨んでくる。
「い、いや、そんなことないよ。ただ、その服、ずっと着てるなぁって思っただけで」
「もしかして、私のこと、汚いとか思ってます?」
「え? いや、ハハハッ」
巧は嘘を隠すのが下手すぎた。
「失礼ですよ! 私は穢れなき存在なんです。不潔なんてものとは縁遠い存在なんですぅ。食品の化身になんてことを思うんですか。いくら温厚な私でも怒りますよ」
「わかった、わかったよ」
「いいえ、わかっていません。言うべきほどのことでもありませんが、私、水を使わなくても、身体や身に着けている物を清める能力くらい持っているんですよ」
「お前、そんな能力あるのかよ」
「そうです」
ササは自信満々に胸を反らす。
「他には、どういうのがあるんだ?」
壁をすり抜ける以外にもあった、人外の象徴みたいな能力に巧は興味を持った。
「そうですね。お酒を飲んだように、コップの中身を消す能力、人を見ただけで、この人はアルコールに強いか弱いかを見分けられる能力、お酒の製造年月や精米歩合が見ただけでわかる能力、そのお酒に合うおつまみが瞬時に見抜ける能力と、あと、巧さんにいろいろとおごってもらう能力がありますね」
使いどころが限られているうえに、使い道もあまりないものばかりだった。なにより、最後のは能力ですらない。
「それは役に立つのか?」
思わず口にしてしまった。
「当たり前です。私が雑酒を飲んでどうなるかは巧さん、知ってますよね? それに、お酒がまったく飲めない人に勧めたって、毒でしかありませんからね。それに、万が一、表示と違っていたら厳しく指摘しないといけませんし、私としては、そのお酒の味を高めるための料理も案内したいと思っています。だから、巧さん。援助お願いしますね?」
ササは手の平を重ね、それを頬に当てると、首を八度だけ左に傾ける。
おねだりポーズの完成だ。
「お前、それで俺がなびくとでも思ってるのか?」
心外だと言わんばかりであったが、ササは朝陽に視線を向け、当然とばかりに確認する。
「なびきますよね」
「なびくんじゃない」
二人とも簡単に肯定してきた。なにより朝陽に至っては「だって、大学入学した当初はかわいい子が少しでも自分に話しかけてくれただけで舞い上がってたじゃん。この前も、莉子が酔ってベタベタしてきただけでドギマギしてたし」と、不機嫌そうに、過去の事例まで持ち出していた。
「ほ、ほら、もう講義始まるぞ。先生も入ってきたし、朝陽も早く席につけよ」
このままでは分が悪いところでタイミングよく二限目の時間になっていた。不真面目でない朝陽は仕方がないといった表情で、いつもの自分の席へと向かっていき、巧は手持ち無沙汰なササにルーズリーフとシャーペンを貸してから、自身もテキストを取り出し、講義を受ける体制に入る。
二人が受けている講義は経営立地論という名前だけ聞くと仰々しいが、単純にはどこに店を立てれば儲けられるかという類の話で、講義は教授がマイクを用いながら、簡単な事例を説明しながら板書していくというスタイルで進められる。
大きな教室では珍しくない光景であるが、後ろの席の学生は総じて授業を受ける気がない。徹夜のせいか寝ている者、講義と関係ない宿題をやっている者、ひそひそと話をしている者、携帯を見ている者と、やっていることは多種多様であっても、基本的には不真面目でくくれる。巧もその環境下ではあまりやる気がでなかったが、横ではササが瞳を爛々と輝かせながら、教授の話をルーズリーフにメモしていく。
ササは日本酒復権のチャンスを見出そうとしているのだろう。その姿を横目で見ながら、巧も頬をぺちぺちと叩いて、教授の話を聞く体制に入る。
巧は自分でも知らないうちに、彼女のために行動しようかなという気持ちになっていた。
「あいつ、すげーな」
講義が終わるとササは一目散に教授のもとへかけていった。今の講義で疑問に思ったことを質問しているのだろう。普段、そこまで熱意のある学生がいないことを講義には真面目に出席している巧はよく知っている。教授もそんな生徒に喜んでいるのか、黒板になにやら書き込んでいきながらササに説明している。
