二合目 外へ出かけて日本酒を飲もう 2
「いらっしゃい!」
夕方になって、三人がやってきたのは『六つぼ』という居酒屋チェーンだった。一号店が六坪の敷地から始まったのが名前の由来だそうだが、今では全国に二百店舗を構え、店舗の広さも六坪を遥かに超えた。
三人は掘りごたつの席に通され、ここでもササがメニューを広げ、初めにアルコールのページを眺める。日本酒と書かれた箇所には一合、二合という表記のほかに、大手メーカーの少量瓶が数種類ほど掲載されていた。
「ここには満足です」
ササの一言に巧はほっとする。「私はこのあたりのことを知りませんので、巧さんがお店を決めてください」と急に言われたので、コンパなどで行ったことのある店から自分が良いと思うところを選んだ。昼の一件もあり、今度も失敗すればどうなるかと思っていたが、なんとかお眼鏡には適ったようだ。
「なんか慣れてるよねぇ」
ササの笑顔とは対照的に朝陽はどこか不満顔だった。
「どうしたんだよ?」
「べつにぃ」
巧は原因がまったくわからないために首を捻るしかない。
「案内の仕方がどこかスマートなのに、朝陽さんはイライラしてるんですよ」
朝陽に代わってササが答える。相手にリードして貰いたい。けれど、慣れているような仕草は嫌だ。この微妙な乙女心を巧がわかるはずはなかった。
「ところで巧さんは今日みたいに案内できるお店をいくつか持っているのですか?」
「いや、ぜんぜん知らないよ。ここでダメとか言われたらもうお手上げだ」
「巧さんも案内できるお店はいくつか用意しておくのがいいですよ。デート用のお店はもちろんのこと、大人数でいくお店、騒げるお店、静かなムードのあるお店、和食、洋食といったくらいにレパートリーを持っていないと、社会人で幹事になった時、困ります」
「そんな面倒なことまでしないといけないのかよ」
巧は辟易しながらも、「まぁ、まだ先のことだしどうでもいいか」と、問題は先送りにする。
「そうですか? 未来はすぐそこまで来てますよ?」
「そんなことより、なにか頼もうぜ」
未来に対してなにも考えたくない巧は、将来の話題が出ると、決まって、不自然に話題を変えるくせがついてしまっていた。
「そうですね、ここは私に任せてください」
店員が注文を取りにくると、ササはいくつかの料理と一本のお酒を頼む。もちろんグラスは二つ。
なんで二つなのかと、朝陽は昼から感じていたが、巧がなにも言わないので口にすることはなかった。
初めに三百ミリリットルの瓶がテーブルに届けられる。
「これは本醸造酒と呼ばれるお酒です。その中でも特に辛口ですっきりとした味わいのものを選んでみました」
ササは簡単に選んだお酒の説明をしながら、瓶のキャップを取り外し、二人のグラスに注いでいく。
トクトクトクッと小気味よい音が聴覚を刺激する。
「お酒は五感で楽しむものです。まずは音を楽しんでもらえましたか?」
思わず聞き惚れていた二人にササは満足する。
「では、乾杯しましょうか」
ササの合図で二人はグラスを持ち、ササは水の入ったコップを掲げる。
「カンパ~イ」
グラスを合わせると、特有の甲高い音が鳴り響いた。
お昼にも嗜む程度ではあるが、お酒を頂いている。巧にいたっては量こそ少ないが、今日で三度目の乾杯だった。
「いかがですか?」
一口飲み終わった二人にササが感想を求めてきた。
「思ってたよりおいしい」
朝陽の素直な感想にササは「思ってたよりっていうのは引っかかりますが、満足してもらえてなによりです」とホッとした。けれど、だからと言って、今日のこの場をただの飲み会にするべきではない、ササは明日からの方向性を決めるために朝陽を質問攻めにしていく。
「日本酒のイメージってどうですか?」
「周りで日本酒を飲む人っていますか?」
「買い物行くときにお酒売り場って見たりしますか?」
ササは日本酒を飲むのは男が多いと知っていたが、本能で女性にアプローチしていかなければいけないと思ったのか、朝陽の意見に耳を傾ける。
結果、わかったことは日本酒を飲んでいる人は少なく、あまりいいイメージを持たれていないということだった。
「でも、日本酒っていうくらいだからなくなったりはしないんでしょ?」
最後の楽観的な朝陽の一言で、ササは頭を抱え、現状を憂う。
「あぁ、嘆かわしい。日本酒なんてこの三十年、消費量は下がりっぱなしなんですよ。会社で言ったら、とっくに倒産してます。しかも、現在進行中で若い人からのイメージも良くないのに、楽観視されている。これは皆が危険だって思った時には回復不可能な程の状態ですぐに絶滅してしまいそうな勢いじゃないですか」
「ほ、ほら。だったら、いいイメージつけようぜ。身体にいいとか、なんかそういうの」
あまりの落ち込みぶりに巧も元気づけようと助け船を出そうとする。それを聞いてササの顔ははっきりと明るくなった。
「そうなんですよ、日本酒にもいいところはいっぱいあるんです。まずはなんといっても美肌効果ですね。日本酒を頂くと、血行が促進され、血の通りが良くなります。血の通りが良くなれば、肌全体に栄養が届き、ツヤ、張りが良くなります。もちろん、適量を飲んだ場合ですよ。適量っていうのは一から二合ほど。一合は百八十ミリリットルになります。それ以上飲むと悪酔いしやすくなるので、オススメはしませんが、そこで止めるのは無理な話なんですよねぇ。そもそも、誰かと一緒にいればついつい飲みすぎてしまいますし、仕方がないんですけど、酔っ払いの姿が悪いイメージも植えつけているので、撲滅させないといけないなとは思うんですけど、飲んでくれないのは死活問題でもあるから飲ませるしかないんですが」
またも、落ち込みそうなササに対し、巧は「へ~、そんな効果があるんだ」と、わざとらしく声を出す。
「そうです。ほら、私の肌を見てください」
そういって、ササは袖をめくって巧の目の前に自分の肌を露出させる。
「綺麗ですよね?」
「………」
それが、日本酒のおかげかどうかはわからないが、あまりにも近い魅力的な光景に巧も思わずドキドキしてしまう。
「なに、デレデレしてるのよ」
二人のやりとり、というより巧の反応が面白くないのか、朝陽は棘のある物言いをしながら、お猪口に入るお酒を飲み干した。
「朝陽さんは飲める口ですね。ささ、お注ぎしますので、また飲んでみてください」
にっこりとほほ笑むササの横顔がお酒を飲ませる小悪魔のようにしか見えなかった。
「すみません、このお酒もう一本とお水を三つ下さい」
ササは空いたお猪口を確認すると、追加の注文をとった。
「おい、もうそろそろいいんじゃないか?」
けれど、巧はその行動を制止させようとする。
「どうしてですか? これからが本番ですよ。ねぇ、朝陽さん?」
「そうよ。私は大丈夫だわ」
ほろ酔い具合の朝陽は楽しくなってきているのか、なにも考えずにササの言葉に乗った。
「いや、そういうことを心配してるわけじゃなくて」
巧は財布の中身を心配しているのだが、そんな格好悪い発言は口に出せない。
「なら、問題ないですね。はい、朝陽さん、どうぞ。ついでにお水も来ましたので、一緒に飲んで下さいね」
ササは空いたグラスにすぐさまお酒を注ぐ。
「??? なんでお水も飲むの?」
急に出てきた飲み物を朝陽は不思議に思った。学生の感覚では、水を頼むということはもうそろそろお開きであることを意味している。久しぶりに巧と一緒がたのしくなっていた朝陽は、もう少し、この時間を楽しんでいたかった。
「なんでと言われたら。これは和らぎ水というものだからです」
ササが二人に提供したのは、和らぎ水というただの水だった。「これはお酒を飲む途中に飲むことで、深酔いや二日酔いを予防するためのものであり、横文字ではチェイサーと言います」と、首を傾げる朝陽に対して、意味を丁寧に教えてくれた。
「巧さんもどこかでドヤ顔しながら、説明してみて下さい。あ、巧さんは酔わせてなんぼですから、酔いが醒めていく方が困るんでしたっけ?」
「困らねえよ」
巧はササの軽口をあしらいながら、水に口をつける。たしかに、少しだけ身体がスッキリした気がする。
「上手に酔うコツは飲み方にあります。深く飲んでこそ楽しいのかもしれませんが、おいしく料理を頂くためにも、飲み過ぎないためにも和らぎ水をどうぞ」
ササはそう言って、朝陽にも水を飲ませ、続けざまにグラスにお酒を注ぐ。
いくら水を飲んでもそれだけアルコールを摂取すれば意味がないのではないかと思うが、そこはお酒の精霊。相手が後悔するような飲み方はさせないだろう。
と、思っていた。
「た~く~み~も~、も~っと~、いっしょ~に~、の~も~お~よ~」
朝陽は完全にできあがってしまっていた。
「いや、もう飲むのは止めようぜ」
「しょ~なの~? ザ~ンネ~ン」
いつものキャラと違っている朝陽を見ながら、「おい、これは大丈夫なのか?」と、ササに耳打ちした。
「あ~、にゃんで、ササにかまうの~? もっと~、あたしにも、かまってよ~」
二人のやり取りを見ながら、朝陽はユラリユラリ揺れながら、普段は隠している自分の正直な気持ちを吐露してしまっていた。
「あらららら、巧さんも罪作りですね」
ササは含み笑いをしながら、巧をからかうが、返ってきたのは、「酔ってるだけだろ」という気のない言葉。
「なにを言いますか。アルコールはすごいんですよ。だって、酔うと本性が現れるんですから」
それでもにやにやを止めずに話しかけてくるササに対し、「お前、朝陽をおもちゃにして楽しいか?」と、睨んでしまった。
「あらら、そんなに怒らないで下さいよ」
ササはうつらうつらしている朝陽に自分の肩を貸す。スゥスゥと寝息を立て始めた朝陽に対し、「私もお酒を飲んでくれてとても嬉しいんですよ。だけど、少し飲ませすぎちゃいましたね」と、ササは朝陽の頭を軽く撫でる。
「今日のことは忘れた方がいいでしょうね。朝陽さんの隠したい気持ちまで晒してしまう必要はありませんから」
ぼそりと呟き、ササは巧に向き直る。
「だから、巧さんも今日のことは楽しい日だったくらいで、ほかのことは忘れてくださいね」
それだけ言って、ササは笑った。それが、ただの笑みでないことを巧は気づけない。
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