「なかなか面白い話でした」
話を終えたササが巧の元に戻ってくると、満足気な表情で、自分のまとめた講義の内容を復習するかの如く、巧に話し始める。
「特に、商売は売れるところで展開しなければいけないが、必ずしもそれに凝り固まってはいけないというのは名言でした」
講義中では、新しいニーズを求めることの重要性も話していた。語られたのは、靴を履く習慣のない地域の人間に靴は売れるか、魚を食べる習慣のない国で寿司屋は繁盛するのかといったことを実際の成功例を元に説かれた。
「ほんとにそこでは売れないのか? 絶対に無理なものはあるけれど、需要がないからと深く考えずに可能性を否定してはいけない。まさに、今の私たちが考えなければいけないことです」
巧からもらったルーズリーフは真っ黒になっていた。そこには、ターゲットは若い人たち。場所は居酒屋と力強く丸印で囲まれている。
「みんな、ターゲットは若い人だと言っています。けれど、若い人向けにカクテルの提案をしたり、微発泡のお酒を作ったり、ほんとにそれでいいんでしょうか? もちろん、それも方策の一つとして、大事なことなんでしょうけど、やっぱり原点に帰りましょう。おいしいお酒を飲んでもらう。私はそうやって頑張ります」
ササは決意するが、それが簡単にできたら苦労はしない。巧だって、一介の学生ではあるが、経営の勉強をしている。この商売は需要があるんじゃないかと思っても、理想論から脱することができないのが現状だった。
「でも、どうするんだ? まず、俺らはおいしいお酒を飲めるとこを知らないぞ」
「そうなんです。まずはそこなんです。おいしいお酒はいっぱいあるんですが、残念なことにおいしくないお酒もいっぱいあります。なにより、ビールはほとんどのお店で生ビールが出てきますよね? 発泡酒や第三のビールが出てくることなんて、安い飲み放題か、ビールも置いてますけど、安く済ませたい人用に第三のビールも準備してますよってところぐらいじゃないですか。なのに、お酒は飲み放題では佳撰以下のクラスは当たり前として、普通でも、種類はないくせに上撰クラスは置いてない。そんなお店が多すぎます。それこそ陰謀を疑ってしまいますよ」
完全に愚痴になっていた。
「巧さん!」
「な、なんだよ」
「ここは若い人たちが多く集まる場所ですよね?」
大学のことを指しているのだろう。巧は頷く。
「なんか、飲み会を開いている集まりってないですか?」
ササの質問に巧は考える。そういうサークルがあったとは思うが、参加したことはない。というより、そのような集団にあまりいいイメージを持っていないのだが、「なにか心当たりがありますね?」なんて聞かれたら、なにも知らないとは言えない。
巧はカバンにいれていた学生手帳を取り出し、サークル・同好会一覧を確認し、掲示板へと移動してみる。そこには各々のサークルが自分たちの主催するイベントの掲示がされていた。
「なんですか、これは? すごくおもしろそうですね」
ササもいろいろな情報に、ついつい関係ないのもまで見てしまう。能楽や古美術に視線が止まるのは、そういうのが好きだからだろう。巧は「興味があるなら見に行くか?」と聞くが、「いえ、一番の目的ではないので」と我慢した。
巧は目的のサークルのポスターを見つけるとタイミングよく今日、イベントが開催されるらしい。
『みんなで仲良く、みんなで楽しく、人類皆兄弟姉妹』と書かれているポスターを見ると頭が痛くなってくる。
「ほんとにいくのか?」
「当たり前です。巧さんが行かなくても、私は行きますよ」
「わかったよ、行くよ。俺もちゃんと行くよ」
ササを一人で送り出すのはさすがに心配なので、巧は携帯電話を取り出し、責任者の連絡先へと電話した。
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